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ステファンの指輪

作者: カミング浅田

捨てられた我が身。復讐。遺産を巡って、父との

相克。


              1



 青い空に白い雲が浮かんでいる。

 太平洋の真ん中を豪華客船がゆったりと進んでいる。

 ステファンはあたりを見回した。どこを見回しても周りは大海原だった。

 四方八方ただ水平線だけがくっきりと目に焼き付いてくる。

 ここがどのあたりかステファンは知らない。どこであろうと彼の知ったことではない。

 こうして気の向くままに自由な船旅に出ることができた事が至上の喜びなのだ。


 おもわず鼻歌が出た。口笛さえも出る。

 口笛を吹きながらステファン・モールテンは変わることの無い海の風景を眺め続けている。

 時間が止まったかのように洋上の景色はどこまでも同じだった。

 ステファンがこの船旅を始めてから早くも1ヶ月近く過ぎている。

 すべては順調に進行していた。

 

 思えば父が死んだのはちょうど去年の今頃だった。父の名前はハインリッヒと言った。


 貿易商だった父は巨額の富を築いていた。

 広大な土地、お城のように立派な家と屋敷。

 それらが父の死と同時にステファンの手元に転がり込んできた。


 「やっとツキが自分のところに回ってきた!」

 父が死んだ時、ステファンは思わずそう叫んだものだ。


 母のアーリアは彼が幼少の頃にすでに死んでこの世にはいない。

 父はその後すぐに若い女、ロミーとという女と再婚した。


 彼は邪魔者扱いとなって施設にあずけられた。


 それ以後どんなに辛酸をなめたことか計り知れない。

 この恨みは決して忘れない。 


           2


 捨て犬のように施設に預け捨てられてからというもの、親の顔も見たことはなかった。 

 見たくもなかった。

 施設を出ると放浪者のような生活を送った。


 ステファンは今年もう51歳になる。仕事を転々として何とか食いつないできた。

 父のハインリッヒはすでに83歳となっていた。

  

 父とその若い後妻ロミーとの間に子どもはいなかった。 


 ステファンが考えたことは父の莫大な財産を自分が独り占めすることだった。


 それというのも、父が末期ガンに冒されて余命幾ばくもないと知った時からだ。

 おそらく父はその後妻のロミーにすべての遺産を譲るだろう。

 断じてそうさせてはならない!


 自分をさながら虫けらのように捨て去り、その後も彼のことを一顧だにしなかった父ハインリッヒへの復讐を果たすこと。

 それが今までのステファンの生きる目的だったのだ。


 今ここで父親に死なれその女に財産を奪われることは筆舌に表せないほどの苦しみ。

 それは彼にとって絶望を意味するのだ。決してその女に渡してはならない。

 女に渡すぐらいなら父の財産はすべて消却されるべきなのだ。 


父は死の病に伏している。

 今を逃してもう二度とチャンスはない。

 父の後妻、つまりステファンの義母ロミーは67歳だった。


 あの女、ロミーを殺すこと。父の遺産をあの女に取られてなるものか。

 ステファンの目的はただ一つ、その一点に凝縮された。

どうやって殺すか。


 その事について朝から晩まで終日考える日々が続いた。

 人が人を殺す方法はたくさんある。古今東西殺人の事例はごまんとあるが、

 これは殺人であるとわかる方法は当然のことだが避けねばならない。 


 その結果、彼が出した結論は、

 第三者をしてこれは事故だと思わせることがもっともいいということだった。

 自殺にみせかける方法もあるがこれは難易度が少し高くなる。

 自殺の動機が必ず問題となるからだ。


 この義母の場合もそうだ。巨額の遺産がその手に入ってくる直前なのだ。

 それなのに自殺を図る、そんなことはまず考えにくい事だ。

 警察はすぐに疑うだろう。 


 ステファンは腕を組んで考えた。そしてつぶやく。

 「そうだ。あれが一番いい」


もっとも自然な方法は交通事故だ。

 ステファンはそう考えた。 


 過去十年間の資料を調べた結果、交通事故を装った殺人がもっとも成功率が高いということを結論として導き出した。

 交通事故はもっとも我々の身近に起こりうる事故だ。しかも、交通事故は死亡事故であれ物損事故であれ、直接的には交通警察の手で初動の調べは行われる。


 交通警察はいわば殺しの事件のプロではない。

 事故に不審点があった場合にのみ、殺人課が派遣される。

 しかも、この頃は交通事故の多発のため交通警察も忙しい。 

 一通りの調べで済ませる事が多く、よほどの不審点がない限り、殺人課を呼ぶようなことがない事をステファンは知っていた。もっともシンプルで自然な方法で殺人は行われるべきだった。


