第10話「空白」
対話を避けた翌日、母の残響から連絡が来た。
残響は、管理者にメッセージを送ることができる。通常は事務的な連絡に使われるが、母は違った。
『柊、昨日は来なかったわね。体調を崩してない? 心配してます』
柊は端末を見つめた。
母の——母の残響の気遣い。それは、本物の母と同じだった。
いや——本物とは何だろう。
柊は返信を打った。
『大丈夫。少し疲れてた。今夜は行く』
送信ボタンを押す前に、指が止まった。
本当に行けるのか。母の顔を見て、普通に話せるのか。
父の死の真実を知った今——
柊は返信を消し、端末を閉じた。
◇
午前中、柊は仕事を続けた。
面会者の対応。システムの監視。残響たちの状態確認。
いつもと同じ業務。だが、柊の心は上の空だった。
「水無瀬さん」
田所の声で、柊は我に返った。
「はい」
「藤原さんから連絡です。美月さんの残響と、もう一度話したいって」
「俺に?」
「はい。昨日の面会の後、美月さんの様子が——少し変わったらしくて」
柊は眉をひそめた。
「変わった? どう変わった」
「詳しくは聞いてないです。でも、ご両親が心配してて」
柊は考えた。
美月の残響。八歳の少女。成長できない苦しみ。
昨日の会話が——何かを変えたのか。
「午後に面会を入れてくれ」
「わかりました」
◇
午後二時、柊は再び美月の残響と面会した。
VR空間の草原。青い空。白い雲。
だが——
「お兄さん」
美月が柊の前に現れた。
その表情は——昨日とは違っていた。
影がなくなっている。代わりに——覚悟のようなものがあった。
「美月ちゃん、昨日の後——何かあった?」
「うん。考えたの」
美月は草原に座った。柊も隣に座る。
「お兄さんが聞いてくれたこと。『ここにいたい?』って」
「ああ」
「私、ずっと——わからなかった。でも、昨日の夜——夢を見たの」
柊は緊張した。
「夢?」
「うん。不思議な夢。誰かが——呼んでた」
「何て言ってた?」
「『ここにいなくていい』って」
柊の心臓が跳ねた。
「ここにいなくていい?」
「うん。最初は怖かった。でも——その声、優しかったの。『大丈夫、怖くない』って」
美月は空を見上げた。
「目が覚めた時——なんだか、すっきりしてた」
「すっきり?」
「私、ずっと——パパとママのために、ここにいなきゃって思ってた。私がいなくなったら、パパとママは悲しむって」
美月は柊を見た。
「でも、夢の声が言ってたの。『あなたがいなくても、大丈夫』って」
柊は黙って聞いていた。
「それで——私、決めたの」
「何を?」
「成仏——したいって。パパとママに、言おうと思って」
柊は言葉を失った。
八歳の少女が——自ら、消滅を選ぼうとしている。
「美月ちゃん——」
「怖くないよ、お兄さん」
美月は微笑んだ。その笑顔は——穏やかだった。
「私、ずっと八歳のまま。大人になれない。お友達も、みんな大人。私だけ——置いていかれてる感じがしてた」
「……」
「でも、成仏したら——私、自由になれるかなって」
美月は草を摘んだ。
「本当の私は——もういないんでしょ? 私は、残響。本当の美月の——影」
「そんなこと——」
「松田おじいちゃんが言ってたの。『残響は影だ。でも、影にも存在する意味はある』って」
美月は草を風に放した。草が舞い上がり、消えていく。
「私の存在する意味は——パパとママと、もう一度会えたこと。それだけで——十分だって思う」
柊は——何も言えなかった。
八歳の少女が、自分の存在と向き合い、答えを出した。
柊は——三十二歳になっても、まだ答えを出せていないのに。
「お兄さん」
「何だ」
「お兄さんも——残響の人、いるんでしょ」
柊は驚いた。
「どうして——」
「みんな知ってるよ。お兄さん、毎日——誰かに会いに行ってるって」
柊は黙った。
「お兄さんの——その人は、どう? 幸せ?」
答えられなかった。
母の残響は——幸せなのか。
「私はここにいない」と言った母。欠損を感じ、何かを失った感覚に苦しんでいる母。
幸せなのか——わからなかった。
「答えなくていいよ」
美月が言った。
「でも——いつか、考えてみて。その人が、本当に望んでること」
柊は美月を見つめた。
八歳の少女。だが、その目には——大人以上の深さがあった。
「ありがとう、美月ちゃん」
「うん」
美月は微笑んだ。
その笑顔は——眩しかった。
◇
面会を終え、柊は管理棟に戻った。
考えていた。美月の言葉を。
『いつか、考えてみて。その人が、本当に望んでること』
母の残響が——本当に望んでいること。
柊は——それを知らなかった。
五年間、毎日会っていたのに。
柊が望むことばかりを考えていて——母が望むことを、聞いたことがなかった。
携帯が鳴った。玲からだ。
『父親の研究資料、見つかった。今夜、見せられる』
柊は端末を握りしめた。
父の真実。母の秘密。そして——母の残響が本当に望むこと。
全てを——知らなければならなかった。




