悪役令嬢ですが、婚約破棄の原因がトイレ戦争だったので逆に清々しいです
私は今、人生で最も切迫した危機に直面していた。
トイレに行きたい。めちゃくちゃ行きたい。今すぐ行きたい!
私の名前はリュシエル・ヴァン・エリュドール。ヴァリスト王国一の美貌を持つと評判の公爵令嬢である。
……いや、自分で言うのもなんだけど、正直どうでもいい。
「美しい」なんて言われても、朝起きたら顔が勝手についてるだけだし、褒められても「はあ、そうですか」としか思わない。
しかし、トイレに行きたい。めちゃくちゃ行きたい。今すぐ行きたい!
原因は明白だ。
魔法学院の園遊会で振る舞われた「エルフ風豆のポタージュ」を、おかわりまでしてしまったからである。
あれは美味しかった。
美味しかったが……腸への刺激が予想以上だった!
「くっ……!」
私は優雅な笑顔を保ったまま、内心では冷や汗をかきながら貴族専用トイレへと足を速めた。
ドレスのスカートを翻し、まるで白鳥のように――いや、正直に言おう、ペンギンのように小走りで向かった。
ところが。
「使用中」
「使用中」
「故障中」
……は?
三つあるはずの貴族専用トイレが、全滅だと!?
私の翡翠色の瞳が、絶望で揺らいだその瞬間――
「お、空いたぞ!」
振り返ると、そこには婚約者である第二王子・セドリックが立っていた。
金髪碧眼、爽やかな笑顔。いつもは「さすが王子様!」と周囲が騒ぐ彼だが、今の私には最大の敵にしか見えない。
そして、私たちの視線は同時に――たった一つ空いたトイレの扉に注がれた。
「……リュシエル嬢、お先に失礼するよ」
セドリックが爽やかに微笑みながら扉に手を伸ばした。
ダメだ。
私は反射的に彼の手首を掴んだ。
「それはどうかしら、殿下。私の方が明らかに切迫しておりますの」
「いや、僕の方が深刻だ! 今朝、間違えてドワーフ族の激辛チリスープを三杯も飲んでしまったんだ。腹の中で火山が噴火しそうなんだよ!」
「私だって豆スープを二杯も……! しかもエルフ風ですのよ!? あれ、魔力で発酵が促進されてるって知ってます!?」
「知らない! だが僕の方が先に手を伸ばしたはずだ!」
「いいえ、私の方が先ですわ! 貴族のレディに道を譲るのが騎士道でしょう!?」
気づけば、私たちは二人ともドアノブに手をかけ、まるで聖剣を奪い合う勇者と魔王のように睨み合っていた。
セドリックの額には脂汗が浮かび、私のこめかみには怒りで青筋が立つ。
「リュシエル、頼む……! これは王子の命令だ。扉を譲りたまえ!」
「王子命令でトイレを奪う気!? それ、歴史に残る汚点になりますわよ!?」
「汚点で結構! 今は背に腹は代えられない!」
「こちらだってそうですわ! 大公爵家の威信をかけて、このトイレは譲れません!」
ぎりぎりと力比べをしていたその時――
「あの、こほん……では、私が代わりに……」
ピンク色の髪をした、聞き覚えのある猫なで声。
振り返ると、そこには男爵令嬢クラリッサ・ド・ピンクリーが、スカートの裾をつまんで上品ぶった笑みを浮かべていた。
……ああ、この女。
最近セドリックと妙に親密な、例のピンク女である。
「ちょっと待ちなさい、クラリッサ!」
私は反射的に彼女の手首を掴んだ。
クラリッサが「きゃっ」と驚く中、私は低く、しかしはっきりと告げた。
「浮気は譲っても――トイレは譲れませんのよ」
会場が、一瞬静まり返った。
そして次の瞬間――
「ぶはははははっ!」
周囲の貴族たちが、腹を抱えて爆笑し始めたのだ。
「……っ!」
セドリックの顔が、怒りで真っ赤に染まった。
「皆の者、聞いてくれ!」
彼は突然会場中に響き渡る声で叫んだ。
「この場を借りて、重大な発表をさせていただく! 私、セドリック・ヴァン・アルセナールは――リュシエル・ヴァン・エリュドール嬢との婚約を、破棄する!」
どよめきが広がる。
私は固まった。いや、腸の動きは止まらなかったが。
「理由は明白だ! リュシエル嬢は、トイレすら譲らない! 王子である僕にだぞ!? これはレディとしての寛容さを欠いている! 婚約者失格だ!」
「……はあ?」
私は静かに、しかし全力で疑問符を浮かべた。
「たったそれだけの理由で婚約破棄なさるの……?」
「その『たったそれだけ』が、男にとってどれほど深刻か、君には理解できまい!」
「まあ、それはそれは。クラリッサ嬢なら、さぞ寛容でしょうね。ピンクのおつむに、お花畑の思考回路で」
「なっ……なんですってぇ!?」
クラリッサが金切り声を上げる中、私はスカートを翻し、堂々とトイレの扉を開けた。
「ともかく、婚約破棄は承知しました。どうぞお幸せに」
そして、扉を閉めた。
バタン。
その瞬間、会場には笑いと拍手が沸き起こった。
トイレの中で安堵のため息をつく私。
(……ああ、間に合った。本当に、本当によかった……)
そして同時に、心の底から思った。
婚約破棄、最高じゃない!?
その後、セドリックとクラリッサがどうなったか?
答えは簡単。没落した。
クラリッサの実家は借金まみれだったことが発覚し、セドリックは彼女への支援で王家の予算を使い込んだ疑いで謹慎。
最終的には二人揃って辺境の氷湖監視塔へ左遷された。
「せめてトイレが二つある場所がよかったわ……」
というのが、クラリッサの最後の名台詞だったらしい。
一方、私はというと――
「失恋? いいえ、トイレに間に合っただけで充分ですわ」
と、本気で思っていた。
そんな私の前に現れたのが、灰色の魔法騎士と呼ばれる青年、テオドール・グレイフォードだった。
平民出身ながら魔導試験を首席突破し、騎士団最年少指揮官。誠実で、優しくて、何より――
「あなた、トイレを譲れます?」
と試しに聞いたとき、彼はにっこり笑ってこう答えた。
「もちろんです。あなたが笑顔でいてくれるなら、僕はどこでも構いません」
……ああ、この人、本物だ。
恋の始まりは、華やかな舞踏会でも熱い告白でもない。
時に、トイレと豆スープの悲劇を越えて訪れるものである。
こうして私、リュシエル・ヴァン・エリュドールは、過去を笑い飛ばしながら新たな未来へと歩み始めた。
魔法と剣、そして少しのユーモアに彩られた日々は――まだ始まったばかりである。
【完】




