日向と返事
「――おはようございまーす!」
先生が教室から出て行ってから時計の短針が1だけ進んだ頃、教室内明るい声が響く。
「おはよう。悪いな、こんなことになって」
「本当ですよ」
教室に入ってきた彼女――日向は、軽く呆れながら口を尖らせる。
「午前中のデートは潰れちゃいましたし」
「本当ごめん。でも、日向まで学校来る必要なかったんだぞ?」
「先輩学校に来るってことは制服じゃないですか。なら私も制服着て、制服デートしてみたいなと思って」
「土曜なのに面倒だったろ」
「まあ、多少面倒でしたけど。先輩と一緒に居たかったので」
「……そっか」
「はい」
あまりにストレートな好意を示されて、俺はこそばゆい気持ちになる。
そして、言った本人も気恥ずかしかったらしい。顔を赤くして、どこか落ち着かない様子で視線を左右に彷徨わせている。
――彷徨わせて、日向の視線はある一点で止まった。
「…………(ぐでー)」
「加茂先輩、どうしたんです?」
日向の視線の先には、机に突っ伏している加茂さんが居る。
つい先程から机に突っ伏していた彼女のことは俺も気になっていた。しかし、反省文が終わっていなかったので放置していた。
「…………(ぐぐぐっ)」
日向の声に反応して、加茂さんが亀のように重苦しそうに顔を上げる。
そして、ボードに文字を書いて日向に向けた。
『詩音ちゃんも
反省文書きに来たの?』
「違いますよ。私は赤宮先輩待ってるだけです」
「…………(ぽんっ)」
加茂さんは"ああ"と納得したように手を叩く。
そんな彼女の手元、ホワイトボードの下には、未だ数行しか埋まっていない原稿用紙があった。
……え、まさか、そんな筈ないよな?
「加茂さん、それ二枚目か?」
『1枚目です』
そのまさかだった。俺の不安は的中してしまい、軽く頭を抱える。一時間で数行って、遅すぎるだろ。
「加茂先輩、それ今日中に終わります?」
「…………(さっ)」
加茂さんは日向の質問から逃げるように、俺にボードを向けてきた。
『赤宮君は
どこまで進んだ?』
そんな彼女の質問に、俺は正直に答える。
「もう終わるけど」
「…………(ぽかーん)」
「加茂さん?」
加茂さんは口を開けたまま、暫く放心して微動だにしなかった。
* * * *
反省文が書き終わって提出も済ませた俺は、日向と共に学校を出た。
「先輩、いいんですか?」
歩きながら、日向は俺に訊ねてきた。
「何が?」
「加茂先輩ですよ。あの状況の加茂先輩を放置して行くっていうのも気が引けるんですけど……」
反省文が書き終わっていない加茂さんはまだ教室に居る。一人で反省文と格闘している。
正直、俺も日向と同じ気持ちだ。気が引けてるし、そもそも今日中に終わるのかという心配もあった。
「今日、日向とどうしても行きたい場所がある」
それでも加茂さんを置いていくという選択肢を選んだのは、理由があるのだ。
「加茂先輩手伝った後じゃ駄目なんですか?」
「……今日は日向とゆっくり話したい」
教室を出る時、加茂さんは俺達を引き留めてはこなかった。
彼女は俺達の今日の約束を真横で聞いていたから。気を遣ってくれたんだと思う。
だから、今日はその気遣いをありがたく利用させてもらう。
落ち着いた所で、ゆっくり話すために。帰り際にサラッと言うんじゃなくて、しっかり、彼女と話をするために。
「そんなに私と居たいなんて、もしかして、ついに私に惚れちゃいました?」
日向は茶化すような口振りで、照れ笑いを浮かべながら言う。
――同時に、目的の場所に到着した。
「日向、ストップ」
「え?」
「着いた」
俺は左方向を指差し、日向は俺が指差した方向を見て固まる。
「……公園、ですか?」
「ああ」
そこは、いつの日か加茂さんに連れられて来た、ブランコとゴミ箱しかない小さな公園。
俺は誰も居ないことを確認してから、固まる彼女を先導するようにその公園の中に入った。
「先輩?」
「ここ、前に一度、加茂さんと来たことがあるんだ」
「は、はあ」
確かその時だ。俺が友達以上、恋人未満の定義の話をしたのは。懐かしい。
……でも、俺は過去を懐かしむためにここに来たんじゃない。ここなら、誰も居ないと思った。日向と二人きりで、思いっきり話せると思った。
「日向」
振り返ると、戸惑った表情で俺を見つめる日向が居た。
そんな彼女の表情を見て、胸が痛くなる。今から切り出す話のことを考えると、苦しくなる。
「あの、先輩……?」
「俺のこと、好きになってくれてありがとう」
「――!」
