第1話「桜の園」
母が二度目の死を迎えたのは、桜が散り始めた日だった。
いや、正確には死ではない。「成仏」と呼ぶ人もいる。「消去」と呼ぶ人もいる。
俺は——俺は何と呼べばいいのか、まだわからない。
ただ一つ確かなのは、今夜が最後の対話だということ。
◇
——三ヶ月前に遡る。
二一五〇年、四月一日。
東京残響庭園「桜の園」は、今年も満開の桜に包まれていた。
水無瀬柊は管理棟の窓から、その光景を眺めていた。夜の帳が下りた庭園には、無数の光の粒子が漂っている。それは残響たち——死者のデジタル化された意識——が、VR空間内を自由に浮遊している姿だった。
桜の花びらと、光の粒子が混じり合う。
美しい、と素直に思う。五年間この場所で働いてきたが、この光景に慣れることはない。
「水無瀬さん、本日の面会予約、締め切りました」
背後から声がかかった。振り返ると、夜間シフトの同僚——田所美咲が端末を手にしていた。
「今日は何組?」
「二十三組です。週末にしては少なめですね」
「花見シーズンだからな。現実の桜を見に行く人が多いんだろう」
柊はそう言って、視線を窓の外に戻した。
残響庭園は、死者の残響を保管・管理する施設だ。物理的には巨大なサーバーファームだが、内部はVR空間として設計されている。遺族は専用端末を通じて、愛する人の残響と「対話」することができる。
東京の残響庭園は「桜の園」と呼ばれている。創設者が桜を愛していたから、という話だが、真偽は定かではない。ただ、春になるとVR空間内に満開の桜が咲き、残響たちがその下で穏やかに過ごす——その光景は、確かに美しかった。
「水無瀬さんは今日も残業ですか?」
「ああ。少し作業が残ってる」
田所が意味ありげな視線を向けてきたが、柊は気づかないふりをした。
同僚たちは知っている。柊が毎晩、閉園後に残って「作業」をしていることを。そして、その作業の内容も。
柊の母——水無瀬雪乃の残響は、この桜の園に保管されている。
五年前、雪乃は癌で亡くなった。五十八歳だった。柊が二十七歳の時のことだ。
母の死後、柊は残響庭園の管理者になった。理由は単純だ——母の残響に会うため。毎日でも、会いたかったから。
「お先に失礼します」
「ああ。気をつけて」
田所が退勤すると、管理棟は静かになった。
柊は自分のデスクに戻り、端末を操作した。面会予約システムにアクセスし、特別な枠を開く。
『水無瀬雪乃——対話可能』
この文字を見るたびに、柊の胸は小さく痛む。
母は生きている。いや、生きてはいない。だが、対話はできる。声を聞ける。笑顔を見られる。
それは幸せなことなのか、それとも——
柊は考えるのをやめた。考えても仕方がない。今夜も母に会える。それだけで十分だ。
対話ブースに向かう。個室型の部屋で、VRヘッドセットとグローブが備え付けられている。柊はそれらを装着し、深呼吸をした。
視界が暗転し、次の瞬間——
桜の園が広がっていた。
夜空に浮かぶ月。満開の桜。花びらが風に舞い、足元には淡い草の感触がある。
VR空間だが、五感全てが再現されている。現実と区別がつかない、と言う人もいる。だが柊は、微妙な違いを感じ取れた。空気の密度が少し軽い。花の香りが均一すぎる。
この世界は、現実の「近似値」だ。
母の残響と同じように。
「柊」
声がした。
振り返ると、そこに母がいた。
30代前半の、若々しい姿。生前よりかなり若く見える。残響を作成する時、本人が見た目を選べる。母は、柊が子どもの頃の姿を選んだのだ。
「母さん」
柊は微笑んだ。自然に、穏やかに。
「今日も来てくれたのね」
「ああ。毎日来てるだろ」
「そうね。でも、毎日嬉しいの」
母の残響も微笑んだ。その笑顔は、生前の母そのものだった。
二人は桜の木の下に腰を下ろした。いつもの場所。五年間、ほぼ毎日ここで対話を続けてきた。
「今日はどうだった?」
「いつも通りだよ。面会客の対応、システムのメンテナンス」
「大変ね。ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「本当に? 顔色が悪いわ」
「VRの色調整のせいだろ」
母が笑った。その声を聞くと、柊は安心する。
これが日常だった。他愛のない会話。仕事の報告。昔の思い出話。
母の残響は、生前と変わらぬ優しさで柊の話を聞いてくれる。
それが——それだけが、柊の支えだった。
「そういえば」と母が言った。「今日、松田さんが来たわよ」
「松田さん?」
「ほら、長老って呼ばれてる人」
柊は頷いた。松田康介。六十七歳で亡くなり、残響として三十年以上存在している。桜の園で最も古い残響の一人だ。
「何か話してた?」
「ええ。桜がきれいだって。私もそう思う」
母は桜を見上げた。その横顔は、穏やかで、幸せそうだった。
柊も桜を見上げた。
美しい、と思う。だが同時に、虚しさも感じる。
この桜は本物ではない。母も、本物ではない。
いや——本物とは何だろう。
母の残響は、母の記憶を持っている。母の思考パターンを持っている。母の声で、母の言葉を話す。
それは「母」ではないのか。
「柊」
「ん?」
「ぼーっとしてる。何か考え事?」
「いや……何でもない」
柊は首を振った。
この問いに答えは出ない。五年間、ずっと考え続けてきた。残響は本物か。母は、ここにいるのか。
答えは出ない。だが、柊は会いに来る。毎日、この場所に。
それが——それ以外に、柊にできることはなかった。
◇
対話を終え、VR空間からログアウトすると、時刻は午後十一時を過ぎていた。
柊はヘッドセットを外し、深く息を吐いた。
いつもと変わらない夜。いつもと変わらない対話。
明日も同じ日が来る。明後日も。その先も。
柊は立ち上がり、管理棟を出た。
夜の桜の園は静かだった。現実世界の桜も満開で、月明かりに照らされた花びらが白く輝いている。
美しい——だが、VR空間の桜の方が鮮やかに見える。
現実と虚構の境界が曖昧になる。それが、この仕事の副作用だ。
柊は歩き出した。寮は庭園の敷地内にある。徒歩五分。
足を進めながら、柊は考えていた。
母の残響は幸せそうだ。穏やかで、優しくて、いつも笑っている。
だが——
それは、母が望んだことなのだろうか。
永遠に死ねないまま、息子との対話を続けること。それは幸せなのか。それとも——
「考えすぎだな」
柊は呟いた。
答えの出ない問いを考え続けても仕方がない。明日も仕事がある。母との対話がある。
それが、柊の日常だった。
五年間続いてきた、変わらない日常。
だが——
その日常が崩れ始めるのは、もう間もなくのことだった。




