加茂さんは滑りたい
俺と神薙さんが焦って加茂さんを引き上げようと動く前に、加茂さんは水面に顔を出した。
「…………(ぶいっ)」
加茂さんは得意げな表情でピースサインを向けてくる。心配無用ということを伝えたいのか、はたまた飛び込み成功の喜びを伝えたいのか、いまいち分からない。
――って、そんなのどっちだっていい。
「アホ」
「…………(あうっ)」
俺は加茂さんの額に、少し強めにデコピンをかます。
加茂さんは片手で額を押さえ、もう片手は流されないように浮き輪を掴む。そして、俺に文句ありげな視線を送ってきた。
「何でデコピンされたか分かるか?」
「…………(きょとん)」
「分からないか?」
「…………(こくこく)」
「はぁ……」
思わずため息が出てしまった。やはり加茂さんは頭が弱い。
だからこそ、この程度のことは自分で分かってほしい。じゃないと、将来的にずっと心配し続けることになってしまう。
「神薙さん見てみろ」
「…………(こてん)」
加茂さんは俺の指示通り、神薙さんに視線を向ける。
「…………(あっ)」
そして、顔を引き攣らせて固まった。そんな彼女に、神薙さんは少し強めの声で言う。
「九杉は自分が泳ぎ上手くないこと、自覚してるわよね」
「…………(こくり)」
「じゃあ、何でいきなり飛び込んだの」
「…………(えーっと)」
「……大方、自分も泳ぎたくなったとかでしょうけど」
その指摘に、加茂さんはそっと視線を逸らす。どうやら図星らしい。
「お願いだから、今みたいに急に危ないことしないで。何かするなら先に言って。私、頑張って読み取るから」
「…………(こくこく)」
神薙さんの言葉に、加茂さんは何度も頷く。
神薙さん、やっぱり加茂さんに少し甘いなと思う。俺なら軽く説教でもしてたぐらいなのに、"お願い"という形で済ませてしまった。
「…………(うー)」
……まあ、加茂さんの罰の悪そうな表情を見れば、反省してるかどうかの判別はできる。だから、今回は俺も目を瞑ろう。
「…………(じっ)」
「……? 九杉?」
加茂さんは真っ直ぐに神薙さんを見つめると、両手を合わせて目を瞑る。
――そのまま、静かに沈んでいった。
「「え」」
「――――!?」
浮き輪から手を離せば、背泳ぎすらできない加茂さんがそうなるのは自明の理だった。
しかし、焦りの表情や吐き出す空気の量を見る限り、彼女はわざと手を離した訳ではないのだろう。
……それでも、だ。
「「だから少しは考えて動け(きなさい)!」」
俺達は即行で加茂さんの救助へと動いた。
――後から聞いた話だが、この時、加茂さんは神薙さんに謝ろうとしていたらしい。体張り過ぎである。
* * * *
プールを移動し、次にやってきたのはウォータースライダー。このプールの顔と言ってもいい人気アトラクションである。
「私は下で待ってるわね」
早速階段を上ろうとした矢先、神薙さんは立ち止まってそんなことを口に出す。
「神薙さんは?」
俺が訊ねると、神薙さんは言いにくそうに目を逸らしながらも答えてくれた。
「私、高いところ駄目なのよ」
神薙さんの苦手なもの、初めて聞いたかもしれない。苦手があるように見えなかったから、少し意外に感じた。
「九杉はウォータースライダー初めてだから、赤宮君よろしくね」
「……そうなのか?」
「…………(こくっ)」
これも意外だった。好奇心旺盛な加茂さんなら、こういう系は全て制覇してそうなものなのに。
もしかして、加茂さんも高いところが苦手なのだろうか……なんて思ったが、時折ウォータースライダーに目を奪われている彼女を見ていれば違うことが分かる。
「…………(そわそわ)」
挙げ句、そわそわと体を揺らし始める。かなり楽しみらしい。
「加茂さんなら一度は滑ったことあると思ってた」
「いつもは私が止めてるから」
「……何で?」
「だって、九杉を一人で滑らせるなんて不安で不安で……」
加茂さんがウォータースライダーを滑ったことがない理由は、神薙さんだった。
たかがプールのアトラクションであり、安全だって保証されてる。しかし、俺は彼女の心配しすぎだとも思えなかった。
加茂さんには既に、流れるプールの時の前科がある。普段のこともあり、心配の理由としては十分だろう。
――嫌な予感がした。
「……一人ずつ滑るんだよな?」
「ここのウォータースライダー、二人一緒に滑れるのよ」
「待て待て待て」
この加茂さん過保護者は何言ってんだ。
「加茂さんが嫌だろ」
「…………(こてん)」
「おい」
何故?と言いたげな目で首を傾げるんじゃない。
「九杉、赤宮君と一緒に滑るのは嫌?」
「…………(ふるふる)」
加茂さんは首を横に振る。できれば縦に振ってほしかった。
彼女も神薙さんも、ちゃんと分かっているのだろうか。一緒に滑るということを。
「二人とも、あれを見ろ」
俺はタイミングよく滑り始めた男女のカップルを指差す。男性が後ろから女性を抱えるようにして、二人で滑っている。
理由は他にも色々あるが、一番の理由はこれだった。
「一緒に滑るんだから、そうなるでしょ」
神薙さんは分かっていたらしい。分かっていて、一緒に滑ろと言ったのか。それもどうなんだ。
加茂さんを見ると、彼女は目を瞬かせて驚いたような表情を浮かべていた。そして、頰も淡い赤みを帯びている。
彼女は今更分かったらしい。理解が少し遅い気がするが、そこはいいだろう。これで……。
「…………(ぐいっ)」
――そんな俺の思いとは裏腹に、加茂さんは俺の腕を引っ張った。
「加茂さん?」
「…………(びしっ)」
俺の腕を引っ張りながら、ウォータースライダーを指差している。
「無理すんな」
「…………(ふるふる)」
彼女は口を一文字に結び、首を横に振る。彼女なりの精一杯の否定のつもりだろう。
しかし、頰は依然赤みを帯びたままだ。無理をしているのが見え見えだった。
「…………(ぐいぐい)」
「落ち着け」
「…………(ぐぃぃぃ)」
加茂さんは執拗に腕を引っ張るが、俺だって簡単に引っ張られてはやれない。
きっと意地を張っているか、引き下がれなくなってしまったかのどちらかだろう。どちらにせよ、碌な理由じゃない。
そう思っていたのだが、神薙さんが理由を教えてくれた。
「九杉、ずっと楽しみにしてたのよ。私も滑らせてあげたいとは思ってたけど、どうしても怖くて……」
「……そっか」
加茂さんは多少、精神的に無理をしてでも滑ってみたかったらしい。
いつだって、無茶という現実より好奇心が勝ってしまう。それが彼女であり、そこはこれからも変わらないのだろう。
まあ、どちらにせよ碌な理由じゃない。でも、理解はしてしまった。
「お願い。赤宮君、滑ってあげて?」
断れない。仕方ないと諦めている自分にため息が出る。
「分かったよ」
「! それじゃあ」
「行ってくる」
俺は軽く神薙さんに向けて手を振る。
「…………(ぱっ)」
加茂さんは嬉しそうな表情で俺を見ると、俺の腕を引っ張るのをやめた。
そして、神薙さんに笑みを浮かべながら手を振る。多分、"行ってきます"という意味だろう。
そんな彼女を見て、自然と頰が緩んだ。本当に、彼女は良い顔をする。
「楽しんできてね」
神薙さんもまた、笑みを浮かべて手を振り返してくれたのだった。





