ネズミ王女と熊騎士令息 〜婚約破棄したおてんば王女が、幼馴染の堅物騎士を恋に落とすまで〜
「ごめんなさい、あなたとは結婚できないわ。婚約、破棄させてもらうわね」
ある日、薔薇の花が咲き乱れる長閑な庭園で放たれたその一言に、空気が凍りついた。
白く魅力的な長いしっぽを揺らしながら微笑むのは純白の髪に赤い瞳の白ネズミ獣人の少女。まるで明日の予定でも告げるような、そんな軽い口調であった。
彼女と対面する侯爵令息――たった今まで婚約者だった彼は、あまりの驚愕にしばらく沈黙した後、口を開く。
「なぜですか、ネーナ様。僕に何か不足があったのならお詫び申し上げます。ですから婚約は……」
「違うわ。ただ、わたくしはわたくしの心に素直でいたいだけ。ネズミ獣人の短い命を思い切り生きたいの。王族や貴族だからって、好きじゃない人――もちろん恋愛的な意味よ――と結ばれなければいけないのはおかしいと思うのよ。
この気持ち、あなたにならわかるでしょう、チャック?」
チャックと呼ばれた侯爵令息は、何と答えたらいいのかわからない様子で黙り込む。
きっと反論できないのだろう。小型の犬人族である彼の犬耳が震えている。
彼の狼狽えっぷりを見ていられなくなった私は、仕方なく、控えていた背後から姿を現した。
「……ネーナ殿下、お戯れはおよしください」
「あらクマール。わたくしが冗談で言っていると思っていて? わたくしはいつも本気なのよ」
私の方を振り返りながら、白ネズミ獣人の少女――この獣人国の第一王女であるネーナ殿下が私を振り返り、拗ねたように言った。
私のゴツゴツとした両手にすっぽり収まってしまいそうなネーナ殿下は、小さくて非常にお可愛らしくいらっしゃる。
だがそれを武器に何でもわがままを通そうとするそのおてんばさには頭を抱えざるを得ない。
「今回は度が過ぎます」
「そうかしら?」
ふふっと笑い、ゆらんゆらんとしっぽをくねらせる彼女は、私の注意などそっちのけで侯爵令息に向き直る。
そして改めて告げた。
「後日、婚約破棄についての書類をお送りするわ。
慰謝料はわたくしがきっちり払います。……これまで散々お茶会に付き合わせたことへのお詫びね」
侯爵令息のチャック様は、ややあって頷く。
そうしてこの日のお茶会はお開きとなった。
私が専属護衛騎士としてお仕えするネーナ殿下は、おてんば王女と有名だった。
幼い頃は皆が皆彼女を止めようと必死だったが、今では何を言っても無駄だとわかり切っているから半ば放置されているほどの奔放さである。
例えば、お忍びと称しては荒くれ者の冒険者たちに紛れて旅をしたり。
王家への謀反など腹黒いことを考えている貴族家に首を突っ込んでは何食わぬ顔で証拠を掴んだなんてこともあった。
小さい体では信じられないほどの様々な偉業を成し遂げると共に、私を翻弄し続けるのがネーナ殿下の常だ。
ネズミ獣人は繁殖力が高く栄える反面、他の獣人に比べて平均寿命が短い傾向にある。その人生を思い切り生きたいのだと彼女はしきりに口にし、やんちゃを繰り返した。
そんな彼女を精一杯支えてきた私だったが、まさか彼女が三年間も続いていたチャック様との婚約を破棄するなど思ってもみなかった。
「なぜなのです、ネーナ殿下。チャック様はネーナ殿下に尽くしてくださっていたではありませんか」
「だって彼、テリアのことが好きだったでしょう」
当たり前のように言うネーナ殿下だが、そんなのは初耳だ。
テリアというのはとある伯爵家の令嬢で、ネーナ殿下とも親しい。テリア嬢は大型犬の獣人であり、チャック様とも交流があったということまでは私も把握している。
だが彼らがそういう関係だったとは一度も聞いたことがなかった。
「あの二人、とてもお似合いなんだもの。わたくしに縛られて本当の想いを胸に押し込めさせたままで結婚するなんて申し訳ないじゃない? だから婚約破棄したの。本当はもう少し早くするつもりだったのだけれど、父の説得が難しくて遅くなってしまったわ」
国王陛下は決して娘に甘いわけではない。
