戦場のクリスマス
――雨は夜更け過ぎに、雪へと変わるだろう。
雨は降っていないが雪でも降りそうな、吐く息が白く染まるクリスマスイブ。
迷宮学校は暮れなずみ、紫色の空になってもいまだ学祭真っ只中である。
むしろ日中の外向けのビンゴ大会だとかのパフォーマンスは鳴りを潜め、学生たちが内々に溜め込んだフラストレーションを発散するような野外ステージ企画が目白押しだ。
煌々と照明が輝き、毎年日が変わるくらいまで学内ではお祭り騒ぎが続く。
ちなみに公式の終了時刻は19時で、あと二時間というところだ。
そんな中、生垣に潜むバカがふたり。
通り過ぎようとする学祭出来立てカップルの前に、今日限定の赤き阿呆が飛び出て立ち塞がる。
「モテる奴らを見つけたら」
「ウ○コを投げるが世の情け!」
「一夜のロマンス防ぐため」
「お祭りマジック壊すため!」
「クズと知りつつ悪を貫く」
「エブリーファッキーなひがみ役!」
「田中(仮)!」
「吉田(仮)!」
赤いコスチュームはクリスマス限定のプレゼント配達員に見えなくもないが、良く見ればただの変質者だ。
「「……だれ?」」
急に現れて道を塞がれる理由が思い当たらず、カップルは顔を見合わせ首を傾げる。さっきから喚き散らしている決め台詞は右から左に聞き流しているのだ。
「ティッシュにかけるソロプレイヤーなふたりには」
「ホワイトソース、不毛な明日が待ってるぜ」
「いや、それは下品。何この人たち……」
「なんてにゃ、とか言うんだろ、この流れ」
女子の方は完全に身を引いている。男子の方はネタをわかって察した顔だ。驚きから明けて、楽しんでやろうという魂胆も見える。
「……なんでなん?」
低音ボイスでいきなり語りかけられる虚。いつの間にかサングラスに葉巻のようなものまで咥えて。
「……いや、冷静になんでと聞かれても意味不明だし。こんな寒空でそんな恰好、惨め過ぎるだろ」
「そもそもあんたらなんなの?」
というわけで絶賛不審者扱いを受けるふたりの格好は、白い大袋を背負ってクリスマスの夜に長靴で駆け回る赤き戦士であり、同時に覆面の上から付け髭をして、この時期にくっつこうとする男女の仲をズタズタにするカップルクラッシャーであった。
「えーと、尾杉富彦くん、十七歳。あー、はいはい、尾杉くんね。この子はすごいよー。秘密バラしちゃうよー」
「秘密?」
彼女の方が訝し気だ。彼氏の方は「なんのことだよ」と強気だが、どこか目が泳いでいる。
「入浴中に隣の男子の逸物を見てゴクリと喉を鳴らすおホモダチ。んー、女の子に実は興味ないと。あー、ということはあれだね、単なるカモフラなんだ。彼女さん可哀想に」
「はぁ?」
「ち、ちがう! うそだ!」
「ほら、キスシーン」
覆面サンタがスマホを見せる。そこには男同士、脱衣所の隅で人目から隠れるように裸で口付け合う様子がロッカー上から盗撮されていた。
横に角の生えたムキムキバイソン獣人男子が手首を押さえられて壁に押し付けられ、羊の巻き角男子が攻めている構図である。
ちなみに目の前のカップルの彼氏君が、壁に押し付けられている子猫ちゃん。
「信じられない!」
「な、なんで……誰もいなかったのに」
「お気の毒さま〜。壁に耳あり障子にメアリー」
「さっきね、羊の蜜満九郎くんに会ってきたけど、お互い好きでもない女を彼女にしておくと興奮するんだってね。問い詰めたら白状したよ。歪んでるねえ」
女の子が繋いでいた手を振りほどき、怒りに満ちた目を男子に向けた。
バチンと平手打ちの音を後ろに聞きながら、「フハハハ!」と今宵の宴に乾杯し、盛大に高笑い。
覆面サンタは任務達成とばかりにハイタッチを決め、新たな獲物を探して宵の校内を駆け回った。
彼らは女子と仲良くなりそうな気配のある男子をすでに特定していた。
事前に下調べを行なって弱みを把握しており、今日という日をぶち壊すためだけにスペシャルカードを切って切って切りまくる。
その後の人間関係なんかは知ったことかと、今日という日を一生の傷跡にすべく全力を尽くしている。
