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迷宮高校の陰キャクラン  作者: 多真樹
第1章 陰キャなるもの
7/25

黒い獣

 男に戻ると、男どものテンションはいつも通りに戻り、いつもどおりの探索をおこなった。

 いや、若干どころか相当のテンションダウンが否めない。

 「女の子のままだったらよかったのに」という不満がわずかに滲んでいる。

 一瞬の彩りだったが、すでに灰色の日常に戻ってしまった。決して僕の所為ではない。


 サバンナエリア、二十八階層――

 ここからはエリアボスがたまに出現するため要注意である。

 むしろそれを狙って念入りに探索を行うのだが、油断すれば誰かが犠牲になる危険は常に付きまとう。僕らは訓練を積んだ軍人ではなく、死に戻りすることで経験と知識を積み重ねていく学生だった。

 五十階層、六十階層にもサバンナエリアは存在するが、出現するエリアボスはもうちょっとぶっ飛んでいるという話だ。

 ところかまわず雷を落としまくる雷光とか、三階建ての高さの巨大な馬が突進を繰り返す瑞君だとか、歩いた足跡が溶岩のように溶ける炎帝など、環境を歪めてしまうようなバケモノばかりだという。

 弱らせてから魔物玉で捕まえるまでが苦労しそうなモンスターたちである。


 迷宮での日数はすでに五日目であるが、ひと月以上過ごすのでまだまだ前半戦だ。

 男物の着替えを持っていてよかったと心から思う。

 ヘソ出し肩出しトップスを着回すのはちょっときつかったから。


 たくさん時間があれば、いろんなことをやる。

 勉強道具を持ってきて休憩時間に宿題をやったり、ポータブルテレビを持ち込んでアニメ鑑賞会を開いたりもした。

 パーティを組んで最初の頃は、時間が余って苦労したのだ。探索中はいいが、人間頑張っても八時間くらいが探索に費やせる限界だ。神経張りつめている時間が長ければ長いほど、長期的な探索はできなくなるから。