それでも力ずくで意見を押し通してしまうところは、ネーナ殿下がおてんば王女たる所以だった。
「なら、ネーナ殿下はどうなさるのですか。周辺国からの求婚はチャック様との婚約を理由に過去に全て断っておいでです。このままでは嫁ぎ先が……」
「何を言っているのよ」だが、ネーナ殿下は何の心配もなさそうな顔で笑った。「添い遂げたい相手なら、一人だけに決まっているでしょう」
彼女が指しているのが一体誰かわからず、答えに困る私。
するとネーナ殿下の小さな体がするするっと私の膝の上に乗ってきて、胸をポンと叩きながら堂々と宣言した。
「クマール、わたくしの愛する騎士様。わたくしと結婚してください」
私は言葉を失った。
どうして今、求婚されているのかが、さっぱりわからない。
私はネーナ王女殿下の護衛騎士だ。小さな彼女を守るには獣人の中でも一番図体の大きい種族である熊獣人の私が良いだろうと、国王陛下が直々に選んでくださった上で引き合わされたのが私とネーナ殿下が互いに七歳の頃だ。
それから十年間、私はネーナ殿下の傍にあった。
すばしっこい彼女を追いかけ、どんな無茶な命令にも従い続け、彼女の護衛騎士として相応しくあろうと努力をし続けた。
だが、それだけだ。
それだけのはずなのに。
「いけません、ネーナ殿下。私は護衛騎士、あなたは第一王女殿下なのですから」
「堅物なあなたならそう言うと思っていたわ。身分差なんて百も承知よ。でも、クマールだって次男とはいえ伯爵家の令息でしょう」
確かに私は、騎士の家系の弱小伯爵家出身だ。
しかし令息らしいところなんて何もない。騎士としての礼節やマナーは知っているが、夜会でダンスなど踊れるはずもなかった。
求婚されてすぐこそ動揺したが、しばらく経って落ち着きを取り戻した私はこれはあくまでネーナ殿下が私を揶揄っているのに違いないと考える。
チャック様とテリア嬢のことを思って婚約破棄したことに同情されぬよう、私などに求婚をして誤魔化しているのだろう。
「……お断りいたします。私のようなしがない騎士風情ではなく、ネーナ殿下にはもっと相応しい方をお探しいただければ幸いです」
深々と頭を下げると、不満そうに赤い瞳を鋭くしたネーナ殿下がため息を吐いた。
「わかったわ。あなたがどれだけ堅物なのかがわかった。仕方がないわね、わたくしがあなたを惚れさせてあげる」
「――――」
「せいぜい明日からを楽しみにすることね」
その一言にとてつもない嫌な予感を覚えながら、私は頷く他なかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「クマール、わたくしの騎士様、今日はデートに出かけましょう」
翌日の朝早く、私がネーナ殿下を起こしに行くと、すでに目を覚ましていたネーナ殿下は歌うように言った。
デートとは庶民がよく行うことだと聞いたことがあった。もちろん恋人同士で、である。
「……ネーナ殿下、新たな縁談を探しませんと」
「いいのいいの、そんなことは。わたくしについていらっしゃい」
朗らかな笑みを見せながら、小さな体では信じられないほどの速さで駆け出してしまうネーナ殿下。
ネーナ殿下は寝間着姿だ。さすがにあれで外に出させるわけにはいかない。
私は仕方なく後を追い、廊下の中途で私を待っていた彼女を捕まえる。そしてネーナ殿下のお願いを聞いてデートに付き添うことになってしまったのだった。
そして数時間後――。
「楽しいでしょう、デート」
「私はただ、ネーナ殿下をお護りしているに過ぎませんので」
「つれないわね。まあ、そんなことを言いながらこうしてついて来てくれる優しさが好きなのだけれど」
そんなことを言い合いながら、私とネーナ殿下は庶民が行き交う街の中を歩いていた。
と言っても、ネーナ殿下は非常に小さいので他の通行人に踏み潰される危険があるため、私の掌に乗せている。
彼女の細長いしっぽが掌の上を揺蕩い、私を誘惑しているようにも見えた。
ネーナ殿下の行き先指示に従い向かった先は、小さなカフェだった。
よく貴族がお忍びで集まるような、そこそこ気品がありながら平民でも立ち寄れる、そんな店である。