「自分の幸せを追いなさいよ」と善なる声が聞こえてきそうだが、彼らはハナから女子とのお付き合いを諦め、足を引っ張ることに全霊をかけた負け組のそれだ。
それに、参考資料が集められて一石二鳥だと考えていた。
「田中氏(仮)! 今日の我々はキレッキレですなあ」
「吉田大先生(仮)! ボク、こんなにいけないことしてて楽しいの初めて! コンビニの十八禁雑誌買うくらいドキドキしてるよ!」
傍迷惑で害悪以外の何物でもない二人組。
しかしてクリスマスに女子と歩くことが叶わなかった負け組からは、根強い声援と支援があるのもまた事実である。
そのリサーチの裏にあるのは、リア充呪われろと呪詛を呟く男子、嫉妬で足を引っ張りたい女子からのSNSでのリークである。
彼ら彼女らの真っ黒な思念が凝り集まって、覆面サンタは今日この日に特別輝いていた。
男女の縁を切って切って切りまくるため、一夜限りの赤い悪魔となって次なる獲物へ一直線へ向かうのであった。
そして次なる悪魔の前に現れた生贄――もといカップルは、学内でもそこそこ有名な『愛の巣』のぱことりゅうちゅるであった。
人通りのあるベンチを独占し、互いに腕と足を絡め合い、おぞましいなめくじの交尾のようになっていた。
ギリギリで衣服着用で生肌接合していないようだが、いつ下を脱いでおっ始めるか分からない第一級危険物と化している。
普段から公然猥褻扱いで風紀委員に連行されているが、今宵の聖夜も通常運転だった。
何度しょっ引かれようが懲りもせず、どこででも発情する困ったカップルさんだ。
「いや、これは手を出したらあかんのです」
「え? なんで? どうして大先生。りゅうちゅるくんの浮気情報掴んでるじゃない」
「目的を忘れましたか田中氏。私たちはクリスマスというムードに甘え、成立しつつあるカップルの邪魔をすることに信念を燃やすべきなのです。急造であっさり瓦解する連中ならまだしも、平日の真昼間でもイチャコラする上級者には、私たち鼻紙風情では到底歯が立ちませんよ」
「どこでも盛れるお猿さんということですね、大先生! モラル仕事しろって感じかも」
「ある意味で私たちと志を同じくする低モラルの体現者でもあります」
「どういうことですか、大先生!」
「いるだけで迷惑。歩く公然猥褻。風紀に唾を吐くが如く、デロデロにペッティングする様はまるで豚の交尾のようではありませんか。あれこそ自ら汚物たらんとする精神汚染の具現者にほかなりません」
「先生、そろそろボクも見ているのが辛くなってきました。おかしいです。AVだと興奮するのに、なんだか描きたいって意欲も湧いてこないし、SAN値が下げられているみたい」
「あれは周囲に迷惑をかけ続けていればいいのです。風紀委員ホイホイとでも呼びましょうか」
ひっそりと尊敬の念を向けられていた『愛の巣』だったが、どこから通報があったのか、小走りでまっすぐ駆け寄ってきた風紀委員により、あっさり連行されていった。
なめくじの合体を引き剥がすのに苦労している風紀委員の様子を眺めて、次なる獲物のもとへと向かう。
あのカップルがお祭り期間中に復帰するのは絶望的だろう。
精々祭り後にどこぞのホテルへしけ込んで欲しいものだ。校内の空き教室とかで始められるのだけはどうか勘弁してほしい。
「さて。次の獲物です」
「しの――吉田先生、校内目撃情報三件もきてます」
「では近いところから順番に行きますか。不毛なる聖夜の断罪者、押して参りましょう」
ウキウキと弾む足取りに罪悪感はない。ただただ他人の足を引っ張るだけを生きがいにした厄介者の背中があるばかりである。
ステージ上では、ガールズバンドが汗を散らして演奏していた。
ドラムを叩く小柄なドワーフ娘と、ベースの蝙蝠羽根の小悪魔娘は見たことあるが、中央でギターを弾きながら歌う凛々しい竜人の少女には見覚えがない。
「僕は今日からセンターの子のファンになる。あの冷たい眼差し、ゾクゾクする」
「ドラムのロリっ子も捨てがたい。膝の上に乗せたい」
「いやいや、小悪魔系なギャルがいちばんクるでしょ。オタクに優しいギャルなはず」
そんな会話が聞こえてくる。