 休憩時間や睡眠時間など、思っていたよりも長くて暇になる。

 襲撃を寄せ付けない城塞レベルの休憩所を筱原が作れるようになってからは、さらに自由時間が増えた。

 「試験勉強をダンジョン内でやるとか神か」とか、「ダンスの練習。マスクを被って投稿サイトにアップする」などの意見があったがゆえの現在の『しゅき兄』がある。


 全員がマスク着用により、ステータス補正がかかる魔道具を持っていたが、これって表情がわからないし黙っているとぎこちない微妙な空気が流れるのだ。

 マスク被って淡々と迷宮攻略するのは飽きて、いつの間にかボス系限定かダンスの撮影のときだけマスクを被るようになった。

 他のパーティがどんなふうに時間を潰しているのか気になる。


「知らないの? 迷宮内でエッチしても妊娠しないからって男女のパーティは」

「あーあー、聞きたくないので黙れ」


 田児は空気を読めない子である。

 知らないうちが花なのだ。知らなければ事実として存在しないのである。

 だからこそ女子だけのクラン『戦乙女隊(ヴァルキリーズ)』は処女厨の憐れな男たちに希望を与えてくれる。女子限定クランのクラン長は男子嫌いで有名だったが。


 色味のない灰色のアオハルであったが構いはしない。

 僕らは健全な高校生。異性に興味があるし、人並みに精欲はある。だが女子を簡単に誘えたら、男だけでパーティを組んでいない。

 ひとりでコソコソと裏に向かう奴がいても、見ない聞かないのデリカシーはあった。

 一仕事終えた顔をして戻ってきて、そのままの手で調理を始めようとした不衛生な田児はその場で袋叩きにあった。

 田児の書いた同人誌で重い荷物を軽くしてくるのに、理不尽な話である。それと衛生的なものは別の話。


 探索十五日目、まだ二十八階層である。

 念入りに隅々までエリアを探索しようとすると、十日は平気でかかる。

 すべてのエリアには端というものがなく、ぐるりと一周して元居た場所に戻ってしまう。

 空間が捻じれて繋がっているのか、これだけで完結した世界なのかはわからない。

 迷宮の謎を日夜解こうとしているクラン『解析(アナライズ)』の仮説の中に、異世界の一部を切り抜いて繋げたものがエリアになっている、というものがある。

 どうやったら世界を切り取ることができるのだろうか。カット&ペーストでできるだろうか。


 陽も暮れてきて、今日も探索は終了。

 さあて今日も格闘ゲームで対戦だ、と油断した頃に、だいたい不幸というものが忍び寄ってくる。

 もはやベテランの域に入っている『しゅき兄』の面子でも、気を抜くときはある。

 だから潅木の合間をすり抜けるように、暗闇から音もなく忍び寄ってきた「なにか」に気づけないのも無理もないことだった。

 彼らハンターは、有利な状況から襲うことを前提としているのだから。


「あ、おい、田児、おまえ靴紐解けてるぞ」

「あ、ほんとだ。ありがとう早河くん」


 田児がしゃがみ込んだのはまさに奇跡。田児の頭上を黒い影が横切り、地面に音もなく黒くて大きな獣が現れたのだ。

 しかし返す刀で田児の顔面を爪が横切った。

 糸の切れた操り人形のように田児が仰向けに倒れる。


「お、おおお!」


 驚いたのも束の間、僕はぐっと踏ん張り、一瞬にして黒い獣へ重しを仕込んだ鉄靴を見舞う。

 が、すかっと空振り仰向けに転がる。

 黒い獣、『無音牙猫(サイレントサーバル)』は奇襲が失敗したと知ると、すぐに闇の中へ潜り込んだのだ。

 虎より大きな巨体にもかかわらず、足音や気配は微塵もしない。

 サバンナエリアでいくつか存在するエリアボスで、もっとも面倒なタイプのボスだった。

 なにより接近に気づけないのでバックアタック必至なのだ。


「敵襲! 音がしない猫! 田児がやられた!」


 それだけで全員が行動に出る。


「死んでないよぉ……」


 顔面が三つの爪に斬り付けられた田児が、よろよろと上体を起こす。

 面の皮が厚い、というやつだろうか、怪盗が他人に化けてその正体を明かすときのように、田児は顔の皮をめくった。先ほどと変わらない田児の顔があった。

 《荷役(キャリアー)》のスキルで〈分身仮面(ペルソナ)〉という防御能力である。

 これがあるからお風呂に一週間入らなくても、一瞬で外面を脱ぎ去ることで新陳代謝を可能にするのである。

 風呂時間すら惜しく感じてしまう漫画家必須の能力であった。


 筱原はしゃがみ込んで〈土成構築(アースビルド)〉で砦を作る。伊東は大きく踊りながら、獣の気を引くような動きをする。

 田児はへっぴり腰で筱原の元まで移動し、早河は自分そっくりの〈水幻術兵(アクアソルジャー)〉を生み出し、つまるところの影分身で敵の狙いを攪乱する。

 獣相手に「当たらなければどうということはないのだよ」と挑発してもしょうがないと思うが。

 しかし黒い獣は幻を襲い、手応えがないと知るとまた闇へと逃げ込んだ。的を絞らせない効果はあった。

 寿々木は《魔札師(カードキャプター)》のスキル、〈顕現(リアライズ)〉で、道中拾いまくった獣系のカードを実体化させていった。

 これで戦力増強は完璧である。

 あとはぴゅーと吹いてジャガーさんを誘い出し、タコ殴りにするだけだ。


「あ」


 しかし物事はそううまくいかないようで、間の抜けた声がしたほうを振り返ると、頭をぱくりと咥えられた早河の姿があった。