私はネーナ殿下とその店に入った。
うっかり毒が入っていたりするといけないので、私がまず毒味のためにティーカップの中の紅茶を飲む。それからネーナ殿下にカップを渡した。
「これって間接キスということになるのかしら。どう思う?」
楽しげに笑いながらネーナ殿下が言ったが、キスなんて冗談じゃない。
私はただ毒味をしたまでのことだ。王族であるネーナ殿下にそういったいやらしい感情を持てるはずがない。
「揶揄うのはおよしください」
「揶揄ってはいないのだけれど。あら、クマール、全身の毛が逆立っているわよ? もしかしてドキッとしちゃった?」
「…………」
私はネーナ殿下の戯れに沈黙を返し、それからしばらくネーナ殿下とお茶を共にした。
ネーナ殿下が妙なことばかり言うものだから紅茶の味はよくわからなかった。
「美味しかったわね。次、どこへ行く?」
「帰りませんと国王陛下が心配なさいます」
「父はすでに言いくるめてあるから大丈夫よ。母なんて、応援してくれているわ? 『心のままに好きになさい』って」
それは応援ではなく、何を言っても無意味だということなのでは。
喉元まで出かかった言葉をグッと呑み込んだ。
私はその日、ネーナ殿下に指示されるままにデートスポットと呼ばれる平民の恋人たちに人気があるという場所を巡りまくって、日が暮れる頃に王城へ戻った。
ギリギリ夕食に間に合ったのは幸いだった。その時間を越えれば、いくらネーナ殿下が事前に国王陛下を説き伏せていたとしても騒ぎになっていたに違いない。
夕食を終え、夜。
就寝なさるネーナ殿下を自室へお連れし、今日の職務を終えようとしていた私は、ネーナ殿下に「ねえ」と呼び止められた。
「何でございましょう」
振り返ると、ネーナ殿下がスルスルと私の肩口まで登ってくる。
そんなところまで登らなくても聞こえますよ――そう言おうとした瞬間だった。
「――わたくしのこと、好き?」
艶っぽく、静かで甘やかで鼓膜をぞくぞくさせるような、そんな声が耳元から聞こえてきた。
慌てて己の肩に乗るネーナ殿下を見やれば、彼女はほんのりと頬を桜色に染めていた。
――ああ、なんて愛らしい。
一瞬そう思ってしまってから、私は凄まじい罪悪感に囚われた。
ネーナ殿下の私への情など一時的な気の迷いか、あるいは私を揶揄っているに過ぎない。なのに私はなんということを。
しかしそんな内心の逡巡を見せることなく、私は答える。
「お答えできかねます。私はあなたの、忠実なる騎士ですので」
「……そう。じゃあ、また明日ね」
少し残念そうに、しかし瞳の熱は失わぬままそう言って、ネーナ殿下は私の体から飛び降りていった。
また明日、ということは、おそらく明日もネーナ殿下のおもちゃにされるに違いない。しかし私は彼女の騎士なのだから仕方なかった。
「おやすみなさいませ、ネーナ殿下」
私は部屋を後にした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その日からもネーナ殿下の熱烈なアプローチは続いた。
デートと称して色々なところを連れ回されたり、ネーナ殿下の手作りクッキーを無理矢理食べさせられたり……。
どれも私の好感度を上げようと考えた作戦のようだ。
どうやらネーナ殿下は本気らしい――三日目くらいからようやくそれを認めた私だったが、それでも受け入れられるものではない。
そのうち飽きるだろうという淡い期待にかけて、私はネーナ殿下の求婚を断り続けている。
チャック様と婚約することになったらしいテリア嬢は、度々お茶会を開いては「お似合いのお二人ですね」と言って笑う。
おそらくネーナ殿下は彼女にだけは婚約破棄の本当の意味を明かしているのだろう。ネーナ殿下がテリア嬢を使って私を追い詰めるつもりなのは間違いなかった。
だが私はその程度のことで屈したりはしない。意志を強く持ち、あくまでネーナ殿下の騎士という立場を守り続けた。
――もしもネーナ殿下がこのまま行き遅れになってしまったら、どうして責任を取ればいいのだろう?