             3


 義母のデイリールーティン(毎日の行動)をステファンは調べた。

 義母は 毎朝5時半に起床。 食事は午前7時。

 食事までの間に、(ここがこの義母の特徴なのだが)、サイクリングをする。

 美容とダイエットのためにずっとこれを続けている。


 普通ならば食事前の散歩、となるはずだが、

 彼女の場合は高齢にもかかわらずサイクリング用の高級自転車を30分ばかり乗り回す。 

 たいてい10キロ程度は走る。

 豪邸から出発して、5キロばかり離れたグリムルリン宮殿を一周して帰ってくる。


 途中には人気のないこんもりと茂る小さな森があったり、その森を過ぎると今度はにぎやかな大通りに出たりする。

 その大通りを突っ切ると宮殿が見えてくる。

 その付近一帯は公園になっていて自転車で周回できるようになっている。 そこをまわるのだ。

  

            4   


計画は実行された。誰でもが考えつくような方法、しかも誰にでもできるような簡単な方法で。


 ある朝、例の小さな森林を散歩している人が道ばたに自転車が倒れているのを発見した。


 それだけではなくすぐ近くの幅30センチほどの溝に顔を突っ込む格好で、

 年配の女性が倒れているのを見つけた。

 溝には約10センチぐらいの深さだったが水が流れていた。


 警察は死因を調べた。そして死体は司法解剖に回された。

 死因は窒息死だった。肺には大量の水が入っていた。暴行などのあとはない。

 倒れた時のものか、頭や顔、肩、腕などに打撲の痕がある。


 特に頭を強く打ったと見えて頭蓋骨を骨折していた。

 ブレーキ痕はない。

 目撃者はいなかった。当初は状況からして事故死であるという線で警察は動いた。


 だが、その女性が大富豪の妻ロミーであることがわかると警察は方針を転換した。

 事件性の面からも捜査を入れることとなったのだ。

 ステファンはしかしそうなることも考えの内に入れていたことは言うまでもない。


 病床の父親にも事情聴取が入った。あえぎあえぎ父は聴取に応じた。

 当然、遺産相続の話も出た。

 息子であるステファンの事も父の口から出た。


 だが、父はステファンにはもう何十年も出会ってないと言う。

 今では出会う気もないし遺産を与える意志もないと言う。

 遺産はロミーに与える予定だったが彼女が亡くなった今は社会福祉団体に寄付するという。


 警察は自分の息子でありながら実の父なぜかそうなのか、その点を不思議には思った。

 その事は別途秘密裏に調査することとなった。


           5


 父の妻ロミーが死んで得をするのは誰か。

 ロミーの遺産は法的には配偶者のハインリッヒと義理の息子であるステファンに相続される。

 そのことを考えると息子のステファンにも自ずと矢が向く。

 警察は必然的にステファンにも疑惑をいだく。


 計画的な犯行を犯す者は当たり前の事だが自分が疑われる場合の事は想定の範囲内に置いておかねばならない。それはステファンも同じだった。


 言い訳の方法は筋道だてていくつも考えてある。

 ステファンは終始落ち着いていた。

 そして時々わざと興奮した声音でこういうのだった。


 「冗談じゃないですよ。私はあんな親の遺産など眼中にはありません。ほしくもありません。

 くそっくらえ、です!福祉団体にでも寄付しますよ」


 警察は少なからず驚いた。

 父親も息子もこれだけの遺産について何の屈託も持っていない。奇妙な話だ。どう考えても奇妙だ。そのことに逆に再び警察は強い疑問を持った。この父子の関係は普通ではない。世間的常識では計り知れぬ親子の隔絶と確執がある。


           6

        

