加茂さんとヘッドスライディング
その後、桜井さんと西村さんはすぐに立ち上がり、多少ペースを落としながらも次のペアにバトンを繋いだ。
しかし、その二人が転んだことにより、二位のクラスに追い抜かれてしまった。三位とはまだ少しだけ距離があるが、安心はできない。
そして、走り終わった二人は、何人かのクラスメイトに囲まれて泣いていた。
「ごめん……皆が頑張ってくれてたのに……」
「ごめんなさい……」
「気にしない気にしない!」
「よく頑張った!」
何度も何度も謝りながら、泣いている。申し訳なさそうに、悔しそうに、泣いている。
励ましの声も聞こえるが、あの様子では涙はしばらく収まりそうにない。きっと、責任を感じてしまっているのだろう。
「…………(ぐいっ)」
「加茂さん?」
加茂さんは俺を見上げて体操服を引っ張り、二人を指差しながら繋いでいる方の足を動かそうとしている。
……えっと、見上げているのは俺に用があるからだよな。体操服を引っ張ってるのも多分同じ意味だろう。
二人を指差して、足に力を入れてるのは……ああ、なんだ、そういうことか。
俺は加茂さんの要望通り、彼女に合わせて足を前に進める。そして、彼女と共に桜井さんと西村さんの目の近くに歩み寄った。
「加茂ちゃん、赤宮君……」
「二人とも、ごめん……」
「…………(ぐっ)」
加茂さんは親指を立てると、自分の胸に突き刺すようにその手を動かした。
俺は彼女の言いたいことがなんとなく理解できる。ただ、二人には伝わらなかったようだ。そのジェスチャーの意味が分からず、困惑している。
だから、俺は憶測で加茂さんの言葉を通訳した。
「"任せて"だってさ」
「……うんっ」
「応援するっ」
二人の元気は、少しだけ戻ったようだ。泣き顔が泣き笑いに変わった。
「…………(にひひっ)」
俺が加茂さんに目を向けると、快活に笑う。俺の通訳は合っていたらしい。良かった。
「加茂さん、そろそろ準備するぞ」
「…………(こくっ)」
俺達の二つ前の走者は既に走り出していた。俺は加茂さんに声をかけて、バトンを受け取る場所まで移動する。
「で、秘策でもあるのか?」
「…………(さっ)」
待機中、こっそり彼女に訊ねれば、加茂さんは目を逸らした。まあ、予想していたので特に驚きはない。多分、その場の勢いだったのだろう。
しかし、そのおかげで二人は少し立ち直れた。それだけでも言って良かったと俺は思う。
しかし、肝心なのはここからだ。
俺達の前の走者は秀人と山田。二人はクラス最速コンビでもある。きっと、一位のクラスに追いつけてしまう。そう言い切れる程の安定感があって、なおかつ速い。
問題は最終走の俺達に任せてほしいと、加茂さんが言ってしまったこと。これで俺達は一位を取らなければならなくなってしまった。
「……マジでどうしよ」
普通に無理じゃね。俺達のペア、クラス最遅コンビだぞ。
「二人三脚じゃなきゃ勝てるかもだけど……」
そう、二人三脚でなければ。そうでなければ、勝ち目も見えて…………待て、その手があったか。
「加茂さん、50メートル走のタイムって6秒70だよな」
「…………(こくん)」
「俺もなんだ」
「…………(ぱちくり)」
俺は今から、とんでもなく馬鹿な話をする。
この話に乗ってくれるかは加茂さん次第だが、きっと彼女なら乗る。そんな確信があった。
「加茂さん、俺の合図で右足を出してくれ。んで、その後は全力で走れ。意識するのはできるだけ大股で走るってことだけでいい。二人三脚じゃなくて、100メートル走として走ってくれ」
「…………(ぱちくり)」
案の定、加茂さんは固まる。そんな彼女を無視して、俺は説明を続けた。
「50メートルのタイムほぼ同じなら、何も考えずに走った方が合うんじゃないかって思ったんだ」
「…………(ふむふむ)」
加茂さんは考え込むように顎に手を当て、頷き始める。
「ただ、ぶっつけ本番になるけど……」
「…………(ぺしっ)」
「いてっ」
突然、頭を軽くはたかれる。そして、地面の文字に気づいた。