センターのボーカルは猿顔でウキキーと鳴いていたような気がするが、どこにもいなかった。
方向性の違いからメンバーを替えたのだろうか。
確かに猿顔の女性ボーカルがいるだけで、どこかコミカルなお笑いバンドに見えてしまっていたのはいただけなかった。
背が高く見栄えのする竜人少女が中央で歌うと、それだけでバンドの全体が引き締まってより魅力的に見えた。歌もギターもちょっと練習が必要なレベルだが、見ていて応援したくなる必死さがある。
「龍村、歌ってる暇がもらったら迷宮進めるべきです。立ち止まってる余裕、あまりにあまりです」
「あら、いいじゃないですか。龍村さんの歌声、私好きですよ。ボイトレにも付き合えて、とっても楽しかったです」
ステージの正面で腕を組んでふんぞり返っているエルフの青年は終始不満気だった。
だが、その横に波打つ濃紺髪の綺麗な女子が微笑んで立っていると、不思議とピリピリした空気が優しく緩和されている。
とはいえ、周りの人間は芸能人オーラのようなものが放たれたふたりから少しばかり距離を取っている。
歌っている竜人少女もふたりに気づいているようで、苦笑混じりにギターを弾いていた。
ステージの女子三人はみんな可愛い。
下手だとか、媚び媚びだとかのディスりも聞こえてくるが、概ね好意的な評価が占めている。
センターの竜人少女は、媚びを売るというより、立ち姿に目を惹かれる。
どこからか「JKの本気の汗が眩しくて尊い」「ひたすら脇を舐めたい」とか聞こえてくるが、聞こえなかったことにしよう。あそこに見えるのが早河でないことを願うばかりだ。
ステージの次の演目は、ダンス部のパフォーマンスだった。
誰もいないステージに曲が流れると、手を叩いて声援を送る。
ステージの上手からぞろぞろと現れた。
青灰色の猫毛の女の子が流し目で艶を見せつつ踊れば、褐色肌の大柄な鬼人の女の子はダイナミックなのにどこか繊細な魅力的なダンスを全身を波打たせながら披露する。
他にも何人かいたが、特別目を惹くのはこのふたりだ。
尻尾のゆったりした動きまで計算されているかのような曲線美に、異性を引き付けてやまない流し目。
きゅっと腰で絞ったシャツを盛り上げる胸部は、鬼人の子が圧倒的なボリュームだった。薄っすら腹筋の浮かぶヘソ出しな衣装も相まって、目が離せない。
「全員一年生だね。学年ごとに踊るみたいよ。あ、姫叉羅がこっち見てる」
「人多い……帰りたい……音うるさい……うがー、耳痛い……」
「折角の晴れ舞台なんだから、龍村のときみたいに応援しなよ」
「無理……だって緒流流ちゃん☆がいないもん」
「どんだけ好きだよ……」
隣の小柄な男女ふたりが、顔を寄せて話しているのが聞こえてくる。
前髪が長くて目が隠れている少年は、一年なのに一部に名前を知られた生徒だ。
『運び屋』と呼ばれているのを聞いたことがあった。留年しそうな問題児の進級ノルマをお手伝いする便利屋だという話だ。
その隣の黒マントにすっぽり包まれた少女は……よくわからない。
わかるのは、黒い耳を生やして、さっきから怨嗟にも似たネガティブ発言を垂れ流した陰キャだということくらいか。
一年が終わり、にこやかにステージの端に立つ。
次の曲が始まり、一年はバックダンサーへ。二年がセンターに登場する。
待ってましたとばかりに伊東の姿を探すが、どこにも見当たらない。
ひとりひとりを紹介するようにセンターでソロのダンスを踊り、一巡したかなと思ったところで観客の誰かが声を上げた。
「あそこ! 上!」の声に目を上げてみれば、手首を目にも留まらぬ速さでくるくると回し、豪快に踊りながらゆっくりと降りてくる伊東に観客の全員が気づく。《宙遊士》のジョブをこれでもかと見せつけていた。
二年生にも可愛い子はいたが、最後にすべてを掻っ攫っていく登場の仕方だ。これはズルいだろう。
しかし衝撃的な登場をしなくとも、伊東の技術は二年でも抜きん出ているのがひと目でわかる。
ときに笑えて、ときに魅入ってしまう。極限まで無駄な動きがないのだ。生まれついてのパフォーマーで、僕の仲間だ。