 警察は二人の経歴について調べた。

 調べてみると相互に複雑な事情と確執があるにはあった。

 ステファンが三歳の時に実母のアーリアは死亡。

 その直後に父のハインリッヒは今のロミーと再婚。

 それと同時に実子のステファンを施設に預けている。


 この点も確かに不自然ではあった。

 普通はこれだけの資産家が、

 若い妻と再婚したとはいっても幼い我が子をぽいと施設に預けるような事はしないだろう。

 うちでベイビーシッターを雇うなり、他にも子どもの育て方はいくらでもあるはずだ。


 警察は病床の父ハインリッヒにもこのことを再度尋問した。


 「あの時は・・・ああするより仕方なかったんです・・・」

 とハインリッヒは苦しげな呼吸をしながらあえぎあえぎ答えるのみ

 はっきりした理由はわからない。


 それ以上尋ねてもよく覚えていないとか、わからないとか神様の思し召しだとか言っている。

 死の床に伏しどうやら頭も相当混乱してきているらしい。

 現実と夢とが混濁してまともに過去の事などは思い出せそうにない状態だった。


 警察は父からの聞き取りはあきらめて別の角度から調べた。

 

 まずはステファンが預けられていた施設から調べ始めた。

 もう四十五年以上も前の事なので当時の職員はいなかったが、記録が残っていた。

 

 するとの原因めいた事実が何とかわかってきた。

 その施設の倉庫をかなりの時間をかけて担当の職員達が施設日誌と個人記録を引っ張り出してきたのだ。それを読むとぼんやりとその理由の輪郭がつかめてきた。

 

 後妻のロミーが気ままな女で、前妻のアーリアの子どもステファンを極端に嫌っていたこと。


 父のハインリッヒはそれでも自分の子ステファンをかばっていた。


 保育経験のある気だての良い聡明なメイドの女性を一人雇いステファンの養育を依頼した。


 別棟の部屋を与えそこでしばらくステファンは育てられたが、

 新妻のロミーはそれでもそれをも許さずことあるごとにそのメイドとステファンへの執拗な嫌がらせを繰り返したのだという。


 そのためメイドは精神障害を起こして辞めてしまった。

 朝から晩まで後妻のロミーに虐待的な扱いを受けていたというのだ。


 ハインリッヒはその後、再三にわたって新しいメイドを雇うが長続きしなかった。

 そのたびごとにロミーはヒステリックにメイドとステファンに虐待を繰り返したのだった。

 

 ステファンはこういうわけでやむなく施設に入ったという。


 当時の記録に保護者からの口述聞き取り結果としてそうした記録が残っていたというわけだ。


 「資産家の息子さんとはいっても、この子はそういう意味で不幸せな子だったんでしょうね」

、と現在の施設の担当者はステファンの昔の姿を想像し少し眉をひそめた。



 だがロミーに恨みを抱いていたというそのことのみでステファンを犯人と決めつける要素はなかった。


 犯行の動機としてはステファンがロミーに強い恨みをいだくだろうことは想像がつく。

 しかしそれは舞台のバックスクリーンのようなものだ。あくまでも過去の経歴だった。


 息子のステファンが遺産相続拒否の意志を示している点が何より警察には不思議ではあった。


 一方、過去の父子の相克の経歴からするとその言い分も首肯できないことはなかった。

 父とその後妻への憎悪に塗り固められたステファンの心情としてはいまさらそんなものは断じて受け取らないと言うのも苦悩の葛藤の結論としては一理はある。


 だがそれは勿論普通ではない。

 巨額の遺産をたとえいかなる強い憎悪がその父子の間にあったにせよ普通の人間ならば受諾するだろう。この点だけは疑惑が納得とが半々の状態で捜査員達の間に議論があった。

 

 義母ロミーには特にほかの人との関係においてはは恨まれるような背景もなかった。

 最近の日常生活においては怨恨の線も無い。


 ただ過去に雇われたメイド達、(もっともそのほとんどは死亡していたが)、

 唯一一人だけ九十歳になるという女性が生き残っていることを突き止め、彼女の所在を探りあてる事に成功した。しかしすでに彼女はアルツハイマーを患っていて昔のことはさっぱり思い出すことはできなかった。


