加茂さんは心配
「おはよう」
『おはよう!
いらっしゃい!』
翌日、10時頃に加茂さんの家を訪れると、加茂さんは勢いよく扉を開けて出迎えてくれた。
靴を脱いでいると、加茂さん母……確か里子さんだったか。彼女が洗濯かごを持って洗面所から出てくる。
「お邪魔します」
「いらっしゃい。九杉のためにわざわざ来てくれてありがとうね」
「……いえ、俺の方こそ突然今日来てすみません」
そう、今日は……というよりも今週は、加茂さんの家に来る予定はなかった。昨日、四人で遊びに行くことになっていたので、日曜日は体を休める日として空けていたのだ。
しかし、昨夜俺は加茂さんに連絡を取って、今日、彼女の家に訪れた。
理由はただ、彼女の様子が気になっていたから。日向には大丈夫なんて言ったものの、内心は心配で仕方なくて、こうして月曜日を待てずに加茂さんに会いに来てしまった訳である。
「いいのいいの。九杉も喜んでたし、私も賑やかなのは好きだから。今日はゆっくりしていってね」
「ありがとうございます」
里子さんはかごを持ってリビングの方に歩いていく。
その後ろ姿を見送ってから、俺は加茂さんに訊ねてみた。
「喜んでたのか?」
「…………(すーっ)」
訊ねれば、加茂さんは恥ずかしそうにそっぽを向く。俺は里子さんが溢した言葉を聞き逃してはいなかった。
急に家に行きたいと言ってしまったから、迷惑がられているかもしれないという不安があった。けれど、加茂さんは喜んでくれていたらしい。
急に来てごめん――その言葉を飲み込んで、代わりに伝えた。
「俺も会えて嬉しい」
「……っ……(ぴゅーっ)」
「あれ!?」
加茂さんは脱兎の如く逃げ出した。
――逃げ出したといっても、所詮は家の中。後を追ってリビングに行けば、加茂さんはソファの上で体育座りになって膝に顔を埋めていた。
窓の外を見れば、里子さんが物干し竿に洗濯物を掛けている。
「キッチン使うぞー」
アルマジロ加茂さんに一言言ってから、駅前のスーパーで買ってきた昼食の材料を袋から出していく。
「これでよし、と。加茂さー……ん?」
袋から材料を出し終えたところで加茂さんを呼ぼうたところで、彼女がソファの上から消えていることに気づく。
「…………(がばっ)」
――辺りを見回そうとした矢先、Tシャツを背中から捲られた。
「あの、加茂さん?」
彼女の蛮行に困惑してしまう。
思わず、訊ねる意味で名前を呼んだが、彼女から返答は返ってこない。
「…………(ぺたぺた)」
「っ……何してんだよ」
突然背中を触られて、変な声が出そうになってしまう。
それを堪えて彼女に奇行の意味を訊ねるが、またしても返答はない。ぺたぺたと俺の背中を触り続けている。
悪戯、という訳でもないのだろうか。
少し混乱していると、彼女の手が俺から離れた。
「…………(きゅっきゅっ)」
それからすぐに、ペンでホワイトボードに何かを書く音が聞こえ始める。
もう、いいだろうか。俺は若干崩れた裾を軽く下に引っ張って戻しながら、加茂さんの方へと振り向いてみる。
『痛くない?』
振り向いた時には、加茂さんは既に文字を書き終えていた。
ボードの文面には俺を心配するような言葉。彼女の表情にも、抑えきれていない同様の思いが表れている。
一瞬、それが何の話か分からなかったが、彼女が先程まで俺の背中を触っていたことを思い出して、その行動の意味もようやく分かった。
「ああ、全然痛くない」
『本当に?』
「本当に」
彼女の確かめるような問いかけに迷わず即答する。
昨日はあくまで背中を踏まれただけ。サッカーボールのように蹴られた訳じゃない。だから、幸いと言えばいいのか、怪我にはなっていなかった。
『うそついてない?』
「ついてない」
「…………(じっ)」
俺の言葉の真偽を見極めようとしているのだろうか。加茂さんはじっと俺の目を見つめてくる。
「…………(じっ)」
「…………」
「……………………(じー)」
「……………………」
「………………………………(じーーー)」
「長えよ」
あまりの長さに思わず突っ込んでしまった。