「オーク=スカイウォーカー!!」
「オーク=スカイウォーカーだ!」
「オーク! オーク!」
オーク系の潰れた鼻面に寄せられる声援は、笑いに満ちていた。「腹斜筋で山芋すり下ろしたい」「泣く子も黙る上腕二頭筋!」とマッスル系が勧誘したそうに伊東へ声援を送っていたが、なんとか後で阻止しなければ。
楽しい時間を提供した彼に、応援とちょっとだけ揶揄する感情を混ぜつつ、とりあえず人気は高いようだった。見た目に寄らず、彼のダンスの練度の高さが、どこからも異論なく評価されたのである。
次は三年生だ。
登場の瞬間から先ほどとは比べ物にならない盛り上がりを見せる。すでに前列はファンで密集して、スタンディングオベーションだった。うちわに「こっち見て!」と書いてある。アイドルか。
しかしそれも鼻で笑えない美貌のダンサーがステージに現れる。
ポーズのひとつをとっても洗練されている。全員が伊東かそれ以上のレベルで完成度が高いのだ。
長く伸ばした真っ白な髪が、整った顔の半分を覆う女子。切れ長の瞳は、爬虫類のような瞳孔でステージから観客をひと睨みする。
綺麗な女性に見つめられてドキドキするのもあるが、捕食者に晒されたような視線も同時に感じられて、怖いものを見て居竦むと同時に、背筋にゾクゾクと怖気のような快感が走る。
口元は笑いもせず、目元は涼し気。誰にも媚びない孤高の女王様が重なって見えるようだった。
そしてその隣には、双璧のように存在感を見せつける美貌。黒と白のまだらな髪色の犬獣人で、野趣あふれる熱量に、白髪女子とは対照的に妖艶にほほ笑んでいた。目力が強いのは蛇目の子と同じなのに、指先まで見るものを魅了する柔らかさ、踊り子の美しさがあった。
どちらも美人と呼ぶにふさわしく、女性の理想的なプロポーションなのも影響している。
顔が整っているだけでなく、へそ出し衣装で腰を捻るたびに、細くて折れそうな腰に薄く腹筋が浮かぶのも反則だ。
この双璧はさすがの伊東でも超えられない。
美しさ、妖艶さ、ダンスの技術、くねる腰に、指先にまで感じるエロス。
どこを見られるかもわかって、見せつけてくる。
一年生の流し目も魅力的だったが、こちらには大人の色香まで加わって、より目が離せない。
目線のひとつとっても表情豊かで、健康的で、色気を漂わせて、とにかく情感が溢れていてこちらの頭の処理が追い付かない。
気づけば曲が終わり、照明に照らされたダンサーたちの額には汗が光っていた。
ずっと続けばいいのにと思うのはひとりではなかったはずだ。
曲調が変わって軽快なロックになると、衣装も男女とも白シャツ・チェックのベスト・黒パンツ・黒ハットで統一されて現れた。
いつの間に着替えたのか、センターで踊るのは犬獣人の三年生で、斜め被りの黒ハットを指先で支えながら、ときどき笑みを浮かべるのだ。
目が合った観客はドキドキしてしまう。そしてなにより、テクニックが群を抜いている。
一歩引いたところに伊東もいた。
顔は女騎士を『クッ殺』しそうなオーク面なのに、斜めにハットを被り、ぴしっと決めた姿が格好良く見えるから不思議だ。普段は爪で顎髭を抜いたり、鼻をほじったりしているというのに。
青灰色の猫獣人の一年生も陽気で軽快に踊っていた。
こちらにお尻をふりふりする仕草に合わせて、黒パンツの隙間から揺れる尻尾がプリティであった。
それぞれが楽しそうに踊る。
生きている。生命力を漲らせて。
僕だって伊東の指導の下、そこそこに踊れるようになったが、それも素人に毛が生えた程度に過ぎないのは見ていてわかる。
ダンス部の隣に並んで踊ったら、バックダンサーのように霞んでしまうだろう。
それでも悔しいとは思わない。
伊東ほどダンスに人生を捧げていないし、時間と気持ちを捧げるべき女性もいまはいることだし。
楽しい時間はあっという間に過ぎていくものである。
それが青春というやつで、この学校は闇も深いが、捧げるべき青春はそこら中にあった。
――さて、僕らの出番が近づいてきている。
ダンスサークルが終わり、次はミスコンの一部であるトークショーだった。