「当たっちゃったらどうということだよ!」


 田児が悲痛に叫ぶが、まさにそんな感じ。

 〈水幻術兵〉がひとつずつ消えていっているということは、早河はもう助からないということ。


「無茶しやがって! バカ野郎が!」


 早河を咥えたことで動きの鈍ったジャガーの腹部に、僕がドロップキックを見舞った。足の裏に重い感触が伝わる。

 怯んだところに寿々木の呼び出した獣たちが殺到し、筱原がドーム状に包み込んで圧殺。寿々木の呼び出した獣たちは使い捨てになるが、エリアボス相手なら惜しくはない。


「……早河くん、ついてなかったね」

「分身に混じって立ってるのが悪い」

「当たらなければどうということはないのだよ、と言いつつ被弾て……」


 調子に乗って分身の中に身を置くのは早河の悪い癖だ。こういうときは、分身を囮に術師は隠れるのがベターである。

 戦術を見直すべきだが、早河は言って聞くような男ではない。

 早河の笑顔が思い返される。

 丸眼鏡をかけてにこりと笑えば、どこか愛嬌のある女芸人、ハリ○ンボンの近藤○菜似の男であった。


「黒猫ちゃんがエリアボスになって追ってきたのかもしれないね」

「まさか」


 筱原がそんなことを嘯くものだから、斑尾がエリアボスになったのを想像してしまった。

 まあ、たまたまだろうけど。

 寿々木は鼻で笑ったが、筱原は信心深く眉根を寄せている。


「どんだけ執念深いんだよって話」

「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだって心の中の中学生が叫んでるのかもよ?」

「シンジくん……」


 オチがついたところで、早河の荷物を田児がまとめ、その日は早めに就寝した。

 探索再開後はあまり寄り道をせず、三十階層のボスを突破する。こちらは始めから姿を晒しており、ライオンのような体毛の牙猫(サーバル)だった。色違いとはいうまい。

 奇襲でなければ早河が抜けていても十分に対処できる。

 伊東が踊りながら連打を決めて、ついに牙を折った。


「今日もお疲れっした」


 女体化したのも結局は最初の半日だけだった。

 それ以外はいつもの探索であまり変化はない。誰かが死に戻りするのも、たまにはある。その回数がいちばん多いのが、自爆する僕だったり。


「性転換の秘薬、効果時間を延ばしてもらうように提案してみるよ。せめて一回で一週間くらいの時間はほしいよね」

「異議なし」

「異議ないよ」


 寿々木と筱原と田児が親指をくっつけあって団結を固めている。まあ僕も同感なのだが。

 波打つコールタールのようなゲートを潜ると、ダンジョンホールのエントランスに戻ってきた。


「あれ? 名無くん、ナナ氏になってる」

「なんだかその呼び方わかりにくいな。あ、え? ホントだ、胸が戻ってる」


 半袖短パンの男の格好だが、グラマラスなわがままボディになっていた。ジャケットを着ているので、シャツの上から胸ポッチが透けて見えなくてよかった。

 そういえば迷宮から出ると、入場したときの状態に戻るのをすっかり忘れていた。


「こ、これはこの後、お部屋で撮影会ですかな?」


 筱原の眼鏡が破廉恥に曇っている。しかもハァハァしている。

 気持ちはわかるが、いまは女性の感性を引きずっているからか、ひたすらにキモく感じる。

 伊東もキレキレに踊り出してテンションを上げ始めた。

 寿々木も顎を撫でて思案顔である。あれはきっと、コスプレ何着せるかを想像している。

 田児はスケッチする気満々である。


「ちょっといいだろうか」


 そんな破廉恥撮影会の高まりに冷水をぶっかけたのは、風紀委員長であった。

 彼女はこちらに近づいてきて、じっと僕を見つめた。


「華子くん……じゃないな。似てるけど違う。君たちはもしかして三つ子だったのか? 聞いてないが」

「いや、僕は、その……」

「名無さん、で間違いないだろうか?」

「え、ええ。まあ、名無ですが……」


 僕はきょどって目を逸らした。いや、七波レイと名乗っておけばよかった。咄嗟にでないものだね。

 仲間たちはいつの間にか三歩ほど離れ、静かにフェードアウトしようとしている。友達甲斐のないやつらめ。


「私は嵯峨崎純恋だ。三年で風紀委員長を務めている。それと『戦乙女隊』にも所属している」

「はぁ……」


 急に自己紹介が始まり、戸惑いが半端ない。仲間たちはすでにエントランスから逃げ出してしまっている。危機察知能力はゴキブリ並みである。


「少し前から君の姉になった。よろしくお願いする」

「え? え?」

「お母さまから何も聞いていないのか?」

「えー、あー、姉ができると」

「その通りだ。私のことは聞いていないのか?」

「それは、はい、素性はまったく。えっと、同じ学校生ということしか。嵯峨崎先輩が姉になると?」

「ああ、よろしく頼む。純恋でいい」


 彼女の会話のペースは早く、質問も矢継ぎ早で情報処理が追い付かない。せっかちさんだなあと頭の片隅で思った。


「はぁ、情報共有がまったくできていないな。報連相は基本だろうに。双子だと聞いてたのに、三つ子だったというのも驚きだ。君の名前は? あ、ところで零士くんはどこにいるかわかるかい? 大切な話をしなくちゃいけないのに彼は逃げ回っていてね。別に怒ってはいないんだが」

