ターゲット 二年目の男
不思議な感覚であった。
全体的にぼんやりとした世界で、自分がどこに立っているのか分からない。今日が何日で、今が何時なのか、分からないまま、急に目の前に父と母の姿が現れる。
「その、しっかりな。」
「もう、お父さん!あ~、ほら、忘れ物は大丈夫?お財布持った?ケータイは?あんた、着いたらと連絡しなさいよ?独り暮らしでも、ちゃんとご飯食べて、部屋も片付けるのよ?あと、」
「母さん、あんまり急いで言わなくても、」
「あ~、心配だわ、きちんと戸締まりして、向こうはどんな人がいるか分からないからね?」
「ああ、そうだ。戸締まりはしっかりとしなさい。」
二人の言葉が、表情が、これは旅立ちの日、去年の事だと教えてくれる。遠くから、新幹線の発車ベルの音が聞こえてくる。改めて両親の顔を見れば、一人息子の門出を嬉しく、また寂しいと感じている。その複雑な思いが表れた顔に背を向けて、ホームから僅かに離れた新幹線に乗り込んで、
ピンポーン、ピンポーン
「こんにちわ―、いらっしゃいますか?」
まるで知らない男の声が聞こえてきた。
景色が変わった。
いや、そうではない、目が覚めたのだ。
地元を離れたい。
その一心から合格した大学に通うため借りた4LDKのワンルームは、雑然と物に溢れていた。
大学生となる事に憧れ、期待に胸を膨らませ、ちょうど一年前に借りたそのワンルームは無味無臭の空間だった。
しかし、一年間、その無味無臭の空間をひたすら自分のものとするべく努力した結果、異界のような、不快なような、世界が生まれた。
バイト明け、スマホを弄っていていつの間にか眠っていたらしい。
初めはただ嬉しかった。
一人暮らしが、一体いつからだろうか?
地元を離れたという興奮が醒めてくると、なんでもない事が不安に感じる。先程の夢もその寂しさが見せたものなのか、軽いホームシックのような状態で、寝ぼけた頭を働かせる。
ピンポーン、ピンポーン!ドン、ドン、ドン!
「こんにちわ!お留守ですか?」
再び、先程の男の声が部屋に響く。今度は、同時に扉も叩いている。
自分の知る人ではない。聞き覚えのない声にビクッと体が反応する。
またインターホンが鳴り、誰かが扉を叩いてくる。先程の夢の言葉を思い出す。不安を抱きつつ、言葉を返す。
「はい、だ、誰ですか?」
「ああ、良かった。お留守かと思いましたよ?あの、ドア開けてもらえますか?」
「いや、あの、誰ですか?」
「あ、スミマセン。N○Kの者です。あの、契約の事で確認したいことがありまして、ドア開けてもらえますか?」
扉のむこうの男は日本○送協会だと名乗る。
寝起きで、朦朧とした意識のまま返事を返した事を後悔した。
遂に来た。
扉の向こうに立つのは人であっても、人でなし。一度食らいつけば、もう離れない彼らの名前はNH○。
知らなかった。分からなかった。では済まない。確認をしなかった事が最大の失敗であった。
日々、電波の世界で囁かれるおぞましい話を思い出すが、一度、大きく息を吸い込む。
助かる手だてはあるのだ。
ドラキュラに十字架、ゾンビにヘッドショット、糠に釘、例え、如何なる化物であっても倒せない化物はいない。
倒せる。いや、倒すのだ!
強い心をもって、扉の向こうにいる悪魔と対峙する。
「すみません、ドアを開けてもらえますか?」
「あ、はい、いま開けます。」
「すみませんね、お昼寝されてました?」
「いいえ、あの、契約って?」
「お兄さん、大学生?それとも、もう働いているの?」
「大学生ですけど、」
「学生さんなんだ、なにかやってるの?」
扉の向こうにいたのは、中肉中背のネズミ色スーツを着た40台の男であった。こちらが扉をすんなり開けたので、警戒が薄まったのか、無駄な世間話を始める。
寝起きの不機嫌さを目一杯浮かべた顔も、歴戦の悪魔には効果がないらしい、ペースを捕まれないように先に話を切り出した。
「うち、テレビ無いんで、」
「えぇ?ほんと?嘘はダメだよ?」
「嘘じゃないっす。じゃ、」
「待った。中を確認させてくれないかい?」
スゴい。
効果がある。
便所の落書き呼ばわりされるネット掲示板も無駄ではない。
「勝手に部屋に入るなら、警察呼びますよ?」
「えっ、本気かい?」
「帰らないなら、通報します。」
「…」
スーツの男は完全に黙りこんだ。
勝った。
なんだ、騒がれるほどじゃない。
こんな簡単に倒せるなんて、やっぱり、あそこは嘘ばかりだ。
「テレビは無いんだね?」
男はこちらに問い掛ける。
それは、悪あがきの言葉だ。敵わないと理解した敗北者の言葉だと思った。
「無いですよ。あんた、しつこいな、通報するよ?」
「そのスマホで?」
「ああ、すぐに帰らないと、通報するからな!」
「…、そのスマホはお兄さんのだよね?」
「ホントにしつこいぞ?あんた?」
目の前に立っている男になんの変化がないことに、今さらながら気づいた。
切り札を切ったのに、警察を呼ぶとまで啖呵を切ったのに、目の前にいる男は、むしろ愉しそうに、こちらを見てきた。
「そのスマホ、テレビ見れるやつだよね?」
「えっ?」
「お兄さん、○HKはテレビが対象じゃないよ?」
「えっ、いや、はぁ?」
「放送電波の受信機全てが対象だよ。」
「う、嘘は、」
「嘘じゃない。そのスマホで調べたら、すぐに分かるよ?」
目の前に立っているのは、先程までの男に違いはない。しかし、そこから、感じる圧力は噂に聞く悪魔そのものであった。
結局、俺はその場で金を支払った。
去り際に、二度と来るなと小さく呟くと、男は口座引き落としの契約書を郵便受けに入れていった。