 結局、ステファンの遠い過去の背景や生い立ちに強い憎悪という状況的動機となるものはあっても肝心の決定的な証拠がなかった。


 ロミーの身体はもちろん解剖に回された。

 転倒した時の打撲やあちこちの傷は至る所にあったがすべて転倒の状況やその打撲や頭蓋骨折傷の角度や程度は自然なものだった。

 頭髪の乱れはあったがこれも転倒時に側溝に顔を打ち付けた状況と符号するものだった。

 首を絞められたような後もない。


 鑑識は現場に落ちている微細なものまですべてを収集し鑑定した。結果、他者の指紋とみられるものはおろか髪の毛一本、糸くず一つ見いだせなかった。


 とどのつまり警察は、事件ではなく自転車による自損事故との判断をくだした。


             7


 報告書の概要は、ロミーがサイクリングの途中、脇見か何かしていて何らかの不注意により道路近くの溝に転落した。

 転落した拍子に頭を強く打ち意識不明になった。

 そのまま顔を水深10センチの流れの中に突っ込んで意識回復しないまま大量の水を飲み窒息死した、というものだった。

 頭の骨折の程度と角度、顔の傷、肩、腕、それぞれの打撲痕などを詳細に検討した結果そのような結論になったと警察は発表した。


 ステファンは心の中で喝采した。

 やった!


 やった!ウェルダン! 確かに私はやったのだ。


 義母殺害の犯行の様子はこうだ。

 読者諸君に真相を言っておこう。 


 それをここでは知っておいてもらいたい。

 きわめて単純でかつ子どもじみた方法でわたしはそれを実行した。

 誰でもがやりそうな方法。それが一番無難だということを知っていた。


             8



その朝。

 ステファンはカツラをつけてめがねをかけた。手袋をはき帽子をかぶり変装した。

 ついでに万一発見者がいた時の用心に身を隠す大きなマントまでかぶった。

 いつも彼女が通るその森林の小径が絶好の犯行の場所だった。

 めったに人は通らない。ごくたまに散歩者が通り過ぎることはあるが、それはこの時間帯ではない。このことは何度も事前に調べておいた。


 ステファンは森の木陰に隠れて待ち伏せた。

 やがて彼女が自転車を走らせて来た。

 ここまであと20メートル、10メートル。いいスピードだ。

 5メートルまで近づいた時、彼は飛び出した。


 すかさず彼女に体当たりを食らわせた。

 彼女はもんどり打って自転車ごと溝の方に転倒した。

 ガシャンという大きな音とともに彼女は倒れ側溝の角で頭を打ち付けた。

 ううう・・・、と彼女はうめき、のたうち回っている。

 そこへ彼は躍りかかり、彼女の頭をかかえるとそのまま、うつぶせにさせた。


 彼女は抵抗しなかった。いや、とっさの事で何もできなかったといっていい。

 ステファンは彼女の頭部をつかんで側溝の水の中に顔を押しつけた。

 そのままじっと押しつけた。彼女は上体をくねらせ、もがいた。

 ステファンには長い時間が経ったように思われた。

 だが、実際は2分間も経っていなかっただろう。

 彼女は動かなくなった。

 復讐だ。

 彼は小さくつぶやいた。

 

        9


 

 彼女が死に、警察からの事情聴取をされるたあとに父は急に危篤状態に陥った。

 そしてそのまま眠るように父は息を引き取った。

 遺産のことについては遺書が残されていたが、それは「義母ロミーにすべての財産を譲る」、

 というものだった。遺産の半分は息子ステファンに半譲るとも、社会福祉団体に譲るとも書かれていなかった。予想通りだった。


 なぜ私はここまで父に疎まれなければならないのか。

 それを思うと憎悪で目の前が真っ暗になる。


 ただ、その義母が死んだ今、調停人の調整で、実子であるステファンにそのすべての財産相続権があるという判断は正しいとの結果が出された。

 当然といえば当然のことであった。


 ステファンはほくそえんだ。

 これでいいのだ。これが本来あるべき姿なのだ。何も卑屈になる必要はない。

 当然のことなのだ。


 だが、ステファンは遺産相続を受け取りを拒否すると警察には豪語していた。


 今、その言葉をひっくり返して全財産を受け取れば当然疑惑は再燃し、

 再度の警察の捜査がステファンに及ぶ。


父は時価3億ドルという信じられないほど高価な指輪をはめていた。

 ステファンはそれだけを形見として自分の指にはめた。


 巨額の株式、銀行預金などは、すべて施設に寄付をすることにした。


 豪邸も売り払った。経営していた会社も解散し、いっさいの資産、財産を、福祉施設に寄付した。父の残した遺産などはそういう風に考えれば確かに何の未練もなかった。


 ステファンにとっては確かにその遺産は吐き気を催したくなるようなゴミ同然だった。


 遺産を独り占めするということが彼の目標でもあったが、

 それはある意味でそれを綺麗さっぱりと無一文にすることをも意味していたのだ。


 父の大事にしていたものはすべて抹殺したかった。


 ただ、指輪だけはなぜか違った。それは不思議な光を放ちさながらステファンに微笑みかけるような表情を浮かべている。この指輪だけは愛情深い不思議な魅力を彼に感じさせた。