「あ、それなら」

「まあ説教はするつもりなんだ。簡単に約束を破る人間にはならないでほしいからな」

「はい、僕が零士です……」

「ん? 聞き違いか? 君が?」

「TS薬なる疑似性転換魔術薬? を、飲まされてこんな姿に……」

「はあ? ふざけてるのか?」

「……滅相もありません」


 突然、姉なるものができた。

 女の姿で話すのがなんだかこっぱずかしい。身内にコスプレ姿を見られている気分だった。





○○○●○○





 同人誌に嵌まったのは小学生くらいだった。

 近所に十歳くらい歳の離れた面倒見の良い兄貴分がいて、彼の部屋には乱雑に積まれたエッチな本が誰の目に憚ることなく放置されていた。

 近所で年の近い子どもと野球をしたりするほど活発だったが、同時にエロ方面にも興味津々だった。

 次の授業が体育で、同じ教室で着替えをする同級生にはぴくりとも反応しなかったが、腰が括れ、豊乳をたぷんたぷんと震わせる尻の大きな裸の女にはどうしようもなくドキドキしたのを覚えている。


「おい、聡。おまえの姉ちゃん将来絶対美人になるぞ。ところでこの動画の女優に似てね?」

「姉ちゃんのほうがもっと美人だよ」

「言うねえ」


 ひょろりとした青白い顔の兄貴分は、カエルみたいな顔をしていた。

 目を片目ずつ、ぱちりぱちりと閉じるのが癖で、笑い方が「げっげっげっ」となんだか下品である。

 普通の人間なら小学生がエロいものに触れることを良しとしないだろうが、彼は止めはしなかった。小学生だって自己責任くらいの意味は分かる、というのが持論だったが、ただ単に責任を持つのを面倒に思っていたに違いない。

 当時は何を勘違いしたのか、勇ましくて格好いいなんて思っていた。すぐにそのメッキは禿げるのだが。


「興味に負けて見てしまうのなら、結局はそのうち手を出すわな」


 確かにその通りで、興味ができたら調べたいと思うのが好奇心というやつだろう。彼の言い分は正しかった。

 無理やり遠ざけられたものの方が、気になっていずれ手を伸ばしてしまう心理である。しかも我慢させられた分、反動のようにのめり込むことが多い。

 しかし世の中から見れば、彼はバッシングされてしかるべきクズだし、将来的な同好の士を量産しようと青いうちからエロ方面の普及に余念がなかったように思う。

 兄貴分から下品な顔で自慰についても色々話を聞いたが、自分の股間を慰めるよりも、艶のある表情でうっとりと笑みを浮かべる女優の姿を見るほうが良かった。


「変わってるなあ。普通はマスカキ猿になるもんなのに」


 小学生相手に何を言っているのかと思ったものだが、ここが自分の性癖の分岐点。このときは微塵も気づけなかったが、自分は見ているだけで満足するタイプだった。この頃から後方腕組み厄介オタクの片鱗があったと言えよう。