そんな考えがふと頭を掠めては、思わず唸り声を上げてしまう。だがいくら考えても結局は見守るという選択肢しか思い浮かばない。
ネーナ殿下がもう少し聞きわけのいい王女なら良かったのに、と心底思った。
「……何をうかない顔をしているのよ、クマール?」
さすがに「あなたのせいですよ」だなんて馬鹿正直には答えられない。
「別にそんなことは。ネーナ殿下、わざわざ森にやって来て、どういうおつもりなのですか」
「森ということは、わたくしとクマール以外に誰もいないわけでしょう。森で二人きり、年頃の男女がすることといえば決まっているとは思わなくて?」
「恋愛劇の見過ぎです」
ネーナ殿下がデートと称する奇行を繰り返す中で、私は何度も恋愛劇の舞台に連れて行かれた。
その中で森で恋人同士が唇を重ね、それ以上の行為に及ぼうとするシーンがあったのだが、もちろん私はそんなことはしない。
「ふふっ、冗談よ冗談。でも人目のないところならクマールといくらベタベタしてもはしたないと口うるさく言われないで済むでしょう?」
そう言いながらぎゅっと騎士服を着た私の胴体にしがみついてくるネーナ殿下。
そのまま彼女は私の体中を小さな足で駆け回る。くすぐったさに思わず笑いが込み上げ、私は情けなくも四肢をくねらせて身悶えてしまった。
「おやめっ、おやめください、ネーナ殿下」
「どうしてよ。小さな頃はよくくすぐり合いっこで遊んでくれたじゃない」
「いつの時の話です。今は私もネーナ殿下も互いに十七。来年になれば成人を迎える歳なのですよ」
「そんなの関係ないわ。何歳になってもわたくしはわたくしだもの!」
いつもこうだからネーナ殿下は困るのだ。
長いしっぽで私の胸あたりをくすぐりながら、ネーナ殿下は私の鼻上に引っかかり、座り込むと、私と視線を合わせる。
「あなただってそうでしょう、クマール? あなたの本当の気持ちがあの時から変わっていないことなんて、わたくしはお見通しなんですからね」
その一言に、私はぎくりとなる。
彼女が口にした『あの時』について、覚えがあった。あり過ぎた。
「……誰しも、変わるものですよ」
思い出すのは、十年前のこと。
まだ恥も外聞もなく、剣を振るくらいしかしたことのなかった七歳の頃の話だ。
ネーナ殿下との初めての顔合わせが行われた際、それをてっきり騎士ではなく伯爵令息として、つまりお見合いという意味だと思い込んでいた私は、こんなことを彼女に向かって放ってしまったのだ。
『……ネーナ殿下、お嫁さんになってください』
ふわふわとした可愛らしい白髪、つぶらな赤の瞳。
それだけではなく、私の膝丈くらいしかない小さな体が、私を一瞬にして魅了したのであった。
しかし、私と違ってしっかり立場を理解していたのであろうネーナ殿下はくすくすと笑いながら、こう返した。
『馬鹿ね、わたくしの騎士様は』
それが私の初恋。
――そして初めての失恋の瞬間でもあった。
それからはがむしゃらに学び、礼節を身につけネーナ殿下の騎士という役目に徹し続け、十年が経ったのだった。
それを思い出しながら、私は強く奥歯を噛み締めた。
「ネーナ殿下は」
「何?」
「ネーナ殿下はどうして、私のことをそんなにも目にかけてくださっているのですか」
聞いてはならないと思っていた。
でも、気づいたら私はネーナ殿下にそう問うてしまっていた。
「……そんなの決まっているでしょう?
わたくしに付き合ってくれるのなんて、あなたくらいしかいないもの」
ネーナ殿下はすくっと立ち上がり、胸を張って言った。
「もちろんそれだけじゃないわ。あなたが面白いからよ。
普通、王女から求婚されたら戸惑うそぶりを見せながらも受け入れるのが普通じゃない? なのにはっきり断るなんて、なかなかできる決断ではないと思うの。
そうね、他には……あなたのゴワゴワした手の感触が好き。わたくしが城を抜け出そうとすると捕まえてくれるでしょう? それがわたくし、大好きなの」
ネーナ殿下はそれから、私の好きな部分を一つ一つ挙げていった。
とても愛おしそうな目で。大切なものを語る声で。
そして最後に、言うのだ。
「だから……結婚しましょう?」
――ああ。
私とネーナ殿下は今、文字通り目と鼻の先にいる。
本当に近い。ネーナ殿下の息が、私の鼻をくすぐっている。
なのに彼女の想いを受け入れるわにはいかない。私と彼女は、住む世界が違う人間なのだから。
「寒くなってきましたね、帰りましょうか、ネーナ殿下」
「そうやってはぐらすの、感心しないわ」
「断っても聞いてくださらないのでしょう」
断ってもダメ、はぐらかしてもダメ。それなら一体、私にどうしろというのだろう。
「受け入れてしまえばいいんじゃないか」と一瞬思いかけ、やめる。
騎士風情の私が第一王女殿下の花嫁? 認められるわけがない。ずんぐりむっくりで、ネーナ殿下をお護りするしか能のない――そんな私が。
「……私は、殿下に相応しくありません」
だからキッパリと私は告げる。
「ですからネーナ殿下との婚姻はできかねます」
「そう。じゃあ本当にわたくしがよそへ嫁いで行ってしまっても、それでいいの?
