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悪役令嬢ですが、婚約破棄の原因がトイレ戦争だったので逆に清々しいです

作者: たかつど
掲載日:2025/11/11

 私は今、人生で最も切迫した危機に直面していた。


 トイレに行きたい。めちゃくちゃ行きたい。今すぐ行きたい!




 私の名前はリュシエル・ヴァン・エリュドール。ヴァリスト王国一の美貌を持つと評判の公爵令嬢である。


 ……いや、自分で言うのもなんだけど、正直どうでもいい。

「美しい」なんて言われても、朝起きたら顔が勝手についてるだけだし、褒められても「はあ、そうですか」としか思わない。




 しかし、トイレに行きたい。めちゃくちゃ行きたい。今すぐ行きたい!


 原因は明白だ。

 魔法学院の園遊会で振る舞われた「エルフ風豆のポタージュ」を、おかわりまでしてしまったからである。

 あれは美味しかった。

 美味しかったが……腸への刺激が予想以上だった!


「くっ……!」


 私は優雅な笑顔を保ったまま、内心では冷や汗をかきながら貴族専用トイレへと足を速めた。

 ドレスのスカートを翻し、まるで白鳥のように――いや、正直に言おう、ペンギンのように小走りで向かった。


 ところが。


「使用中」

「使用中」

「故障中」


 ……は?


 三つあるはずの貴族専用トイレが、全滅だと!?


 私の翡翠色の瞳が、絶望で揺らいだその瞬間――


「お、空いたぞ!」


 振り返ると、そこには婚約者である第二王子・セドリックが立っていた。

 金髪碧眼、爽やかな笑顔。いつもは「さすが王子様!」と周囲が騒ぐ彼だが、今の私には最大の敵にしか見えない。


 そして、私たちの視線は同時に――たった一つ空いたトイレの扉に注がれた。



「……リュシエル嬢、お先に失礼するよ」


 セドリックが爽やかに微笑みながら扉に手を伸ばした。


 ダメだ。


 私は反射的に彼の手首を掴んだ。


「それはどうかしら、殿下。私の方が明らかに切迫しておりますの」


「いや、僕の方が深刻だ! 今朝、間違えてドワーフ族の激辛チリスープを三杯も飲んでしまったんだ。腹の中で火山が噴火しそうなんだよ!」


「私だって豆スープを二杯も……! しかもエルフ風ですのよ!? あれ、魔力で発酵が促進されてるって知ってます!?」


「知らない! だが僕の方が先に手を伸ばしたはずだ!」


「いいえ、私の方が先ですわ! 貴族のレディに道を譲るのが騎士道でしょう!?」


 気づけば、私たちは二人ともドアノブに手をかけ、まるで聖剣を奪い合う勇者と魔王のように睨み合っていた。


 セドリックの額には脂汗が浮かび、私のこめかみには怒りで青筋が立つ。


「リュシエル、頼む……! これは王子の命令だ。扉を譲りたまえ!」


「王子命令でトイレを奪う気!? それ、歴史に残る汚点になりますわよ!?」


「汚点で結構! 今は背に腹は代えられない!」


「こちらだってそうですわ! 大公爵家の威信をかけて、このトイレは譲れません!」


 ぎりぎりと力比べをしていたその時――


「あの、こほん……では、私が代わりに……」


 ピンク色の髪をした、聞き覚えのある猫なで声。


 振り返ると、そこには男爵令嬢クラリッサ・ド・ピンクリーが、スカートの裾をつまんで上品ぶった笑みを浮かべていた。


 ……ああ、この女。

 最近セドリックと妙に親密な、例のピンク女である。


「ちょっと待ちなさい、クラリッサ!」


 私は反射的に彼女の手首を掴んだ。


 クラリッサが「きゃっ」と驚く中、私は低く、しかしはっきりと告げた。


「浮気は譲っても――トイレは譲れませんのよ」


 会場が、一瞬静まり返った。


 そして次の瞬間――


「ぶはははははっ!」


 周囲の貴族たちが、腹を抱えて爆笑し始めたのだ。


「……っ!」


 セドリックの顔が、怒りで真っ赤に染まった。


「皆の者、聞いてくれ!」


 彼は突然会場中に響き渡る声で叫んだ。


「この場を借りて、重大な発表をさせていただく! 私、セドリック・ヴァン・アルセナールは――リュシエル・ヴァン・エリュドール嬢との婚約を、破棄する!」


 どよめきが広がる。


 私は固まった。いや、腸の動きは止まらなかったが。


「理由は明白だ! リュシエル嬢は、トイレすら譲らない! 王子である僕にだぞ!? これはレディとしての寛容さを欠いている! 婚約者失格だ!」


「……はあ?」


 私は静かに、しかし全力で疑問符を浮かべた。


「たったそれだけの理由で婚約破棄なさるの……?」


「その『たったそれだけ』が、男にとってどれほど深刻か、君には理解できまい!」


「まあ、それはそれは。クラリッサ嬢なら、さぞ寛容でしょうね。ピンクのおつむに、お花畑の思考回路で」


「なっ……なんですってぇ!?」


 クラリッサが金切り声を上げる中、私はスカートを翻し、堂々とトイレの扉を開けた。


「ともかく、婚約破棄は承知しました。どうぞお幸せに」


 そして、扉を閉めた。


 バタン。


 その瞬間、会場には笑いと拍手が沸き起こった。


 トイレの中で安堵のため息をつく私。


(……ああ、間に合った。本当に、本当によかった……)


 そして同時に、心の底から思った。


 婚約破棄、最高じゃない!?





 その後、セドリックとクラリッサがどうなったか?


 答えは簡単。没落した。


 クラリッサの実家は借金まみれだったことが発覚し、セドリックは彼女への支援で王家の予算を使い込んだ疑いで謹慎。

 最終的には二人揃って辺境の氷湖監視塔へ左遷された。


「せめてトイレが二つある場所がよかったわ……」


 というのが、クラリッサの最後の名台詞だったらしい。


 一方、私はというと――


「失恋? いいえ、トイレに間に合っただけで充分ですわ」


 と、本気で思っていた。


 そんな私の前に現れたのが、灰色の魔法騎士と呼ばれる青年、テオドール・グレイフォードだった。


 平民出身ながら魔導試験を首席突破し、騎士団最年少指揮官。誠実で、優しくて、何より――


「あなた、トイレを譲れます?」


 と試しに聞いたとき、彼はにっこり笑ってこう答えた。


「もちろんです。あなたが笑顔でいてくれるなら、僕はどこでも構いません」


 ……ああ、この人、本物だ。


 恋の始まりは、華やかな舞踏会でも熱い告白でもない。


 時に、トイレと豆スープの悲劇を越えて訪れるものである。


 こうして私、リュシエル・ヴァン・エリュドールは、過去を笑い飛ばしながら新たな未来へと歩み始めた。


 魔法と剣、そして少しのユーモアに彩られた日々は――まだ始まったばかりである。


【完】

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