寝耳に水
【新人が作る!山盛りチャレンジランチ!】
それは和哉の店の近くにある高校に通う高校生と、この店で働き始めた新人への指導育成のために特別に作られた。
質を極めるなら量を作れ。量を作りながら質を極めろ。和哉が海外留学していた時に教えを受けていた師匠のモットーを体現したメニュー、らしい。
内容は日替わりのパスタと至ってシンプルなものだが、量は2kg。制限時間内に食べきれずに失敗すれば2000円、成功すれば半額。通常のランチメニューのパスタ1000円と比べれば破格の値段である。
ただ、"新人が作る"とわざわざ謳っているだけあって、作るのは"その日に働いている人の中で勤続日数が最も短い人"と決まっている。味も、通常のランチメニューに比べれば落ちてしまう。破格の値段もこれが一番の理由だ。
しかし、通常より味が落ちるというのも、舌の肥えた人でなければ気にならない程度。食べ盛りの学生向けに作られたメニューだが、量が食べられて味も良いとのことで口コミでちょっとした話題になったこともあり、遠方からわざわざ挑みに来るフードファイターも少なくない。
そして、日によっては新人が働いていない日も当然ある。そういった日は店のベテランが作ることになり、ごく稀に和哉が作ることもある。常連の間では「当たり日」などと呼ばれているのだとか。
更に驚くことにこのメニュー、注文時に「チャレンジしない」と宣言すれば、最初から皆で分け合って食べてもいいことになっている。だから、一テーブルで一つ注文して皆で食べるということもできる。
それが好評で、学生達だけでなく家族連れでこのメニューを食べに来ることもあるそうだ。
――そんなメニューの調理を俺はこの日、二桁以上こなして力尽きた。
「生きてる?」
「辛うじて生きてます……」
時刻は14時。お昼のピークの時間帯が終わり、ようやく訪れた昼休憩。
椅子を二つ並べて天井を見上げるように横になりながら、バックヤードに入ってきた御厨さんの声に答える。
開店はカフェ特有の落ち着いた静かな空間の店内だった。注文受けも皿洗いも問題なくできていて、和哉に頼まれた例のメニューを注文するお客さんも居なかった。
しかし、一時間後には大家族の団体客、大食いマニア、午前中の部活を終えた体育会系の学生達により、カフェならざる賑わいを見せ始め、次々に例のメニューが注文され始めたのだ。
それからはもう、地獄だった。
休む間もなく、二時間も手を動かし続けた。それだけでなく、"量を作りながら質を極めろ"とひたすらに質を上げ続けなければならなかった。出来上がったクリームを和哉か御厨さんが味見をし、前に作ったメニューより味が劣っていれば指摘される。
肉体的にも精神的にも疲弊し、段々と俺は注文に追いつけなくなり、パンク寸前になって御厨さんが調理を手伝ってくれた。そのおかげで何とか生きてピークの時間帯を乗り切ることができたのだ。
「赤宮、食べないの? 冷めるよ?」
御厨さんは机の上に置いてあるパスタに気づいて訊ねてくる。
このパスタは昼休憩直前、俺が量を誤って作り過ぎてしまったものだ。処分してしまうのも勿体ないということで、これが俺の昼飯になった。
しかし、バックヤードに持ってきてから、俺はそれに一口も手を付けていなかった。というのも――。
「食欲なくて……」
空腹は自覚しているが、それ以上に疲労が酷いせいで空腹の感覚が麻痺していたのだ。
食事をするために体を動かすよりも、このまま体を休めていたい。そんな思いでいっぱいになってしまっている。
「ちゃんと食べないと保たないよ」
「うああ……」
御厨さんに体を引っ張られて無理矢理起こされた。
俺の力が抜けていたのもあるかもしれないが、意外にも御厨さんの力が強く感じる。気づけば俺の背中はしっかり椅子の背もたれに付き、目の前にはパスタが置かれているという状態になった。
「……あの、これって」
パスタの隣に、見覚えのない黄色いケーキが置かれていることに気づく。
「まあ、俺からの労いだと思って食べて。パスタが食べれないならこれだけでも腹に入れといた方がいいよ。疲れた時こそ糖分って大事だし」
御厨さんの厚意にありがたく思いながらも、少し申し訳なく思ってしまう。
「すみません。俺、甘ったるいものは苦手で……」
嫌いではない。しかし、あまり得意という訳でもなく、普段デザートを食べる時は抹茶やコーヒーのような甘さ控えめのものを好んで選ぶ。
このケーキは形こそノーマルなショートケーキだが、使われているクリームは黄色。見るからに甘そうなその見た目は、ただでさえ食欲が湧かない状況で余計に喉を通る気がしなかった。
「先に言ってよ」