普通、こういうのって目と目が合ったら通じ合うみたいに、すぐに分かるものでは。それとも、俺はそこまで信用ないのか。
「嘘だと思うなら、気が済むまで触っていいから」
もう、散々触っただろうけども。
永遠に信じてくれそうにない加茂さんの片手を取りながら、彼女が納得できそうな唯一の方法を提案してみる。
「…………(ぎゅっ)」
すると、加茂さんは俺に体を密着させて背中に手を回してきた。そして、回したその手でぺたぺたと俺の背中に触れてくる。
……背中を触っていいとは言ったけど、こんなに密着する必要はない気がする。色々当たってるし。そう思いながらも、口には出せなかった。
暫くして、温もりが俺から離れた。
「……だから言っただろ。嘘ついてないって」
『がまんしてない?』
「してない。怪我したら正直に言うって約束しただろ。そんなに信用ないのか俺は」
「…………(ふるふる)」
加茂さんは首を横に振るが、彼女の表情は優れない。そんな表情のまま、彼女はボードにペンを走らせる。
『私のせいで痛い思い
させちゃったから』
「加茂さんのせいじゃない」
自分を責めるような文面が昨日の日向の言葉と重なり、反射的に俺の口から否定の言葉が飛び出す。
「…………(ふるふる)」
加茂さんは再び首を横に振り、俺に確認してくる。
『ボードかばってくれたよね』
「……まあな」
庇ったのは事実だ。否定しようがない。
すると、彼女は悲しげな表情で俺に訊ねてくる。
『何でかばったの?
替えは家にいっぱいあるのに』
「何で、か」
冷静に考えれば、加茂さんの言う通りだ。
あの時はほとんど反射的に動いてしまったが、ボードは彼女のコミュニケーションツールの一つに過ぎない。わざわざ身を挺して守る程のものではなかった。
それでも、理由を挙げるとすれば……。
「加茂さんのボードは、加茂さんの声だから」
「…………(きょとん)」
「だから、踏まれたくなかった。加茂さんのことを何も知らない奴に踏みにじられたくなかった。嫌だった。耐えられなかった」
つまるところ、あの時の俺の咄嗟の行動は加茂さんのためではなかった。自分のためだった。
だから、加茂さんが気にする必要はない。というか、気にされたら俺が困ってしまう。
『絶対やめて』
ところが、加茂さんは泣きそうな顔で俺に訴えかけてきた。
「え、いや――おぐふっ」
勢いよく胸元にボードを押し付けられて後退すれば、腰をキッチンのシンクにぶつけて鈍い痛みに襲われる。
文句を言おうと見下ろせば、加茂さんは俺の胸板を机にしてボードに文字を書き殴っていた。
書き終えると、ボードを素早く反転させて俺に向けてきた。
『ボードより赤宮君が
危ない目にあう方が
私はいや こわい』
そのボードの文を読んでようやく、加茂さんが泣きそうになっている理由が分かった。
「ごめん、心配かけたよな」
「…………(こつん)」
謝ると、加茂さんが俺の胸元におでこをぶつけてくる。
「…………(ぎゅっ)」
そんな彼女の背中に手を回せば、彼女も俺の背中に手を回してくる。彼女の体温が伝わってくる。
「……俺も、触っていいか」
「…………(きょとん)」
顔を上げた加茂さんは、俺の言葉を全く理解していないような表情で俺を見つめてきた。
まあ、そうだよな。分からなくて当然だ。もう、俺は触っている。服越しでも、確かな温もりを感じている。
足りない――そう思ってしまった。
「ごめん」
俺は加茂さんの背中に回していた手を、Tシャツの中に下から突っ込んだ。
「ぇぅっ!?」
加茂さんから可愛らしい声が漏れたのが聞こえた。
直後、背中をばちんと叩かれる。
彼女の声と背中のヒリヒリとした痛みによって、頭の熱が急激に冷めていく。
「「…………」」
俺は無言で彼女から手を離し、彼女もまた、俺から手を離して数歩後退りする。
そして、ギ、ギ、ギ、とぎこちない動きで真っ赤に染めた顔を上げた彼女と目が合う。
「……どうかしてた。ほんと、ごめん」
俺は上半身が床と並行になるレベルで頭を下げて、そこから暫く顔を上げることができなかった。