いくつかのステージ企画の間のつなぎに、ミスコン出場者が参加してアピールポイントを披露するのだ。
全部で五つくらいあり、ゲーム企画やファッションショーなどから最大三つ参加できる。
なんにも参加せずともミスコンの資格は有したままだが、最終結果に色濃く反映されるのは間違いない。
ところで、さきほどのダンスサークルのひとりがまだ息も整っていないのにステージに登場しているのはズルいと思う。
ダンス中は女王様のような雰囲気から一転して、瑞々しい女学生のように笑みを浮かべて質問に答える姿はギャップがありすぎるが、とても効果的だった。
話口調や笑う姿など、白い髪に半分隠されていた顔に明るい表情が見え隠れすると、テレビの向こう側の住人が一転してクラスメイトになったかのような親近感を覚えるのだ。
ちょっと話の論点がズレた天然系な受け答えもぐっとくる要素だと思う。
先程までの観客がそのまま得票数にシフトしてしまいそうな計算ぶりである。
今年のミスコン勝者はほぼほぼ決まったな。
「さてと、皆の衆、今日が我々のこれまでの成果の、ひとまずの終着点になる」
僕らは男子トイレにいた。
きいっと便所の扉が開いて、膝に肘を載せ指を組んだ早河が意味深に喋り出す。
「え、どういうこと? ボク何も聞いてない」
隣の個室の扉が開いて、田児が狼狽えた声を出す。早河の自信たっぷりな話はみな初耳で、田児の戸惑いももっともだった。
ちなみにふたりともじょぼじょぼ出している最中である。開けるなと言いたい。
「おふたりさん、扉は閉めて用を足そうね」
寿々木が突っ込むのはいつものことだ。その彼は小用中である。首だけ振り返って注意するが、素直に従う早河ではない。
「ふはは、当たり前だ。誰にも言ってないからなw このゲリラライブで我々は自ら顔を晒し、風紀の奴らの度肝を抜いてやるのだww」
「え、ちょっと待って? それはやめようよ」
僕は血の気がさっと引く音がした。決してバレたくない相手の顔を思い浮かべ、玉ひゅんしてしまう。僕のお小水はそれでもちろちろと止まらなかったが。
隣ではステージの熱も冷めやらない様子で肩から湯気を立ち昇らせ、伊東がじょぼぼぼぼっ! と盛大な音を立てている。
「伊東はいいの? 顔バレして」
「……特に支障はねえな」
じょぼぼぼぼっ! の音に紛れてぼそりと聞こえた。しかしどんだけ出るんだ。
今日の学祭、姉の純恋とキャンプファイアーを一緒に見ると約束しているのだ。
この学祭を最後に二年に委員長の座を譲り、彼女は引退する。その最後の日に一緒に過ごす相手を、委員の連中でなく僕を選んだ。
同級生だって、気になる男子を誘ったって良かったのだ。その中で僕が選ばれた。
そんな大事なときにこのやましい活動をカミングアウトするのは死んでも避けたい。
「急にどうしたの? 顔を晒すなんて風紀の風当たりがもっと厳しくなるじゃない。素面のときでも風紀の連中にマークされるよ?」
トイレの鏡で鼻の穴を広げて鼻毛チェックをしていた筱原がもっともなことを言う。
「覆面ダンス集団はとりあえずここまでかもしれないが、しかし我々は新たなステージに移行するのだww」
「新たなステージって何? テレビ出演?」
「覆面の代わりにブリーフを被るんじゃない? ははは、顔バレして怖いものないもんね。……って冗談じゃないわ!」
「名無、それは官憲まで出動する事案だよ。ムリ」
真顔で言われなくてもわかってる。寿々木は真面目なところが出ると、途端に冗談が通じなくなる。
「そもそも新たなステージとやらにステップアップする意味がわからないんだけど?」
「よかった、ボクもよくわからなかったよ。早河君ってときどき誰にもわからないことを言うよね。……んん! ふぅ……結局どうなるの?」
「田児氏、出してる途中に喋らなくていいから。あと臭いから扉を閉めてくれないかな?」
ごめんごめんと寿々木に謝りながら、田児は扉を閉めてフェードアウト。
さっきのステージの感動からえらい落差の光景だなと思う。そもそもトイレで会議しなくてもよくね?