「す、すみません」
やはりというか、このケーキは甘い系だったらしい。御厨さんは半目になりながら、若干理不尽な文句を俺にぶつけてくる。
「でも食べて。何も入れないのは本当に保たないから」
「……善処します」
「…………」
俺の返事に対して、御厨さんは無言でケーキの皿に乗っていたフォークを掴む。
「み、御厨さん?」
「口開けて」
「それって……むぐっ」
何をされるか理解した瞬間、御厨さんは有無を言わさずにケーキの一部を掬ったフォークを俺の口の中に突っ込んできた。
いくら俺が動かないからってあまりに強引過ぎる。というか、ヤバい。身構える時間もなく急に甘味を口の中に突っ込まれたから、このままでは戻してしまうかもしれない。
フォークが口から抜かれて、ケーキを咀嚼する。同時に、襲ってくると思われる吐き気に身構える。
けれども、そんなものは一向に襲っては来なかった。それどころか――。
「……美味しい」
飾り気のない至極平凡な感想が口から漏れる。
「……ごめん、無理に感想とか言わなくていいから。味とか気にしないで今は飲み込むことに集中して」
御厨さんは無理矢理ケーキを食べさせたことに悪気を感じているからか、謝りながらもまずは腹の中に入れることを優先させてくる。
しかし、俺は首を横な振ってその勧めを拒んだ――勿体無いと思ったから。
「いや、本当に美味しいです。これ、かぼちゃ……ですよね。久々にこんなに甘いケーキ食べましたけど、全然くどくないです。余裕で食べれる……というか、今の一口で食欲戻ってきました。え、何ですかこのケーキ」
恐らく、これは加茂さん好みのケーキだ。それぐらい甘い。にも関わらず、俺も美味しく食べられている。いつの間にか俺の味覚が変わっていた、というのは考えにくいだろう。
――頭が目の前のケーキのことでいっぱいになっていると、腹が鳴った。当然、俺のである。
腹が鳴ったのは食欲が戻ったからだろう。パスタも食べられる気がしてきた。むしろ、食べなければ今度は空腹に耐えられない。
「すみません。ケーキの残りはパスタの後に味わって食べたいので、フォークは皿に置いておいてください」
「あ、うん」
俺はパスタを食べ始める。こちらは冷えていた。電子レンジで少し温めたいところだが、この部屋にそれらしきものは見当たらない。
仕方ない、今は空腹を満たすことだけを考えよう。美味しいケーキをゆっくり食べるためにも、俺は冷えたパスタを味わうことなくかき込むように食べていく。
「ケーキ、そんなに美味しかった?」
「はい、とても」
訊ねてきた御厨さんの言葉に即答する。
すると、彼は柔らかい笑みを浮かべながら話してくれた。
「このケーキ、俺が最近考えて作ったこの店の期間限定メニューなんだ」
「ハロウィン時期だからですか?」
「そう。だから、そんなに美味しそうに食べてもらえると作り手冥利に尽きるよ」
御厨さんは俺が見た中で今日一番、嬉しそうな表情で言う。実際、本当に嬉しいのだろう。
俺も加茂さんが弁当を美味しそうに食べるのを見ていると嬉しくなるから、気持ちはよく分かる。
共感していると、突然扉が開いて和哉が顔を出してきた。
「一星! 俺そろそろワンオペ限界だから戻ってきて!」
「あ、はい。今戻ります」
和哉はそれだけ言って店の方に戻ってしまう。
いくらピークが過ぎて店も落ち着いてきたとはいえ、客はまだまだ来ているらしい。開店前に、「今日はハロウィンだから、季節限定メニュー目的のお客さんがいつもより多く来ると思う」と言っていた。そんな状況で、この短い時間とはいえ、接客も料理も全て一人で捌いていたらしい。
……認めるのは癪だし、本人に言えば調子に乗って日頃のウザさに磨きがかかりそうだから口に出せないが、和哉って食に関する事柄はかなりハイスペックなんだよな。流石だと、素直に思う。
「じゃあ、そういう訳だからそろそろ戻るね」
「はい。ケーキありがとうございます」
「ううん。こっちこそ嬉しい感想ありがと」
御厨さんはそう言ってバックヤードから出ようとする直前、「あ」と何かを思い出したように声をあげた。
「思い出したんだけど、午前中にバックヤード来た時にスマホ鳴ってたんだ。知らない音だったから多分赤宮のだと思うんだけど」
「え、誰からだ……?」
「今のうちに確認しておいたら?」
「はい、そうします。ありがとうございます」
そうして御厨さんがバックヤードから出て行った後、俺は早速、ロッカーの中から自分のスマホを取り出して画面を点ける。
「――――」
俺はその通知の文を見て、言葉を失った。
[ごめんなさい。今日行けなくなりました]
それは加茂さんからの連絡だった。





