湿った舌
まだ十歳だった時の話だ。
僕は北海道の酪農一家の末っ子として生まれた。外で遊ぶよりも、本を読むことを優先にしてしまうほどに内気な子供だった。
その日は、冬休みの時期だったこともあって、長女と次女の二人は友人の家にお泊りで外出していた。両親と祖母は牛舎でいつも通り仕事で、僕だけが留守番。酷く心細かったのを覚えている。それでも寂しいとは思うことはなかった。
家で飼っている愛犬二匹、小さなチビとその父犬であるゴンの二匹に挟まれていたからだ。チビは伸ばしている僕の足、ゴンはお腹に顔を乗せて、枕にしていたのを覚えている。
趣味である読書ができないために、ゴンに他愛のない話をおしゃべりしていた。
「おばぁちゃんがね、お化け出ちゃうから、外に出るなっていうんだよねぇ。ゴンの散歩もしたらダメなんだってさ。ごめんね」
ゴンのふさふさとした短い毛並みが、気持ちよくて撫でまわしていた。嫌な顔もせず、尻尾を振り続けて、ボクの話を聞いてくれるから、親たちが牛舎に行ってもすぐに安心することができた。
居間の大きな窓から、静かに雪が降り積もる景色を眺めながら、ぼんやり時間が過ぎるのを愛犬たちと待ち続けていた。
「でもさ、冬の夜は嫌いなんだよね。自分の足音が聞こえるしさ、後ろに何かついてきてそうで、こわいんだよ」
真冬の夜は、僕はとても嫌いだった。外に出れば、音が聞こえない。後ろにいつも何かが付いてきているみたいに、気配があった。ずっと見られていることが続いていて、一人で外に出歩くことすら、嫌だった。
「ゴンとチビがいたら、怖くなくなるからさ。大丈夫だよね」
留守番している”今”が、怖くなくなるように。怖いを、誰かに教えるのは僕にとっての、勇気を作るための行動だった。
「ねむいねぇ」
そのうち話すこともなくなって、愛犬たちの眠気がうつった僕は、ソファーに横になって眠ってしまおうかなと思っていた。夜ご飯は、カレーかな。一番風呂はきっと父さんだろうなって。それで起きる時はきっと、牧草臭い親が笑いながら揺すってくるのを期待しながら瞼を閉じた。
チビたちと一緒に寝息をたてることができなかった。
真っ暗でないと寝れないたちで、最初は電気を消してないから、寝れないのかなと思った。
ゴンに避けてもらい、チビにごめんねをした後、眠って動かない子犬を持ち上げた。抱っこしながら、居間の電気を消して、ソファーに戻ろうとした。
「モォー」と牛の鳴き声のように聞こえた。ずいぶんと近くから聞こえたものだから、牛が牛舎から脱走したのだろうかと思って、私は大窓を覗いた。
曇ったガラスを袖で拭った先には、真っ白な世界がみえた。道路を挟んだ先には、牛舎がある。お父さんたちは、こちらへと来る気配はなさそうだ。
「……いない?」
どこをみても、牛はいない。脱走しているわけではないのか。安心して、目を離そうとして、首を傾げた。
僕が住むのは、北海道の集落の外れだ。両親と祖母、私と二匹の愛犬。それ以外は誰もいない。
誰かが来るわけもない場所に、足跡があった。
こちらを対面するように、四つのへこみがうまれていた。
じっとこちらを眺めるように、立っているかようで、全身が粟立つような感覚に襲われた。
「ぇ」
普通の人間なら見えるはずの場所にいたというのに、気づけなかった。
さっきまで、外は眺めていた。愛犬たちと一緒に。
なのに?
それでは、まるで、幽霊だって、おもって。
急いで電気を付けようと、スイッチを何度も押した。
明かりがつかなかった。ストーブも知らぬ間に消えていた。
部屋は暗くて、愛犬の名前を呼び続けた。
「ゴン、ゴン!」
呼べば、すぐに頬を舐めてくれる。それに大きくて安心できる。ゴンが来てくれることを待ちながら探した。
「ゴン。おいで。きてよ」
それなのに全くとして来てくれなかった。
暗闇という恐怖が襲ってきて、心臓が飛び出るそうになるぐらいに、跳ね続けていた。
「ゴン!」
叫ぶように大声で呼ぶ。
ゴンは老犬で耳が悪くなったせいかもしれない。僕が呼べばすぐにくる。一度も裏切られたことはなかった。
「おねがいだから、きてよ」
泣き出しそうな声で呼んでも、一向に来ない。床を伝うようにソファーまでついたというのに、どこにも愛犬の呼吸が聞こえなかった。ソファーに手を伸ばして、さっきまでいたであろう場所に手のひらを近づけた。
生暖かな温もりがあるだけで、姿も形もなかった。
窓を開けていないのに、部屋はどんどんと寒くなって、息がするのもとても苦しくて、「きてよぉ」
暖かな液体を眼から零してしまった。
ソファーから、真横にあるストーブの前へ。
ストーブ前から、玄関前に繋がる扉へ。
玄関を開けようとして、真っ暗な何かが後ろに立っている気配があった。
そこにいるのだけが、なんとなくわかった。
振り返って、僕は「ゴンなの?」
返事はなかった。尻尾が降っているような、音だけは聞こえた。
ザラザラとした舌で、頬は舐められた。湿った臭いの吐息がした。
あぁ、ゴンだって思った。
舐めた相手を抱きしめようとして。
手を伸ばして。
身体を触れた。
とても、冷たかった。
雪で固められたようで、身体が凍らされたような硬さで、愛犬の毛並みではなかった。
「ぁ」
チビは私の腕に抱いていた。なのに、どうして、いなくなくなった。ゴンも、私の後ろをついてきていた。呼んだとき駆け寄ってきてくれるはずの二匹――
じゃない。
それじゃあ、ここには、僕と。
湿ったい息を吐く、それは。
叫んだのかもしれない。
押し飛ばすように、離れて、相手に背を向けて、玄関の扉を開けようとした。
すぐに、からだをつかまれて、脇をまきつかれた。
ぐにゃぐにゃとした、気持ちの悪い感触のある何かに舐めまわされ、気持ち悪さを感じながら、僕は。
正直に言えば、覚えているのはここまでだ。
それからのことは何も思えていない。
目を醒ました時、僕はソファーの下で倒れていた。父さんが言うには、愛犬たちは玄関に閉じ込められていたらしい。玄関を開けたと同時に、二匹とも僕の近くで悲しそうな声を出しながら鳴いていたとのことだ。
一体、なにをされたのかは、よくわからない。
目を醒ました僕の服装はひどく乱されていた。まるで、服の上から舐めまわされたようだった。そして、服から出ていた素肌は唾液が渇いたかのような異臭がしていた。
もしかしたら、僕は味見をされていたのかもしれない。恐怖で泣き出した子供を食べるために。
答えは分からない。
"あれ"を思い出しそうになってしまうようで、僕は留守番と仔牛を触ることも見ることも体が震えてしまって、酪農の手伝いが出来なくなった。
僕が忘れたくて仕方ない夜の話だ。
(了)