加茂さんは落ち着きがない
――加茂さんが怪我をした。
「どうしてそうなった……?」
「…………(えへへ)」
外周五周を走り終えて戻ってきたら、加茂さんは膝から血を流して座っていた。しかも、体操服の前面が泥だらけという要らないおまけ付きだ。
一応水道で洗い流したらしく、膝周りに泥は付いていない。しかし、痛々しい擦り傷ははっきり分かる。
ひとまず、すべき事は一つしかないだろう。
「保健室行くぞ」
「…………(イエッサー)」
* * * *
あとは全員が走り終えるのを待って集合するだけだったので、先生に言って授業を抜けてやって来た保健室。
しかし、中には入れたが先生は不在だった。
先生が居ないのに保健室内の物を勝手には使えない。だから、俺は自分の救急箱を教室から持ってくることにした。持ってて良かった救急箱、久々の出番である。
「加茂さん、入っちゃ駄目だったら何か音出してくれ」
保健室に入る前に外から軽くノックして、声をかける。五秒程待ってみてが、何も音は聞こえない。
保健室の戸を開けると、中にはぶかぶかのジャージを着た加茂さんが座って待っていた。
加茂さんが着ているのは俺のジャージだ。救急箱を取りに行っている間、加茂さんには先に着替えてもらっていた。体操服は上も下も泥やら水やらで濡れていて、そのまま着ていたら風邪を引いてしまうと思ったから。
「サイズ合ってないのは我慢してくれ」
言いながら、救急箱のついでに持ってきたホワイトボードとペンを加茂さんに渡す。
加茂さんはそれを受け取ると、すぐにボードに文字を書き始めた。
『ありがとう 平気だよ
でも、ジャージに少し血付いたかも
ごめんなさい』
「いいよそれぐらい」
加茂さんの言う通り、捲られたジャージの膝近くには血が少し付いてしまっている。でも、まあ、これぐらいなら洗えば落ちるだろう。
さて、水での洗い流しは済んでいるからあとは消毒と絆創膏か。
「沁みるだろうけど我慢しろよ」
「っ……」
消毒液をかけると、加茂さんの堪えるような声が漏れて聞こえてきた。
が、これは恐らく無意識だろう。声には触れずに手当てを進めていく。
「今日は派手に転んだな」
『水たまりですべった』
「見りゃ分かる」
昨日の夕方頃から今日の朝方にかけて雨が降っていて、走っている場所には水溜まりは幾つもあった。
けれど、少し気にすれば避けて走れるものばかりだった気が……。
『少しぼーっとしてた』
そんな俺の疑問を解消するかのように、加茂さんは足を滑らせた理由を文字にする。
「具合悪いのか?」
「…………(ふるふる)」
元々具合が悪かったのなら滑った理由も何となく頷けるが、加茂さんは首を横に振る。どうやら違うらしい。
それから、彼女はボードにぼーっとしていた要因を書いてこちらに向けてきた。
『土日が楽しみすぎて』
「おい」
ただの不注意だった。遠足が楽しみで前日眠れない小学生か。気持ちは分からなくもないけども。
「――くしゅんっ」
不意に寒気がして、くしゃみが出てしまう。
『くしゃみかわいい』
「嬉しくねえ……」
『寒い?』
「少しな」
加茂さんにジャージを貸しているため、今の俺は半袖短パンだ。真冬でもないので耐えられる程度ではあるが、寒い。
『ジャージ借りちゃってごめんね
やっぱり返すよ』
すると、加茂さんは俺を気にしてそんなことを言い出した。
「気にしなくていいから。他に着る物もないだろ」
『教室から制服
持ってきてくれれば』
「それまで加茂さんはどうすんだ」
「…………(ぴたっ)」
加茂さんの手が止まり、頰が赤く染まる。
それから、俯きながら文字で返答してきた。
『少し寒いかもだけど
待ってる』
「はい却下」
もしも保健室に誰か来たらどうするんだ。許容できるかそんなの。
「っていうか、もう終わったぞ」
「…………(ぱちくり)」
手当てが思っていたよりも早かったことに驚いてか、加茂さんは目を瞬かせる。
そもそも加茂さんの怪我は膝の擦り傷だけで、この擦り傷も比較的軽いものだ。だから、あまり時間がかかるものではなかった。修学旅行に支障も出ないだろう。
そして、授業修了のチャイムが鳴る。今は四時限目だったので、昼休みだ。
「一応聞くけど、他に怪我は?」
『ないよ
ありがとう』
加茂さんはお礼の後、立ち上がって俺の周りをぐるぐると歩き回り始める。痛みは落ち着いたらしい。
そんな彼女の様子にほっと一息吐いてから、俺は救急箱から出した物の片付けを始める。
「…………(ずるっ)」
「――あっぶな!?」
安堵したのも束の間、彼女は引き摺っていたジャージのズボンの裾を自分で踏んで前のめりに転びかける。
俺の前を歩いていたタイミングだったから受け止められたが、そうでなければ間に合わずに危うく顔面強打させるところだった。本当に危ない。
「加茂さん、頼むからもう少し落ち着きを持ってくれ……」
『ごめんなさい
ありがとう』
流石の加茂さんも反省したのか、その後は俺の片付けが終わるのを椅子に座って静かに待っていた。
「よし、教室戻るか」
「…………(イエッサー!)」
片付けを終えて加茂さんに声をかけると、彼女は待ってましたと言わんばかりに勢いよく立ち上がって敬礼してくる。さっきの反省はどこに消えた。
そんな突っ込みを口に出したくなる気持ちを抑えて、俺は彼女に背を向けてその場で軽く屈む。
「乗れ」
「…………(きょとん)」
加茂さんに声をかければ、彼女は不思議そうな表情のまま文字を書いてこちらに向けてくる。
『歩けるよ?』
「さっき転びかけただろ」
『もう転ばない』
「今も裾引き摺ってんじゃねえか」
「…………(うっ)」
加茂さんのペンを持つ手が止まった。
「あと、おぶられてるの人に見られるのが恥ずかしいからもナシだから」
「…………(ううっ)」
加茂さんは狼狽えるように後退る。
もう昼休みだ。廊下へ出れば確実に、少なくない人に見られるだろう。俺も恥ずかしい気持ちは当然ある。しかし、それ以上に優先すべきことがある。
――それは加茂さんに反省を促すための罰だ。
「落ち着きのなさを反省してるなら大人しく俺におぶられろ」
そう言って、俺は屈んだまま加茂さんを待つ。
暫くすると、彼女は観念してボードやら体操服やらの荷物を抱えて俺におぶられ、共に教室へと戻ったのだった。
この後、教室に戻ってきた二人を見た「に」から始まるとある人が無言のガッツポーズをしていたとか。