 そして財産をすべて処分したその後、ステファンは船の旅に出発した。


 世界一周旅行ができるだけの最低限の金を持ち、ステファンは今回の船旅に出発したのだ。

 すべてはそういう事からこの船旅は始まった。

 こうすることが今度は父への復讐だった。

 ただ一つ、指輪だけは身につけた。


           10  



ステファンにとって、今回の船旅は実に快適だった。

 誰でもそうだが目的を達したあとの自由な旅というものは実に楽しい。

 船の中で何人かの友人もできた。

 あと数日でこの船旅も終了する。


 思えばこの何十年間、自分の人生の目的は父の財産を消却し、とりわけ指輪を奪うこと。

 そして、復讐をすること。この一点に捧げられてきた。

 いわば、もう思い残すことはない、ともいえる。

 船旅の終盤は、ひょっとしたら自分人生の終盤かもしれない。

 そう思うと妙にさばさばした気分にもなってくる。

 だが、父が死んだあと、この船の旅でふと思うことは、なぜ父はこれほどまでに

 私を嫌ったのだろう、という疑念だった。

 とても人間の血が流れているとは思えないような仕打ちを受けた。

 私には父にこれほどまでに嫌われる理由がまったくわからない。


 せめて幼くして死んだ母が生きていてくれたらそれを問いただし聞くことができたかもしれない。

 何度も考えたことは、私は父の子ではないのではないか、ということだ。

 血液型はしかし、父と同じAB型だ。

 顔立ちもまったく似ていないことはないと思う。

 特に鼻のちょっと段になったような形などはそっくりでさえある。

 ステファンはいくら考えてもその事がわからなかった。

 

          11


船は給油のためにハワイ島近くのとある島に停泊した。

 ひさしぶりの陸だ。 船客達はみんなやれやれと言う表情でにこやかに下船した。

 ステファンは、しばらく時間があるので、友人とボートを借りて魚釣りに出かけることにした。

 港は活気があり、物売りのいせいのいい声があちこちから飛んでくる。


 「陸はやっぱりいいねえ。やっぱり地に足がついてる感じだよ」

 大きく背伸びして深呼吸をするとステファンは釣り道具屋に入った。

 やがて出てくると完全な釣りスタイルで準備万端という具合に今度は

 ボートに乗り込んだ。

 プレジャーボートは水しぶきをあげながら走る。 爽快だ。

 やがて沖合まで来ると、そこで止まり、一同は釣り糸を垂れた。

 小一時間もそうしていただろうか。


 だが。

 不思議なことにステファンは一匹も釣れなかった。友人はすでに大物を何匹かしとめている。

 「そんな馬鹿な」

 ステファンは焦った。

 ええい、と釣り糸を勢いよく投げた。

 するとその時、なんとも信じられないことが起きた。


 薬指から例の大事な指輪がはずれたのだ。

 指輪はするりとステファンの指をすべり、5,6メートル先の海の中ににポチャリと沈んでいった。

 「うわーー。そんな馬鹿な!」

 ステファンは叫んだ。信じられない思いだった。

 が、それがやがて本当だということが わかるとステファンはその場に倒れ込んでしまった。


 俺の大事な指輪が海に!!

