2. プロローグ ②
ファインは岩の上からひょいと飛び降りると、丘の上の宝物殿に向かって歩き始めた。ネイドも慌てて横に並び、手に持っていたランプで二人の足元を照らした。二人は小石交じりの荒れた坂道を、僅かに息を荒くしながらゆっくりと登っていった。
「しかし、何だってまた、宝物殿の警備なんて命令が下ったんだろうか。普段なら、役所の連中の仕事だろうに」
ネイドはファインに向かって囁くように問いかけた。通常、宝物殿の警備は役場が雇っている警備員の仕事であって、シャロン警察隊が出張るというのは異例の出来事だった。
「まあ、確かにあまり聞かない話ではありますけれど……」
ファインは困ったような表情で答えた。
「でもまあ、特別変な話という訳でもないんじゃないですか? これまでにも宝物殿は、盗人たちの襲撃を受けてきた歴史がありますからね。中に何が仕舞ってあるのか、私は知りませんが」
「大したものは入ってないはずさ。重要な遺物は既に運び出されて、近くの博物館が厳重に保管してる。あそこに残っているのは、置き場所には困るが、捨てるに捨てられない遺物たちだけのはずだ」
「まあ、世の中変わった好みの人もいますからね……」
ファインは心にもなくそう言った。
「仮に悪者から宝物殿を守るという任務だとしてもだ」ネイドはさらに続けた。「それなら、なおのこと変じゃないか? 突然警備を増強するなんて、まるで今夜、何かが起こることを事前に知っているような話じゃないか」
「それは確かに」
ファインはむう、と唇を尖らせた。
隊長クリエンツェは多くのことをファインたちに語らなかった。宝物殿を夜通し警備してくれというあっさりとした命令だけ。夜警という任務そのものは警察隊の仕事として珍しいものでもなかったから、彼女は特に疑問を持っていなかった。しかしネイドに改めて指摘されてみると、確かに少し妙な話だという違和感を、彼女は微かながら覚え始めていた。
「今晩、何かが起こるのでしょうか……」
ファインは坂の上を見つめ、さらりと呟いた。その何気ない彼女の言葉は、横並びに歩く二人の間に重々しい緊張感を与えた。二人はそれからしばらくの間、黙って淡々と坂を登り続けた。時折吹き付ける夜風が二人の体を背後から煽り、棘のような冷気が全身に走った。警察隊の制服である濃緑色の外套が、不愉快な風の中に忙しくはためいた。
広葉樹林の森をすり抜けるように進んでいくと、やがて二人の前方にぼんやりと揺らめく灯火が見え始めた。それはきっと、宝物殿の前に集っている人間たちの明かりに違いない――ファインは雲の切れ目から満月を見出したような心持で、
「ああ、見えましたよ!」
とネイドに言った。急に声を上げたファインに驚いて、ネイドはうっ、という声にならない呻き声を返した。
「……そうかい? 俺にはまだ何にも見えないが」
「ええ、見えます。多分、宝物殿の玄関の明かりです。それにほら、宝物殿の塔の形もぼんやりですが見えてきました」
ファインが指さす方向をネイドは目を細めて眺めてみたが、彼の瞳に映るのはひたすらに夜の漆黒だけだった。ネイドは長く息を吐いて、肩を竦めた。
「さっぱりだな。年のせいか、最近目の調子がよろしくない」
「あらら、年だなんて!」ファインは驚き顔で言った。「ネイドさんだって、まだまだ若いじゃないですか」
「若いって言ったって、俺ももう三十六だからな」
ネイドは憂い気な表情でファインの方を見た。
「流石に十六歳の女の子と比較されると、悲しくなってくるものだ」
その自嘲気味な物言いに、ファインはフン、と鼻息を鳴らした。
「そんなこと言って、隊の剣術大会じゃ優勝常連でしょう? いい加減王座を明け渡してもいいんですよ?」
「剣の腕は別物だ。あれは本物の目よりも心の目の方が重要だからな。心の方は年を取るほどに洗練されて、衰えることもない。……君の剣の腕は大したものだが、まだまだ負けてやるわけにはいかないね」
ネイドはそう言ってケタケタ笑った。
「いいですよ。直ぐに追いついてやりますから!」
ファインは顔を膨らませてプイっとそっぽを向いた。ネイドはその子供じみた反応を微笑ましく思うと同時に、彼女の表情から滲み出る克己心に末恐ろしさを覚えた。彼女は強くなろうとしている。既に警察隊の大半の人間よりも腕の立つ現在であっても、彼女の強さへの探求心は衰えを見せない。
彼女は何故強くなろうとしているのか、ネイドは全く知らなかったし、聞き出してやろうとも思わなかった――何しろ警察隊の隊員の中には、暗い過去を持っている人間も少なくは無かったから。迂闊な質問によって気まずい雰囲気になるというのは、彼は長年の警察隊勤めの中で何度もお目にかかってきた。彼のその経験が、他人の出自や目標に興味を持つことを無意識のうちに躊躇させていた。
「……まあいいです。そんなことよりも、集合場所はもう少しですよ。そろそろ心の目にも見えてきたんじゃないですか?」
ファインは朗らかにそう言って、次第に大きく見えてきた宝物殿の黒い影を指さした。ネイドは彼女の指が示す方向へとゆっくり顔を向けた。
その瞬間だった。