 中学生になっても社会人になった兄貴分との付き合いはあったが、独自にエロを入手できるようになってからは通う頻度ががくんと下がった。

 社会人になった彼も、日中はスーツを着て営業周りをしているといい、土日はいつも青白さを一層青くしてくたびれていた。


 ゲームに始まり、漫画、ネット、動画。

 あらゆるコンテンツを大人の経済力で集めた彼は、自分のお下がりを惜しみなく後塵の徒に譲り渡してくれた。

 タダでくれるものを断る奴はいない。


「げっげっげ、おまえの姉ちゃん、女優引退するんだってよ」

「ぼくの姉ちゃんじゃないよ。こんなおっぱい垂れてないし」


 その女優の動画はデビュー作からすべて鑑賞し、何度も繰り返し観た。

 企画モノなのか、作り物のエルフ耳をつけ、カツラの無機質な金髪で画面越しに蠱惑的に微笑みかけてくる。

 カエルの兄貴は「コスプレエッチがヌける!」と興奮していたが、自分は見た目をエルフ族に寄せようとするところに興奮した。

 だから違うところが嫌でも目についた。笑ったときの小じわが歳を感じさせる。エルフには皺はできないし。

 しかし四つん這いで這い寄ってくる肢体は、姉よりも大きな胸が豊満にぶら下がっており、目が離せなかった。

 エルフ族はそもそも巨乳というジャンルから見放された種族だった。

 しかしハーフエルフの姉だから、そこそこの大きさに成長していた。


 やはり自分では好きな女優という認識程度のものだったが、その女優を通して無意識に姉の顔を思い浮かべていたのだろう。それを見透かしていた社会人のカエルは、茶化しながらも面白おかしく眺めていたのだと思う。

 兄貴分は、倫理観はそこらへんに鼻紙に包んで捨てて、欲求の忠実な下僕に生きるような大人だ。人としてはクズに分類され、一生結婚できないなと確信できる人間だったが、他人を否定しない寛容さだけはあった。


「そんなことより聞いてくれよ。最近好きな人ができてさあ」


 聞けば風俗嬢だった。

 社会人のカエル氏はこれまで二次元にお金をつぎ込んできたが、会社の先輩に飲み会のついでに童貞から素人童貞にクラスチェンジするお手伝いをいただいたようで、それ以来の彼の次の貢ぎ先になった。

 決して「止めた方がいいよ、不毛だよ」と言わないあたり、自分の頭もクズな方向へと醸成されていた。


 叶わぬ恋に尻の毛まで引っこ抜かれてしまえと内心思う程度には、痛い思いをして懲りればいいと思っている。

 なにせカエルの兄貴分は、自分の行動に絶対の自信を持つ人間だ。「俺は間違ってない。間違ってるのは世の中の方だ」と信じて疑わない阿呆である。

 他人のことは否定しないが、自分のことは否定させない頑固野郎でもあった。

 行ったことのない風俗に特に興味もなく、自分はこれから行くこともないだろう。だが、彼の趣味が変わったことで、最新のゲームや漫画がここ最近増えていないのが不満と言えば不満だった。


「そろそろ二次元も引退かね、俺も」


 風俗なんて二次元の延長、二.五次元でしかないというのに、浮かれようは見ていて気の毒だった。

 何より彼の話を聞いていて、子どもながらお世辞だとわかる嬢の言葉ひとつひとつを、間に受けて一喜一憂するこのカエルさんが不憫でならなかった。

 慰めの言葉を言ったところで、彼の心に響かないのはわかっているが。


「そういえば俺、冒険者になりたかったんだよなぁ。高等学校の試験で落ちたけど」


 そういって力こぶを作ってみせるが、貧弱という言葉しかない。「行ってたらモテてたよなあ」という社会人のカエルの妄想がゲコゲコと耳に聞こえた。つまるところいつもの誇大妄想なので、話を広げることが不毛だった。

 きっと十代の夢見ていた時代が、脳裏のどこかにこびりついて離れないに違いない。現実をこんなはずじゃなかったと嘆く憐れな社会人である。ストレス発散のために風俗へ通う悪循環だ。

 素人童貞で三十歳になったところで、素養のない奴はリアル魔法使いにもなれない現実しかない。乙である。

 ただ、彼の振りを見てではないが、自分は中学三年の受験勉強に精を出すようになっていた。


 兄貴分がようやく実りのない恋に気づいて現実を知り、これまで貢いできた数十万の空虚な金額に途方に暮れ、また二次元の古巣へと逃避してきた頃、自分は何をとち狂ったのか迷宮高校への進学を視野に入れていた。