 信じられないことだった。

 なんでまた外れてしまったのだ。ステファンは気を失いそうになりながらそれでも何と か立ち上がり海の中を覗き込んだ。

 青色とも緑色ともつかない海面は無数のあぶくを漂わせながらただ無表情に波を往復させているだけだった。


 「どうしたい?急に。何かあったのかい?」

 何も知らない友人は怪訝そうにステファンを見ながらそう言った。

 ステファンはがっくりとうな垂れて、「もう駄目だ、俺の大事な指輪を海に落としてし まったんだよ。時価3億ドルだぜ、もう俺は駄目だ」

 それを聞いて友人は目を丸くした。

 「何だって。3億ドルの指輪!」

 プレジャーボートは港に引き返した。

 とてもじゃないがこれ以上釣りをする気にはなれなかった。


 二日後に、豪華客船はハワイの近くの島を出航した。

 船は十分な燃料と食材を調達し終えて汽笛の音も勇ましく出航した。

 ステファンはすっかり意気消沈していた。神は俺を見放したのか。


 やっと今までの苦労 が報われこれから自由な人生が目の前に広がったその矢先にこんなトラブルが起きようとは。天地を恨みたいような気になっていた。これも定めなのか。


 義母を殺した報いなのかもしれなかった。いや、しかし五十年間に渡って父に疎んぜられたこの俺はどうなるのだ。俺の惨めな人生を回復させるためにこそ義母は死なねばならなかったのだ。ステファンはそう思いなおした。


 それにしても父親はなんでこの俺をあんなにも虐げて差別したのか。

 またしてもステファンの胸にはその疑問が湧いてきた。

 それはなぜかということがどうしてもわからなか った。


 およそ、父にあれほどまでに理由もなく嫌われるということは、まず自分は父親の子では無いということにつきるだろうとステファンは思っていた。

 顔かたちは父に似 ていても実際の血のつながりはまったく無いのだと解釈せざるを得ないのだった。


         12

 

 豪華客船の大ホールはにぎわっていた。生バンドがダンス音楽を演奏している。そこではちょっとしたパーティが開かれていた。イブニングドレス姿の女性達、きちんと正装でネクタイを結んだ男性達が楽しそうにダンスを踊っている。ホールの隣は豪華な高級レストランとなっていた。


 ステファンは予約していた席に着きディナーを注文した。

 大きな鯛の丸焼きレシピがその夜のステファンのメインディッシュだった。ワインで口をしめらすと、あまり食欲は無かったがさっそくナイフでその魚をいただくことにした。

 ちょうどナイフを腹に入れたその時だった。

 カチリとナイフに何かが当たった。


 「おや、何だろう」

 ステファンは首をかしげながらフォークとナイフでその魚の腑をより分けた。 

 その瞬間、

 ステファンの目の前に信じられないものが出てきた。

 それは海に落とした自分のあの指輪だったのだ!


 「ノー!」

 ウソだろ!とステファンは思わず絶叫した。まさかこんな所に!


 ステファンはその指輪を手に取るとまじまじとそれを見つめた。

 それは間違いなく自分のあの3億円の指輪だった。


 ステファンは小躍りすると席を立って両手を挙げてばんざーいと大きな声で叫んだ。周りの人達が何事かといぶかしげにステファンを見ている。

 まさかこんな奇跡が起きるとは。ステファンはこみあげてくる笑いを押さえられなかった。

 手を叩きながら大きな声で笑った。


 ウエイターが飛んできて「お客様、どうされましたか」と心配顔でステファンの顔を覗き込んだ。

 「あっははははあーー。奇跡が起こったんだよ。奇跡が。あっはははあ」

 そう言いながら今度は恥も外聞もなく笑いながら床の上を転げ回るのだった。

 

 指輪を海に落としたのは釣りをしていた時だ。

 その後に魚が、この鯛がその指輪を飲み込んだのだ。

 そして近くの漁師がこの魚を釣り上げるかどうかして漁港に引き揚げた。

 港で豪華客船が二日間の停を泊している間に、燃料や食材を調達して船内に積み込んだ。

 新鮮な魚介類、この魚もその漁港から購入されて一緒に積み込まれた。


 そして船内のコックに調理され、回り回って偶然にもステファンの皿の上に盛られた。

 信じられないことだがこういう事だった。


          13



  それから二ヶ月後。


 奇跡の航海を終えて自分の家についたステファンは山のようにたまっている郵便物の整理にかかった。


 メイドが家の管理はしてくれていたのだが郵便物までは開封するわけにはいかない。

 ステファンは三日がかりでそれをチェックした。


 その中に布で厳重にくるまれた書簡があった。

 何重にもテープや紐で巻かれていてそれを開封するのに相当時間を費やしたがやっとそれを外すと中には1通の手紙が入っていた。


 宛先は、ステファン・F・モールテン様。それが自分であることは間違いないが、

 差出人の名前を見たときにステファンは心臓が止まりそうになった。

 目が飛び出るほど驚いた。

 ハインリッヒ・F・モールテンより。

 それはすでに死んだはずの自分の父親からの手紙だった。


         14


 ステファンへ


 もう余命幾ばくもない私だがまだペンがとれる間にこれを書いておく。とはいえ、もう指に十分な力が入らない。これが私の死後1年以上経ってからお前宛に届くように私の信頼できる執事に依頼した。


