蜘蛛
ある晴れた日の昼下がり、男は都会にしては広く敷地を持った、団地内にある公園のベンチに座っていた。どこまでも続くような青い空を見上げ、沸々とこみ上げる怒りのような感情を抑えきれず、頭を抱えたところで、しかし、自分にも卑下があったと詫びるような気持ちで心持を落ち着かせる。かれこれもう二時間以上もそうして過ごしていた。着ていたスーツの裾はいつの間にか汚れ、それが白髪染めの茶色だと気付いた夕方頃には、もうスーツも捨てていこうかと思うほどに何もかもがどうでもよい、と投げやりになっていた。
ふと足元を見ると、ベンチの下には小さな蜘蛛が一匹。何が罠にかかるわけでもないのに、ただじっとそこに縄張りを張っている。男はふと、蜘蛛に挑まれた気がした。なるほど、どうだ、蜘蛛はその小さな体をそれこそ横綱のように、でん、と巣の真ん中に横たえ、獲物を待っている。男が縄張りの近くにいようがいまいが、蜘蛛には関係ない。蜘蛛め、蜘蛛の分際で俺を愚弄するのか。そんな感情も持ち合わせていないのに、男はそういう風な声が聞こえた気がして、もう引っぺがして捨ててやろうか、と大仰にベンチから立ち上がった。
すると、ベンチのすぐ脇にある高い電灯になぜだか目がいった。そこには、その小さな蜘蛛の何倍もの大きさの蜘蛛が、これまた同じくらいの大きさの蜘蛛と争っているではないか。
一方がもう一方に負けて、動かなくなるまで、約三十分もの間、男はその戦いに見入っていた。戦いに勝った蜘蛛が、もう一方の蜘蛛を捕食しようとすると、鴉が急に、巣を荒らしに飛んできて、気づけばその大きな蜘蛛は、ピクリとも動かないまま、地面に横たわっていた。翌日にはアリが運んで、ここで二匹の蜘蛛が闘っていたことなど、俺の頭以外からは存在しなくなるのだ。と男は不意に涙を流しながら思った。
ふと、足元の小さな蜘蛛を見ると、おいしそうに羽虫を貪っていた。
ああ、どうだろうか、より多くのモノを求めた蜘蛛は、あっけなく死に、陰でこっそりと生きるこの小蜘蛛は幸せそうに生きているではないか。
男は悔しくなって、小蜘蛛を蹴散らしてやろうかと思ったが、一生懸命に羽虫を貪るその姿をみて、やめた。
ここでこの蜘蛛を生かせば、将来きっと、地獄で糸を垂らしてくれるかもしれない。
どこかの寓話を思い出し、男はその場から立ち去った。
命拾いしたことも露知らず、小蜘蛛はまた、羽虫がかかるのを待っている。