 ようやく姉への実りのない片思いに気づいた頃でもあった。

 そのきっかけは自分の両親の離婚であり、姉は自分が中一の頃、家事能力の低い父について家を出ていった。

 そのとき自分の心に、姉は父を選んで自分を選んでくれなかったという空虚な風が吹いて、自分勝手ながら姉を恨んだ。

 それ以来、姉からの電話や会おうという連絡を頑なに無視していた。


「そりゃ気の所為だぜ、兄弟。父か母、どっちについていくか。おまえが母親のところなら、姉は父親のところってだけだ」


 正論かも知れないが、もし自分のことを好いていたら、両親よりも自分といる生活を選んだはずだ。

 姉とは相互に好き合っていなかったことに気づき、むしゃくしゃした。

 有り体に言えば、どうにでもなれと自暴自棄になった。

 当たり散らす自分に対し、兄貴分の懐は深かった。

 いま嵌っているエッチなアプリに躊躇なく勧誘してきた。

 なんでもアプリの彼女からメールが届くらしい。本当の彼女ができたみたいな疑似恋愛を楽しめるという。

 課金すれば効率的に仲良くなれるアイテムを、兄貴は惜しみなく購入していた。真性のバカ野郎である。ただ、彼の振りを見て、ちょっと冷静になれた自分がいる。


 そんな隙間風がビュービュー吹くところに、『迷宮攻略が学生のうちからできる! 強い自分になれる!』というキャッチフレーズが耳に入ってきて、沈んでいた厨二病の心をかき回した。これしかないと一念発起した。

 マイペースで仕事人間の母と一緒にいるより、全寮制で親の目から離れたかったというのもある。

 一番大きな理由は、姉のいない家で毎日を過ごすことが苦痛になっていた。

 荷物のなくなった姉の部屋の残り香を嗅ぐ度、どうしようもない劣情と、その後に襲ってくる虚しさが耐えられなかった。


 唐突だが友人の話をしよう。

 田児とは中学からの付き合いだった。

 中学二年の時に同じクラスになったが、最初は仲の良いグループが違い、単なるクラスメイトとして話をするだけだった。

 そんな関係が変わったのは、三年の秋頃、消極的で大人しいと思っていた田児から話しかけてきたのだ。


「早河くんも高校の第一志望、迷宮高校なんだね。ボクもなんだあ。この辺で近いところって言ったら盾濱しかないよね。じゃあ一緒だよね。この前の日直のときに志望校の提出用紙を集めたじゃない? そのときたまたま一番上にあった早河くんのを見ちゃって。僕と同じ進学先を希望していたんだって知ったらなんだが嬉しくなっちゃった。だって迷宮高校って偏差値が国立並みに高いじゃない? 公立の中学から受けて入学できるかあんまり自信ないけど、やっぱり心惹かれるものがあるもんね」


 聞いてもいないことを一方的にまくし立てられたが、なんのことはない。自分と同じバカがもうひとりいただけのことだ。


「ボクさあ、絵を描くのが趣味なんだけど、本物の魔物を見て、触って描いてみたいんだよね。危ないのはわかってるけど、臨場感のある絵って実際に見てみないと描けないから」


 田児の成績は悪くなかった。だが、運動神経が良かった記憶はない。ハーフドワーフ族として手先が器用なので、アピールポイントがあるとすればそこだろうか。


「隣のクラスのサッカー部がふたりくらい迷宮高校受けるって噂だけど、僕は運動神経だけで選ばれるとは思ってないんだあ。もちろん頭の良さだけでもダメだと思う。ネットに書き込まれていた話だと、なんだか特殊な能力があればそれだけで入学できるらしいよ」