 確かに私はお前を遠くしりぞけて施設に預けた。辛い思いをしたと思うがそれがなぜかがわかるだろう。私を許すか許さぬかはお前の自由だが一つ言えることはここに書いたことは真実であるということだ。これを信じるか信じないかもまたお前の自由ではあるが。


 1年後にこれをこのような形で渡す理由は私への憎しみが少しでも和らいでからの方がいいだろうからという理由だ。憎悪した人間も死んでから1年も経つと憎しみも少しは薄れるものだ。お前はお前の人生をこれから存分に楽しむように。それを心から祈念している。


 驚かないでほしい。

 実はお前の母親はお前が幼少の頃に亡くなったマーリアでは無いのだ。


 お前は自分の産みの母親はアーリアだと思っていたようだがそうではない。


 お前の実の母親はお前が憎んでいた義母ロミーなのだ。


 ロミーには子が無いと思っていたのだろうが、お前こそ義母ロミーの子なのだ。

 義母ではなくお前にとって実の母なのだ。


 お前はロミーが16歳の時の子だ。

 前妻アーリアと私は確かに結婚していた。


 が、これがとんでもない悪妻だった。

 私はその当時貿易取引に失敗し大変な痛手を受けていた。

 アーリアは仕方なく取引先の相手からやむなく押しつけられた女だったのだ。


 あの女は麻薬をやっていてその頃は手がつけられなかった。アーリアは元娼婦だった。手のつけられない悪女だったので取引相手の男は私に押しつけてそのあばずれ女から開放されたというわけだ。

 わたしたちの夫婦関係も断絶していた。家庭も崩壊していた。


 実は私にはそれ以前から別に愛している女がいた。

 それがロミーだった。


 ただし、ロミーもその頃にはすでにほかの男と結婚していた。

 だがその男は酒癖が悪くしょっちゅう暴力をふるう夫だった。

 ロミーもまた夫婦の間は完全に冷えていたのだ。


 そんなときにお互いに知り合ったわけだ。

 俗に言えば不倫の仲というわけだが、ロミーのお腹にはすでにお前が宿っていた。


 二人は相談の上お前を産むことを決心したのだ。


 お互いにどちらの家庭も崩壊していた。 

 ゆくゆく二人はお互いの連れ合いと離婚して一緒になりたいと強く思っていたのだ。

 だからお前を産んだ。


 内々で私の信頼のおける執事の妻の家でお前は育ててもらっていた。

 これは誰にも隠していたことなのだ。


 お前の実の父親はだからこの私であることは間違いない。


 だが、いつまでも隠しておくわけにはいかない。私はお前を家に引き取ろうと考えた。

 悪妻アーリアにとってそれは面白かろうはずはない。

 許すはずもなかった。嫉妬深い強欲な女だった。


 しかしお前を育てるためには家で引き取るしかない。

 すったもんだのあげくお前を家に引き入れ私が育てることにしたのだ。


 メイドがベビーシッター役をしてくれた。

 だがことあるごとにアーリアはとことんお前を虐待した。


 下手をするとお前を殺しかねなかった。

 そんなわけでやむなくお前を施設へ預けるしかなかったのだ。


 誤解しないでくれ。つまり虐待していたのは後妻のロミーでなく、前妻の悪女アーリアなのだ。


 考えてもみよ。お前はロミーの実子だ、

 実母のロミーがお前を虐待するはずがない。

 アーリアこそわたしとロミーにヒステリックに嫉妬し二人の間の子であるお前を憎み虐めたのだ。

 