「どうなるかは結果を見てのお楽しみだww ではいくぞ、皆の衆。配置に付くのだ」
「火を見るより明らかな結果でしょ。……明日退学してないといいけど」
「寿々木よ、我々は後ろ暗いところなどごまんとあるだろう? 言わばやましさしかない。今更脛にひとつ傷を増やしたところで人生観など変わらんさ。だが、これからやることは、いわば『相互確証破壊による均衡の維持』なのだよww」
扉の向こうでプスーッと音が聞こえる。
その隣の扉からジャーッと流れる音がして、田児が出てきた。
「急に難しいこと言い始めたよね、早河くん。そーごかくちょうはかいによるだっこうでじってどういう意味?」
「尻穴が痛そうなスローガン掲げるじゃない」
「お互い核持って、撃ったら被害怖いだろ? だから撃ち合うのやめようぜって行動を抑止する話」
「でもさあ、それだと風紀委員は何が怖いことになるの?」
寿々木のウィキ○ディア先生もさることながら、田児の核心を突く何気ない疑問に「確かに」と思う。
「フフフ、我々が秩序に従い混沌を行うということだよww」
「いままで申請してこなかったけど、これからはちゃんと手順踏んでやろうねってことかな。向こうは捕まえる理由がなくなったけど、これまでのことを考えると、普通にはらわた煮えくりかえっているだろうね」
寿々木先生、さすが。僕もちょっと意味が分からなかった。
「で、何が抑止になるの?」
「こっちが無許可でやってないか向こうさんはピリピリすることになる……ってこと?」
「フハハ、特に意味はないww」
「ないんだ……」
からからと紙を巻く音の後に、水を流す音。
早河が個室から出ると、颯爽とブリーフパンツを履く。男子しかいないとはいえ、モロだしはマナー違反だ。
「早河氏もまず個室の中でパンツとズボンを履いてから出てきてくれませんかねえ!」
寿々木、いいぞもっと言え。
「ちょっと待ってよ! 正体曝すなんて僕は反対――」
「時間だ、名無」
ポンと早河に背中を叩かれる。
「手を洗ってから触れや!」
僕は不安を抱えながらも移動せざるを得なかった。
最悪、自分だけ覆面は残したまま、早河だけ素顔を晒す方向に持っていくしかない。
何を思って、わざわざ風紀の連中に正体を晒そうというのか。
目を付けられるということが、これからの学生生活でどれだけのハンデを負うことかわからないわけではないだろうに。
何か深い考えが早河にあるとは到底思えない。
だが、止めようとしても早河の足は早かった。
肩を捕まえようとしても、するりと抜けて先へと進む。
ミスコン・トークショーがダンスサークル優位のまま終わり、次は学内有志による『殺人カラテ・愛の逃避行編』という寸劇が始まった。
開始一分にして登場人物が次々に脈絡なくひ弱な通信カラテ段持ちのユーチューバーにチョップで殺されるという展開に誰もついていけていない。
あまりの駄作に観客が離れていこうとしたときだった。
――突然アニソンが鳴り響く。
ひ弱な殺人カラテマンも演技をやめて訝し気に周りを見ている。倒れ伏していたやられ役の男子が唐突に立ち上がった。私服姿だが赤のマスクを被っている。
観客席から青のマスクと黄色のマスクが乗り込んできて、上手からサンタの格好をしたマスク二人組が姿を現す。
そして黒のマスクは、ステージの頭上からくるくる回って着地。六人はタイミングよくポーズを決める。
突然音が止まる。
しんと静けさが落ちる。
ステージの上にはすでに覆面だけで。
席を離れる支度をしていた観客は、突然の出来事にその場に縫い付けられたまま。
「宣誓!」
「僕たち! 私たちは! スポーツマンシップにのっとり!」
「いつも付き合ってくれる風紀委員の皆さんに感謝し、また、同時に小馬鹿にし!」
「怪我の無きよう配慮して安全にステージをジャックし!」
「他人の迷惑省みず、しかして不慮の事故が起きぬよう善処することを!」
「誓います!」
全員が片腕を天に伸ばしたかと思うと、ひとりずつ前に出てきて何やらしゃべり始めた。あと、「僕たち、私たちは」でひとりが腕を交互に上げて見せる必要は特にない。