 その噂なら自分も調べてすでに知っている。

 竜人族やエルフ族といった、能力値が他の種族より明らかに高いものたちが顔パスレベルで入学できていることから立った噂だ。

 正直受かるも受からないもどちらでもよかった。迷宮高校は寮生活だということが大事なのだ。

 姉の思い出が残ったあの家は、堕ちていこうと思えばどこまでも堕ちていく底なしの泥沼だ。

 ずっと足を浸しているのは恐ろしかったし、どうにも落ち着かなかった。

 姉の部屋はそのまま残されているが、荷物はほとんどないのだ。

 何度も足を運んだせいで、最近は部屋の匂いが自分の体臭になっている気もした。


「ねえ、田児くんさあ、聞いた話なんだけど……」


 思い出したように田児に持ちかけたのは、漫画を描いてほしいというお願い。

 自分が原作した話を、田児が漫画にするというもの。


「い、いいよ。僕もそっちの方面は、その、えっとね、実は嫌いじゃないから」


 ちょっとキョドりつつも、照れ顔で快く受けてくれた。

 ハーフドワーフとは言え、ドワーフ寄りの土気色のごつい顔なので、全然可愛くない。

 つぶらな瞳だけを切り取れば、ギリギリ愛らしいかもしれないが、中学時代の田児はずっと短髪で、どちらかと言えばジャガイモといがぐりの合いの子だった。


「原作オレ。漫画田児くんでよろしく」

「う、うん! ボクがんばるよ!」


 それから資料の収集のためにカエル兄貴の部屋に田児を連れて行った。

 会社に行っていない間はほとんどアニメ批評でネットに齧り付きとなっている廃人社会人に田児を紹介した。

 兄貴分の部屋でお気に入りの女優の動画を見せると、開始からすぐに股間をもぞもぞさせた田児は急用を思い出したと言って急いで帰ってしまった。

 兄貴分と顔を見合わせて「げっげっげ」と大爆笑した。

 後日、田児は何度も兄貴分の部屋へやってきては、資料の品定めや打ち合わせを続けた。


「ヒロインはこの女優に顔を近づけてくれよ」

「もうおばちゃんじゃない。僕おばちゃんは描きたくないよ」

「だいたい十代後半くらいに若返らせて描いてくれればいいんだよ」

「お姉ちゃんに似てる女優だからさ」

「え? なに? どういうこと? この女優さんがお姉さん似なの? 誰の?」


 兄貴の余計な一言で、田児に知られたくない秘密を知られてしまった。


「はは、お姉さんの陵辱漫画を描いてほしいとか、早河くん歪んでるね。でもボクそういうの気にしないよ。あ、ひとついい? 僕この女優さんの乳首好きじゃないから僕の考えた乳首に描き直していい? 小さくて小粒なの好きじゃないんだ。五百円玉くらいの乳輪と木イチゴみたいな乳首じゃないと興奮しなくて。早河くんのお姉さんの乳首って小粒?」

「知らね! 勃起したまま言うな!」


 毛布を丸めてその上に正座し、ローテーブルで下書きを描く田児のズボンはテントを張っていた。

 四十型の巨大テレビに映し出される女優のあられもない姿。大音量で流し過ぎて、隣室のおっさんからときどき壁ドンを喰らうこともしばしばだった。


「僕、ちょっと用事思い出したから今日は帰るね! じゃあ!」


 足をむずむずさせて我慢できなくなると、田児は荷物をまとめ、足早に帰って行った。家に帰るなりナニをしているかはお察しである。


「うちを汚さないだけ良い子だよな」

「もう汚いのに今更汚すなと言われてもね」

「おい、おまえウチでシコったら出禁にするからな」


 兄貴のベッドとか、どんな液体がついているかわからないし、ところどころ染みになっているし、洗った形跡もないので絶対に横になりたくない。絶対臭い。

 裸で寝るのが最高なんだよと一時期豪語していた時期もあった。隙間風が寒くて、冬に死にそうになってからやめたようだが。


 そんなこんなで卒業間近に完成したエルフ美少女の陵辱モノ。

 それが自分のお宝になるなんて思いもよらなかった。

 そしてなんの相談もなくネット掲載してしまう田児の図太い神経にも思い至らなかった。自分の姉に似た漫画が世の中に広まってしまうなんて……。


 元々頭は良い方で、高校入試の試験は滞りなく終えた。

 ハーフエルフという種族で加点されたのか、成績が良かったのかわからない。

 一応精霊を一種類使役できることからも、有能だと思われたのだろう。

 苦もなく迷宮高校の入学が決まった。

 田児もなんとか入学にこぎ着けたみたいで、いつしか腐れ縁となっていた。カエル兄貴の部屋に学校終わりに尋ねる仲間である。


 人生になんの展望も見えなくなって、日に日に言動がおかしくなっている社会人の兄貴からは、「人生うまくいきすぎだろ。死ねばいいのに」と呪詛を吐かれるほど恨まれたが、一応コンビニケーキでお祝いしてもらった。

 終始、自分が入学できなかった嫉妬と、後輩たちの門出を祝う気持ちがせめぎ合った複雑な顔をしていた。

 そんな後顧(オタク)の憂い(部屋)もきっぱり絶って、学び舎へと向かったのだ。

[陰キャメモ]

ぐいぐいくる奴は基本苦手。

適切な距離感を保ちましょう。マスクをしてソーシャルディスタンスするくらいがちょうどよい。

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