その後何十年も私たち夫婦はなぜお前を遠ざけたか。その理由は何かを書いておく。


それに答える前にまず真実を書いておこう。


 悪妻アーリアは病気で死んだのではない。

 私たち(私とロミーの二人)が殺したのだ。


 それのみならず、ロミーの夫も私たちの手によって殺された。

 そうして私達はやっと自由を手に入れ晴れて本当の夫婦になれたのだ。


 彼らをどうやって殺したかということの詳細はここで語る必要もなかろうが、

 要するに毎日少量の毒物類を、つまりヒ素その他の混合物だ。

 多種の薬物や薬草を混合することで毒物の特定は困難になる。


 わたしは貿易商だ。南米各地の麻薬類を手に入れることができた。それを長期間にわたって少量ずつ食事に入れたのだ。じわりじわりと体力が落ち身体の調子が悪くなっていく。そしてアーリアもロミーの夫もついに死んだ。

 

 警察もその時はまったく関知しなかった。少なくともその時点では。


 その後、私達には誰にも邪魔されずに平和な生活が戻った。


 だが気がかりなのはお前のことだった。


 一日も早くお前を私達の家に引き取りたかった。

 お前は知らないだろうが何十回となく私達は施設に行き、引き取り許可をお願いしたのだ。 


 ところが、どういうわけか施設の所長はもとより市の関係責任者は頑として許可しなかった。

 なぜだろうか。

 それはお前を殺人容疑者から保護するためだったのだ。この意味がわかるかね。


 これは後でわかったのだが、

 つまり警察の関係者がロミーの夫の死とアーリアの死との時期が同じであること、私達夫婦の結婚がその直後であることなどを不審に思い、その頃になってからじわじわと捜査の手を伸ばしていたからなのだった。


 貿易商の私の子が施設に入っているというのも警察にしてみれば不自然な話だった。

 結局、私達夫婦は殺人容疑で逮捕されたのだ。


 家宅捜索が行われた。

 ロミーの家の台所からヒ素のわずかな粉末が発見されたのだ。殺人罪で起訴された。


 それから長い裁判が始まった。だが検察にとって、私達には十分な殺人の動機はあっても決定的な物的な証拠が無かった。薬物の特定ができなかった。

 

 なぜロミーの家にヒ素があったのかということを検察はついてきた。

 だが、医師の診断書は肝臓疾患による病死となっていた。


 遺体を解剖しようにも火葬されているので時すでに遅しだった。

 

 一審は無罪だった。検察はさらに控訴した。状況証拠だけで起訴したのだ。

 結局最高裁まで行った。そして結果は無罪。長い年月だった。

 

 その間にお前は施設を出ていった。

 施設に問い合わせてもどこへ行ったかわからない。完全な消息不明になっていた。


 もちろん私達の家にも連絡もしてこなかった。私達は新聞広告も出したがなしのつぶてだった。

私達はもうお前を捜し出すのはあきらめていた。


 


 ところが、偶然にも、そうだ、

 お前の母であるロミーが自転車事故で亡くなった時に警察からこの街の近くにお前が来ているという情報をその時に初めて知った。


 私には、ピンと来た。

 私にだけがわかる直感だった。お前がロミーを殺したのだと。

 お前にしてみればロミーもわたしも憎かっただろう。

 お前がロミーを殺したんだと直感でわかったよ。

 自転車から転倒するようなロミーじゃないこともわたしが一番知っている。


 もちろん具体的証拠は何もわからない。

 ただの直感だ。お前がロミーを殺したのだということだけは私にはわかった。


 その時に私はもうお前に対して同情するのはやめた。


 もうすべてが遅すぎた。真実を語る機会もなかった。不運な親子の不幸せな巡り合わせだ。


 父と子の間においては、すべてが正反対の理解の上に成り立っていた。

 とりわけお前にとってはすべてが誤解の上に成り立ってしまっていた。

 

 わたしを呪っていただろう。同時に後妻のロミーを憎んでもいただろう。

 そういう人生だった。

 その間違いを早くに正してやる機会を私達は失ったのだった。すべては遅かった。


 その時に決心したのだ。私の遺産はお前には譲らずに社会に還元しようと。


 だが安心したまえ。 遺言書にはそうは書かない。

 ロミーは死んだが「ロミーに贈る」と書く。


 そのあとはお前の自由にするがいい。

 それがせめてもの私のお前への償いだ。そしてこういう不運な星に生まれたお前の人生がこれから光輝く事だけを祈っている。さようなら。

  

   愛する息子ステファンへ

 

ハインリッヒ・F・モールテン



                       了


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