彼ら覆面集団が日夜何と勝負しているのか、観客には伝わるまい。いまも風紀委員がステージに乗り込んでこないか冷や冷やしていることも、おくびにも出さないでステージをジャックした。
言い終わったと思ったら間を置かず、誰もが知っていそうなアニメソングが軽快に流れ出した。
ステージの六人はステップを踏んで立ち位置を替えていく。
キレッキレの踊りは、ダンスサークルより大衆的で、技術というより派手さが目を惹いた。
ピエロの動きのようなコミカルさ、ちょっとしたオネエなポーズに、六人全員の息の合った豪快な手の振りが面白い。
曲も半ばに達すると、ステージ前は観客で埋まっていた。
もとよりパフォーマンスはダンスサークル在籍の指導者がいることもあって、慣れ親しんだ曲に合わせて踊る彼らは、パフォーマーとして素人の域を超えていた。
観客からの手拍子で乗ってきた頃、遠くから人波を掻き分け、険しい顔の風紀委員が迫っていた。
その中には、僕がいちばん来てほしくないと思っていた姉の顔もある。
長年の仇敵を目の前にしたかのような、淡々と迷宮の魔物を屠る仕事人の冷徹な顔がそこにはあった。
早河が何を考えているのか、いまだに不安しかない。
ステージの上でちらりと見ることすらままない。
見たところで全員覆面をしているので表情がわからないのだが。
ところで伊東よ、ヘッドスピンをしたまま段々と宙に浮いていったら、顔を晒さなくても正体ばれる。
いまも観客席の隅で固まってるダンスサークルの子たちがしきりに「伊東センパイ?」と指差しているのが目端に見える。
特に青灰色の猫獣人と、頭ひとつ周囲から抜きん出た身長の鬼人の女の子がひそひそしているのが目立った。
「曲を止めろ! 止めろ止めろ! 中止だ中止!」
四方から険しい顔の風紀委員が距離を詰めてくるのを、ステージ上から踊りながら眺めていた。
「くひっ」と覆面の誰かから声が漏れたが、それが早河の可能性が高くてげんなりした。
「あわわわわ」と聞こえてくるがこれは田児だろう。根っからのテンパリストなのだ。
やばいよやばいよと焦る気持ちはあるが、体に染みついた動きは、田児ですら少しもブレていない。
流石に魔物がときたま襲ってくる迷宮内で練習して、キレを磨いてきただけはある。
一度なんて熱中し過ぎた伊東が、踊っている最中に頭をバクリと恐竜型の魔物に喰われたこともあった。
これまでの風紀委員との追っかけっこも合わせて、無駄に度胸だけは付いているのかもしれない。
「校内規約に違反した恐れがある。全員直ちにステージを降りなさい」
曲が止まり、観客がざわざわとし始めた。ゲリラライブを行う前に取り決めたこともあり、曲が止まろうが踊るのをやめない方針である。
目配せをすることもなく、段取り通りに踊り続ける。
風紀委員がステージの脇から上がってきて、後ろからじりじり迫っていても、僕らは踊りをやめない。最後まで踊ってみせる。それが僕らなりの矜持――
だが、その決意も一瞬で立ち消える。
――ズン、と足音が鳴っただけだった。
僕らはそれだけで、身体が麻痺したように動かなくなった。
観客をモーセのように割って現れた風紀委員長が、たったの一度、強く一歩を踏みしめただけで、僕らは圧倒されて動けなくなった。
放たれるのは千の人間から向けられる殺意のような、しかし実際はたったひとりの女生徒の眼光だった。
風紀委員長の嵯峨崎純恋が壇上へ上がってくる。
僕らは最後まで踊り切れなかった。筱原など、足をもつれさせて尻もちついてしまっている。
わけもわからず襲われる怖気に、田児が「ヒッ!」と喉の奥から悲鳴を上げた。見るのも憐れなほどにガクブルしている。
背筋に走る寒気は観客まで伝播し、先程までの昂揚が嘘のように凍り付いていた。
観客は逃げ出さなかった。恐慌に襲われて、逃げ惑うこともない。というのも、ただただ動くことで目立つのが怖いのだ。
ひと睨みで獲物にされてしまいそうな、捕食者との絶対的なまでの力の差があった。
観客の顔を見ればわかる。それがそのまま自分の顔だと。恐怖に身動きひとつ取れない小動物のような顔だろう。