だからこそ、逃げちゃいけない。
「でも、日向の気持ちには答えられない」
「…………え?」
今ここで、全部話す。
「俺は、加茂さんのことが好きだから」
それが、俺が彼女に示せる最大限の誠意だと思うから。
「――先輩」
日向は俺の胸に勢いよく飛び込んでくると、縋り付くようにワイシャツをぎゅっと掴んでくる。
「私じゃ、駄目ですか……」
そして、震え、掠れた声で彼女は言った。
「頑張りますからっ」
続けて、顔を上げて、今度ははっきりとした声で。
「苦手、全部克服します」
今にも泣きそうなのを堪えているのが分かるぐらい、彼女の表情は歪んでいる。
「先輩の理想の女の子になります」
俺のワイシャツを掴む手も、震えている。
「先輩が望むなら……ぜ、全部捧げる覚悟だってありますっ」
彼女は俺のワイシャツから手を離し、一歩下がる。
そして、彼女は自分のワイシャツの前を両手で掴むと――それを左右に無理矢理引っ張った。
「っ!? 馬鹿っ」
咄嗟に止めようと手を伸ばしたが、間に合わなかった。
日向のワイシャツの前のボタンがブチッと音を立てて外れ、地面に落ちる。同時に、彼女の白い下着と色白の肌が露わになる。
俺は目を逸らして、伸ばした手を引っ込めようとした。
しかし、その手を引っ込めることは叶わず、両手でしっかり握られてしまう。
「離せ」
「嫌です。先輩、こっち見てください」
「……恥ずかしくないのかよ」
日向の手を握る力が強くなる。
「思ったより、恥ずかしい、です」
「なら」
「でも、お願いします。ちゃんと、私のこと見てください」
「……分かった」
多分、このままだと話が進まない。日向が許してくれないだろう。
俺は軽く深呼吸を挟んでから、彼女に視線を戻す。
彼女は依然、ワイシャツの前を大きくはだけさせたままの姿だった。
「ど、どうですか」
日向の手が、俺の手から離れる。
俺は鞄からサマーセーターを取り出し、彼女に差し出した。
「……えっと……?」
「着ろ」
「……こういうの、嫌いでしたか?」
「嫌いだ。勢いで無理されるのは」
「……すみません」
日向は謝りながら、俺のサマーセーターを上から被る。
腕を通してから顔を出した彼女は、苦笑を浮かべながら言った。
「鼻の下、全然伸ばしませんでしたね」
「伸ばせるかよ」
「私、魅力ないですか?」
「……そんなことはないけど」
「説得力ないです」
まあ、確かに。振った俺が否定したって、信じられる訳がない。
「私じゃ駄目ですか」
再度、日向は同じ言葉で訊ねてくる。
「加茂さんじゃないと駄目なんだ」
そんな彼女に、俺は言い切った。
「……そうですか」
すると、彼女はからかうような笑みを浮かべて言った。
「こんなに先輩を好きな女の子なんて、今後一生現れないかもしれませんよ」
「かもな」
「後悔しません?」
後悔、か。
「加茂さんに振られたら、少しはするかもな」
「そこは可能性があってもないって言い切るところじゃ?」
「未来のことなんて分からないし」
「先輩って変なところで素直になりますね」
日向は呆れたように俺を見る。
……何で呆れられてるんだろう。真面目に答えたつもりだったのに。
「先輩が真面目なのは分かってますけど」
「エスパーかよ」
「声に出てます」
俺は自分の口を手で塞いだ。
「この際ですから聞いちゃいますけど、今日、まともにデートしてくれる気なかったですよね」
「そんなこと……いや、うん。ごめん」
真っ先にこの話をすると決めていたから、その後のことは考えていなかった。
でも、それは最初から約束を破ろうとしていたのと同義だ。だから、俺に彼女の言葉を否定する資格はない。
「帰ります」
「……ああ」
日向が歩き始め、俺もそれに続く。
「先輩は学校戻ってください」
「え?」
公園を出たところで、日向は言った。
「加茂先輩のこと、本当は先輩も心配してますよね?」
……こんな良い子に気丈に振る舞わせて、俺は最低だ。
そんな言葉が口から溢れそうになって、抑える。
自分で自分を否定するということは、そんな俺を好きになってくれた日向も否定することになるから。それは彼女に失礼だと思ったから。
だから、せめて今だけでも、俺を好きになってくれた彼女に恥じない自分でありたい。そう思った。
「悪い。行ってくる」
「はい」
俺は駅とは反対方向の学校に向かって歩き始めようとして、もう一度彼女の方へ振り返る。
「日向」
「はい?」
「ありがとう」
「――っ」
最後に感謝だけを伝えた俺は、学校に向かって駆け出した。