ターゲット 朝に寝る女
「じゃあ、お疲れ様」
「…お疲れです。」
雇われ店長が運転する店の車から降りて、フゥ、と身体に溜まった熱と一緒に息を吐き出した。アルコール臭い息に自分でも嫌になる。
暦の上では、秋を迎えた筈なのに未だに昼間は30度を越える日が続く。しかし、夜から朝に、1日が始まろうとするごく短い、僅かな時間に、吹く風の中に秋を感じる。
火照って身体をその風に任せる。
今から、1日が始まる。
この暗闇が瑠璃色に染まる瞬間が一番好きだ。
身体を伸ばして、風を浴びてからアパートに向かう。郵便受けにある束を掴んで、エレベーターを待つ間にそれを確認すると、実家の母親からハガキが入っていた。
ひっくり返してみると、昨年亡くなった父の一回忌の案内であった。
部屋に戻り、先ず化粧を落とし、部屋着に着替えた。そして、クッションソファーに座り込んで、改めて、そのハガキに眺める。
もう、一年前になるのか…、
流れさった時間の早さを、過ぎさった日々の永さを思い返す。
それは、多感な思春期の暴走。反抗期。
言葉にすれば実にありふれた言葉にされてしまうそれを、あの頃の、世間を知らずな私はもて余した。
上から押さえつけてくる父の言葉にただ苛立ち、反発した。その想いを絶対だと信じて、唯一の解決策だと選んだ家出という道は父の死に目に立ち会う機会を奪った。
いや、その考えは卑怯だ。
あの時は、まだ、選べなかった。
母から残された留守番の切迫した声を聞きながら迷った。
父に従うのか生き方が正しいのか?それとも、今、自分が選んだ道が正しいのか?
自分は正しく大人になったのだろう?
渦巻いた選択の正否を問う思いが私の足を止めた。
一晩開けて、なにも決めないまま母に電話すれば、既に父は帰らぬ人となっていた。
母からは仕方がないと言われた。
あっという間に、僅かな時間で、父の容態は悪化したらしい。
私が仮に留守番を聞いて、すぐに動いても間に合わない程の早さだったらしい。
それでも、私には、私の心には後悔という棘が残った。
父の一回忌、参加するべきだろう。
しかし、親族は親の死に目に戻らない娘の私を軽蔑している。
あの不快な眼差しを浴びるのは、そもそも、父は、私をどう思っていたのだろうか?
家出してから、一度たりとも顔を会わせないまま、気持ちを分からぬまま、別れた父は私が居ることを許すだろうか?
答えが出るはずがない問題を考えていると、いつの間にか、夜は明けていた。気付けば、三時間以上経っていた。
酔いは醒め、食欲はなかったので、一度、リフレッシュのつもりで熱いシャワーを浴びる。
部屋に戻り、先程の体勢になると、普段は寝ていて気づくかない朝の音が耳についた。
遠くから聞こえるバイクのエンジン、鳥の鳴き声、バタンと扉が閉まる音、行ってきます、いってらっしゃい、交わされる挨拶、様々な音が響いてくるうちに、私の意識は遠くなっていき、急に世界が暗くなった。
ピンポーン、ピンポーン
「おはようございまーす、いらっしゃいますか?」
目が覚めたのは、それから、5時間後のことであった。
甲高く鳴り響くインターホンと、聞き覚えのない男の声に
ハッと目が開いた。夢はおろか、いつの間に寝たのかさえ分からない深い睡眠は、寝起きの気だるさを感じないものであった。
ピンポーン、ピンポーン
「おはようございます、お留守ですか?」
ドン、ドン、ドン!
扉の向こうにいる誰かは、少し強めに扉を叩いてくる。
恐怖より、怒りが勝る。
実家からの、母からの手紙で思い出した過去のせいなのか、それとも、ただの睡眠を邪魔された苛立ちなのか、私は、扉の向こうに不機嫌な返事を返した。
「誰よ、あんた!」
「ああ、いらっしゃいましたか、あの、○HKの者ですが?」
「はぁ?○HK?なによ?」
「すみません、受信料のことでお話が、」
別に、見ないわけではないから払うのは構わない。
しかし、今まで、○HKが来たことがない。もしも、何年分も払え、何て言われたら、どうしようか?
「あのお、開けてもらえませんか?」
「ああ、はい、」
「すみませんね、今まで口座から引き落としで契約いただいていたんですけど、」
「えっ?」
「あれ?ご家族様から聞いてません?」
「ええ、」
扉の向こうに立っていたのは、ネズミ色のスーツをきたあまり背が高くない男であった。
男の口から、これまでの支払いはされていると言われ驚く。
「お父様だと思いますけど、家族割引で契約をされてまして、」
「父が?」
「はい、で、お父様が亡くなりまして口座が、」
「父が…、」
「…、で契約、あの、聞いてます?」
「えっ、あ、あの、契約の書類をください。」
男は、困った顔をしたが、必ず契約するからと強引に追い返して、契約の内容を確認する。
離れて暮らす家族の分の受信料を払うという家族割引の内容を確認すると目からポロポロと涙が落ちた。
父から思われていたんだと、出ていっても、離れても、家族だったんだと分かると、胸の中にあったナニかが外れた。
気付けば、一年ぶりに母に電話をして、父の一回忌に参加すると伝えた。
久しぶりに、穏やかな気分となったからだろう。気付けば、また、眠りについていた。
受信料の契約は起きてすぐに書いて出す。
私が、父から独立した瞬間であった。