だが、勇者はいた。ただの無鉄砲かもしれないが、圧倒的な場の支配力を前に、早河だけは挑むように前に出た。
それと同時に呪縛が解けたように、早河以外の僕らは一歩下がった。寿々木が倒れた筱原を助け起こそうとしゃがみ込んでいる。
「申し開きはあるか。貴様らは今日まで散々虚仮にしてくれたな。最後に言い訳があるなら聞いてやる」
「おまえの顔に泥を塗ってやる。一生落ちない濃ぃいべっとりしたやつをな」
「なんだと?」
「なんか意味違くない?」「白い液体のつもりだって」と座り込んだ寿々木と筱原がひそひそしているが、それは置いておこう。
ここにきて早河が純恋の感情を逆撫でする意味が分からないのだ。
いや、逆に、今日ここで、衆人環視の中で彼女を罵倒することこそが、早河の真の目的だったのかもしれない。
のちにこの瞬間を振り返って思うのは、覆面の下に隠されているであろう、暗い喜びに浸った早河の悪い顔だ。
「I am your brother.」
「……なに?」
「そうだ、私がおまえの弟だ」
「ここにきて暗黒卿降臨ww」「真面目にふざけてる乙」とぽそぽそ話す寿々木と筱原に激しく同意。
早河はマスクに手をかける。
汗でべったりと顎と首の肉に張り付いて脱ぎにくくなっているマスクの縁を、ソーセージみたいな指で必死に取っ掛かりを探してひっかいている。
やっとのことで引っ張り上げられ、汗で髪が張り付いた素顔が露わになった。
「嘘だ……なんでおまえが……」
「そうだよ、愛しの姉さん。あんたの弟は極めつけの悪人だってことさww」
「う――」
「嘘だぁぁぁぁぁ!!! うああああぁぁぁ――――――!!!!」
純恋の驚き引き攣った声に被せるように叫んだのは、何を隠そう僕である。頭を抱えてステージ上で膝から崩れ落ちた。
「姉弟? そんな馬鹿なぁぁぁぁ!!! 全然似てないじゃないの。いやでも、確かにふたりともハーフエルフですけども!! 耳のとんがりがまったく同じですけども!!!」
「説明ありがとう、愚かなチェリーボーイww 姉ができて舞い上がっていた自分を恥じるがいいww 彼女にはこんなにぷりっぷりな弟がすでにいたということを、ねえ! ところでねえ、いまどんな気持ちww」
「矛先ズレてね?」「いやいや、あれはシスコンを拗らせて名無氏まで逆恨んでる憐れな男の末路ですな」と身を寄せ合った寿々木と筱原のひそひそ声、聞こえてるから! 隠す気ないだろ!
「……私はここまでおまえたちを情けないと思ったことはない。聡、零士。おまえたちを捕える。貴様らのお遊びクラブも解散だ。二度と許さない」
マスクをまだ外してないのに僕の名前まで言い当てられた。まあそうだよね、そうなるよね。わかるもんね。声出しちゃったもんね。……絶望だ。
「そうやって力で抑えつける。それがおまえのやり口なんだよww いつだってそうだ。睨んで言うこと聞かせればいいと思ってやがるww 誰が言うこと聞くかよ、クソビッチがww」
ステージの上、早河だけが恐怖を呑み込んで一歩動いた。声が上ずっていたし、足も震えていた。しかし何が彼を突き動かすのか、風紀委員長と真っ向から対峙する。
「生まれて初めておまえに対して強い怒りを覚えている」
「はっ! 騎士様は随分と遠回しでもったいぶった言い方をするんだなww 実の弟が非行少年だから嫌なんだろ! 自分の経歴に泥塗るもんなぁ、このクソビッチがww」
挑発するのはそこまでにして逃げた方が良くない? 寿々木に目配せするが、力なく首を振られる。すでに後ろにも風紀委員は包囲を狭めてきているのだ。
抵抗しようとしたら、三人がかりで肩や腕を押さえられた。そして次々に覆面を引っぺがされている。
僕の前にもいつの間にか純恋さんが立っていて、彼女の手でマスクを剥ぎ取られた。
目が合った。一瞬悲しげに歪んだ気がしたが、すぐに冷徹な委員長の仮面に覆われてしまう。
「全員連れていけ」
こうして僕らは舞台から下ろされた。
姉への裏切りで、胸が痛い。
[陰キャメモ]
男子トイレでエモい感じの話が入るの「あひるの空」で、そのオマージュです。




