加茂さんと文字無しコミュニケーション
「そういえば、加茂さんは何て言って抜け出したんだ?」
トイレで待機している間、気になったことを加茂さんに訊ねる。
「…………(さすさす)」
「……お、おう」
加茂さんは自分のお腹をさする動作を見せた。きっと、俺と同じ"腹痛"ということにしたのだろう。
……無難と言えば無難なのだが、二人も腹痛だと勘付かれやしないだろうか。
せめて、"俺が心配だから様子を見て来る"でも良かったような……いや、俺の視線の意味をを察してくれた上に、抜け出してこれただけでも十分と言えるだろう。
それに、バレてもそこから二人で会話に発展する可能性だってあるんだ。そう考えれば、特にデメリットはないのかもしれない。
まあ、後で神薙さんに怒られる可能性はある。説教は甘んじて受けるしかないだろう。
「今更だけど、巻き込んでごめん」
「…………(ふるふる)」
加茂さんは横に首を振る。やっぱり、彼女は優しい。
そして、俺はそれを知っていた。だから、甘えてしまった。こういうところは、今後直していかなければいけないと思う。
「……顔に何か付いてるか?」
「…………(ふるふる)」
無言で俺を見つめてくる加茂さんに気づき、訊ねる。
しかし、特に用はないらしい。用はないのに、その後も俺をぼーっと俺を見つめる。
何を考えているか分からない加茂さんを見た俺は、更にあることに気づいた。
「ホワイトボードは?」
「…………(びしっ)」
加茂さんはトイレの外を指差す。多分、席に置いてきたらしい。
……当たり前か。トイレに行くのにホワイトボードは要らないもんな。
「……で、ずっと見つめられるのも落ち着かないんだけど」
「…………(はっ、ぺこぺこ)」
俺が指摘すると、加茂さんは我に帰って頭を下げてくる。
「一々謝らなくていいから」
見つめてくること自体は構わない。
ただ、こんな狭い空間で、二人きりで、無音という状況。今は彼女の視線がとてもむず痒く感じてしまう。
「何か話すか」
「…………(こくっ)」
俺はそんなむず痒さを誤魔化すように提案した。
加茂さんは頷き、再び見つめてくる。落ち着かないと言ったばかりなんだが……まあ、いいか。
「加茂さんって甘いもの好きか?」
「…………(こくり)」
俺の質問に対し、加茂さんは頷いた。
「分かった。じゃあ、今度何か奢る」
「…………(きょとん)」
加茂さんは目をぱちくりさせた後、俺に理由を訊ねるように首を傾げた。
「協力してくれたお礼だ。流石に何もなしってのはな」
「…………(ふるふる)」
俺が理由を言えば、加茂さんは首を横に振った。
まさか拒否されるとは思わなかった俺は、少し考えてから譲歩案を出した。
「それなら、ここの代金ぐらいは奢られてくれ。じゃないと、俺の気が収まらない」
「…………(ぴたっ……ふるふる)」
加茂さんは一瞬迷いを見せたが、それでも奢りは拒否されてしまう。その後に、人差し指を上に立てた。
「1……?」
「…………(こくり)」
加茂さんは頷き、今度は両手で山を作った。ジェスチャーにしても、まるで意味が分からない。
それから、加茂さん片手を自分の胸に当てる。もう片手は、人を呼ぶ時のようにくいくいっと動かす。
「えっと……?」
「…………(わきわき)」
最終的に、真顔で両手を前に出してわきわきし始めた。物凄くシュールである。
しかし、それは手を前に突き出してわきわきする"変質者スタイル"ではなかった。
横向きで、何かを掴んでいじっているような動作。俺は、どこかでそれを見たことある気さえする。
――しばらく考えて、その動作が何を示すのか思い出すことができた。
「もしかして、ゲームか?」
「…………(こくこく)」
加茂さんは頷く。確かに、ゲームってそんな動きするな。俺も答えを聞いて納得する。
しかし、ゲームか。出費は痛いが、奢ると言ってしまった手前、今更それをなしにはできない。
それでも、一応、俺はまだ学生の身分だ。小遣いにも限度があるため、自重してもらうためにも加茂さんに言っておく。
「あんまり高いものは買えないぞ」
「…………(ぶんぶんぶんぶんぶんぶん)」
加茂さんは今日一番驚いた顔で、今日一番激しく首を横に振った。どうやら、"ゲーム買って"という意味ではなかったらしい。
彼女は一連のジェスチャーを、少し大袈裟な動きで繰り返す。
「……分からん」
加茂さんの懸命なジェスチャーを何度見返しても、俺がその意味を理解することは叶わなかった。
「…………(ぜぇ、ぜぇ……ばんっ)」
「あ、おいっ」
しばらくジェスチャーを繰り返して疲弊した様子の加茂さんは、突然トイレから出て行った。
――そして、十秒後、ホワイトボードとペンを持って戻ってきた。
『おごりじゃなくてお願いじゃダメ?
また一緒にゲームやりたい』
「……ああ、分かった」
ホワイトボードには少し乱れた文字。俺はそれを読んで、ようやく全てのジェスチャーの意味を理解する。
最初の人差し指は"お願いを一つ"。
山は多分、家だ。加茂さんの家。だから、直後の俺を呼ぶような手の動きは、"家に来て"ということだと思う。
そして、最後にゲームをする時の手の動き。
一つ一つのジェスチャーで一文が構成されていたのではない。全てのジェスチャーで、一つの文だったのだ。
加茂さんの伝えたい言葉を理解することができて、俺はスッキリした。スッキリはしたが、何か重大なことを忘れているような……?
――そんな新しく生まれたモヤモヤは、すぐに解消されることになる。
「やけに長いトイレね」
「…………(びくぅっ!)」
「あ……」
勝手に扉を開いたかと思えば、その扉を開けたのは呆れ顔を浮かべる神薙さんだった。
「さっさと戻ってきなさい。それから、全部素直に吐きなさい」
神薙さんの声色は、このカフェに来た時に比べて幾分か明るいものになっていた――。





