第11話「研究記録」
その夜、柊は玲のオフィスを訪れた。
残響管理局の東京支部。都心のビルの一角にある、こぢんまりとした施設だ。
「遅くまで悪い」
「いいよ。私も気になってたから」
玲は柊を会議室に案内した。
テーブルの上に、古びた資料が積まれていた。紙の書類——二十九年前の記録だ。
「これが、水無瀬颯太の研究記録。残響研究所のアーカイブから見つかった」
柊は資料を手に取った。
表紙には、『意識転写技術の基礎研究——不完全性定理の検証』と書かれていた。
「不完全性定理?」
「残響技術の根本的な限界を定式化した理論。お父さんは——その研究の中心人物だったみたい」
玲が資料のページをめくった。
「ここ。見て」
柊は指差された部分を読んだ。
『意識の完全な転写は、原理的に不可能である。なぜなら、意識の一部は——観測によって失われるからだ』
「どういう意味だ」
「意識をスキャンする行為自体が、意識を変化させる。だから、オリジナルと完全に同じコピーは作れない」
玲は説明した。
「残響は、常に『近似値』でしかない。これが、不完全性定理の核心」
柊は資料を読み続けた。
父の文章。父の言葉。二十九年前に書かれた、父の思考の記録。
『残響技術は、死者を甦らせる技術ではない。死者の「影」を作る技術である。影は本体ではない。だが、影にも——存在する意味があるかもしれない』
柊の手が震えた。
松田が言っていた言葉と——同じだ。
「父さんは——残響の限界を、誰よりも知っていた」
「そうみたい。そして——」
玲は別の資料を取り出した。
「これは、亡くなる数ヶ月前の記録」
柊は資料を受け取った。
日付は——柊が三歳の年。父が亡くなる直前だ。
『私は、取り返しのつかない過ちを犯したかもしれない。残響技術は——人々を救うために開発された。だが、それは同時に——人々を縛る鎖にもなりうる』
『死者の影に縛られ、前に進めなくなる人々。私は、そんな人々を生み出してしまった』
『私自身が——その典型かもしれない』
柊は資料から目を上げた。
「父さんは——何を言ってるんだ」
「わからない。でも——」
玲は考え込んだ。
「お父さんは、残響技術の負の側面に気づいていた。遺族が残響に依存し、前に進めなくなること。そして——」
玲は柊を見た。
「お父さん自身も、誰かの残響に——縛られていたのかもしれない」
沈黙が流れた。
柊は考えていた。
父が——誰かの残響に縛られていた。
それは——誰だろう。
祖父母か。友人か。それとも——
「父方の祖父母は——」
「調べた。お父さんが子どもの頃に亡くなってる。残響は——残ってない」
「じゃあ——」
柊は資料を見つめた。
父が縛られていた相手。それは——まだわからない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
父は——残響技術の危険性を知っていた。
だから——自分は残響にならないと、遺書に書いた。
母を——柊を——残響という鎖から、守るために。
◇
資料を読み終えた時、夜は更けていた。
「どう?」
玲が尋ねた。
「わからないことばかりだ」
柊は首を振った。
「父さんが何を考えていたのか。なぜ死を選んだのか。まだ——見えない」
「でも、一つはっきりしたことがある」
「何だ」
「お父さんは——残響になることを、自分の意志で拒否した。それは、残響技術を知り尽くした上での決断」
玲は柊を見つめた。
「残響が『本人』ではないことを、お父さんは誰よりも知っていた。だから——影を残すことを、選ばなかった」
柊は黙った。
父の選択。残響を残さないという選択。
それは——正しかったのか。
母は——父の意志を尊重し、残響を作らなかった。
だが、母自身は——残響を作った。
なぜだろう。
父の意志と、母の選択。その矛盾は——何を意味するのか。
「柊」
「何だ」
「お母さんの残響に——会わないの?」
柊は答えなかった。
二日間、柊は母の残響と対話していなかった。
「会いたくない——わけじゃない」
「じゃあ、何で」
「どう向き合えばいいか——わからないんだ」
柊は窓の外を見た。夜の街。無数の灯り。
「母さんの残響は——母さんの秘密を知らない。消去されてるから」
「ええ」
「でも、俺は知ってしまった。父さんの死の真実を」
柊は玲を見た。
「俺が知っていて、母さんの残響が知らないこと。その差は——何を意味するんだ」
玲は答えなかった。
二人の間に、沈黙が流れた。
「一つだけ、言えることがある」
やがて、玲が口を開いた。
「何だ」
「お母さんの残響は——お母さんの全てじゃない。でも、お母さんの一部」
「一部?」
「消去された記憶も、本来のお母さんの一部。それがなくても——残った部分は、確かにお母さんのもの」
玲は立ち上がった。
「残響に会うかどうかは、柊が決めること。でも——一つだけ覚えておいて」
「何だ」
「残響も——待ってる。柊に会えることを」
柊は——何も言えなかった。
母の残響。柊を待っている母。
柊は——いつまで、逃げ続けるのだろう。