そうすればあなたはもうわたくしの護衛騎士ですらなくなるのよ。わたくしとあなた、二度と会えなくなるかも知れないのよ」
「…………」
「人族の国の王子がね」と、ネーナ殿下は彼女にしては暗い声で話し始めた。
「わたくしに求婚してきているの」
「それは良かったではありませんか」
まだ縁談が残っていたなんて、驚きだ。
人族の国というと、ここから遠く離れた場所にある大国だ。今までもそこからいくつか縁談が来ていたが、私が口を挟む暇すらなく断っていた。
ならなぜ、そんな真剣な顔で私に言ってくるのだろう?
私は嫌な予感に、背筋をぶるりと震わせる。
「人の国に嫁いで来いって。愛玩動物として飼ってやるから……と言うのよ。断れば、獣人国ごとめちゃくちゃにするつもりらしいわ。
馬鹿よね、本当に。わたくし、逃げてやろうと思っているのだけれど、無理かも知れないわ」
あまりのことに、声が出なかった。
なんだ、それは。知らない。
「一ヶ月後。一ヶ月後に嫁がなければならないのよ、人の国に。
あなたはそれでもいいの、クマール? ねえクマール、わたくしの騎士様。お願い、わたくしを助けて……」
先ほど求婚した時とはまるで違う悲痛な声音だった。
赤い瞳を揺らし、心からの懇願を込めて、ネーナ殿下は――私の姫君は、私を見つめた。
卑怯だ。
ネーナ殿下は本当に卑怯だ。
一目で私を恋に落として。
失恋し、諦めてチャック様と彼女の幸せな未来を見届けようと決めていた私の心を揺らし。
そしてたくさん可愛い姿を見せて、愛を囁いて……最後には泣き落としに来るなんて。
こんなの、惚れないわけがない。
好きにならないわけがないではないか。
もう、気持ちを押し殺すのは限界だった。
だから――。
だから、私は。
「仕方がないお方ですね。わかりました、ネーナ殿下をお護りするのが役目ですから、引き受けさせていただきましょう。そして殿下を私の花嫁にさせていただくことも」
私の言葉にネーナ殿下は「……本当に?」と問い返す。
私が頷くと、彼女は目にうっすらと涙を浮かべながら微笑んだ。
「馬鹿ね、わたくしの騎士様は。――花婿になるのはあなたの方でしょう?」
私に初めての失恋を味わせたあの言葉とほとんど同じ。
なのに私の胸は、こんなにも熱い。
鼻先にいたネーナ殿下を摘み上げ、胸に抱き寄せる。
彼女の毛並みはもふもふで、触れるだけで癒される。今だけは何の遠慮もしないと、幼い頃のように彼女を撫でくり回した。
「あはっ、はははっ、キーッ! ふは、やり、やり過ぎよっ」
キィキィと鳴くネーナ殿下はとても可愛らしく、思わず手が止まらなくなってしまったのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
人の国の王子に決闘を申し込んだ。
正々堂々勝負して、負ければ王女の婚姻を認めると。
王子は情けないことに代理人を立て、戦わせた。
だが結果的に言えばこちらの圧勝。王子は最後の手段として軍隊を引き摺り出そうとしてきたが、その前にこの手でぶちのめした。
人はどうやら獣人を舐めていたようだが、本気になった獣人は強い。
特に熊獣人は獣人の中でもかなり力のある方なのだ。たとえ軍隊を出してきたとしても、ボロボロになるまで抗って勝利を勝ち取っていただろう。
「……すごいわね。まさかここまでやるなんて」
「当然です」
「さらに惚れたじゃないの、どうしてくれるのよ」
そう言いながらネーナ殿下は私の肩にスルスルと登り、しっぽを私の体に巻き付けながら身をすり寄せてくる。
――認めよう。今、彼女を心から愛おしく感じていることを。
「今度、デートに行きましょう。そこでわたくしたちの結婚指輪を選ぶのよ」
ネズミ獣人の寿命は短い。いつまで彼女といられるか、私にはわからない。
だが、それでも良かった。
「わかりました。お連れいたします」
「ありがとう、わたくしの騎士様」
ネズミ獣人の小さな鼻先が私の口元に触れる。
私はそのキスの感触を受け入れながら、ネーナ殿下を掌に乗せ、城を出た。
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