いつの間にか、加茂さんは地面に指で文字を書いていたのだ。『信』という、たった一文字を。
「…………(ぐっ!)」
「……ありがとな」
その一文字が『信じる』なのか『信じて』なのか、はたまた両方なのか……その答えは加茂さんのみぞ知る。
しかし、加茂さんは俺のこんな頭の悪い提案に、迷うことなく乗ってくれた。
そんな彼女に報いてやりたい。だから、どんなに難しかろうが、何が何でも合わせてやる。
「そろそろ来るぞ。タスキは俺が受け取る」
「…………(さっ)」
加茂さんはクラウチングスタートの構えを取る。真剣な目つきで、前だけを見据えて。
周囲から多少のどよめきが聞こえるが、それを気にする様子は見られない。集中しているのだろう。
「任せたっ」
「ラスト頼んだ!」
「おう」
秀人と山田のタスキを受け取り、肩に掛ける。一位のクラスの最終走者組は、既に前を走っている。
俺は加茂さんの横でクラウチングスタートの構えを取った。恥ずかしいことに、俺も全力で走らなければ加茂さんの足に追いつけないからだ。
――そして、叫ぶ。
「せーのっ!」
「…………(びゅんっ)」
最初の一歩だけを強く意識して、俺達は走り出す。
掛け声は出していない。忘れてたのもあるが、そもそも掛け声が足に追いつかない。
それでも、ちゃんと走れていた。
周囲の雑音が聞こえなくなり、一位のペアに迫り――勢いを殺すことなく、俺達はそのペアを追い越した。
これならいける。
残りたった100メートルから、80メートル、60メートル、40メートル……ついに、ゴールテープが前方に見えた時、そう思った。
「っ、しまっ――」
「っ…………(がくっ)」
たった数メートル先のゴールを目前に、足がもつれた俺達は前のめりにすっ転ぶ。
合っていた筈の足が突然ズレた……いや、正確には、最初から微かなズレは感じていた。当然だ。俺と加茂さんは、そもそも歩幅が違うのだから。
その微かなズレが次第に大きくなった、ただそれだけの話だった。
「う、ぐ……」
左足首が痛い。恐らく、捻った。
いつもより酷い転び方だったせいで、腕や膝も痛い。擦りむいて出血しているのは、見なくても分かる。
「…………(ぐぐぐっ)」
「……加茂さん」
加茂さんは一人、立ち上がろうとしていた。
彼女も腕や膝に擦り傷を作っている。右膝の出血は俺より酷いのにも関わらず、その目は死んでいない。
同時に、俺に視線を送ってくる。その視線が"頑張ろう"なのか"大丈夫?"なのか、はたまた"根性見せろ"なのか……どんな意味かは分からない。
だけど、俺も立ち上がらないといけない。そう思った。
……思ったのに、こんなにも強く思っているのに、左足は言うことを聞いてくれない。力が、入らない。
「ごめん。俺、もう走れないわ」
そう言ってから、チラッと後ろを確認する。まだ距離があるものの、俺達が追い越したペアが猛スピードで迫ってきていた。
「…………(おろおろ)」
加茂さんは俺の足を見て、激しく動揺している様子だ。
「だからさ」
――そんな彼女を安心させるために、俺は笑って頼んだ。
「俺と一緒に跳んでくれ」
「……………………(こくっ)」
加茂さんは驚き、狼狽え……すぐに強く頷いてくれた。
彼女の肩を借りながら、俺は右足だけでなんとか立ち上がる。彼女にとっては重いだろうが、そこは頑張ってもらうしかない。
動かない左足の分、右足に力を集中する。そして、加茂さんと共に腰を屈める。
目指すは、一回の跳躍では届きそうにない距離にあるゴールテープ。
「せーのっ」
俺は左足、加茂さんは右足を浮かせ、けんけんの要領で一回、二回、三回と跳ぶ。
驚いたことは、説明不足もいいところなのに、加茂さんは俺の動きに合わせてくれたことだ。
そうして、思いっきり跳んでゴールに届くか届かないかの距離まで近づけた。
――俺達はそこで一度止まることなく、予め打ち合わせていたかのように、身を屈めて深い溜めを作る。
「せーのっ!」
俺の掛け声を合図に、俺達は最後の力を振り絞って跳んだ。ゴールテープに、頭から突っ込む形で――。