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七 執心

 月曜夜、波多野営業部長は応接室で、茂と葛城に次の仕事について概要を話した。

 内容は特に特殊なものではなかったが、二人を少し驚かせたのは、波多野が最後に付け足しのように言った一言だった。

「メイン警護員は怜、サブ警護員は茂、そして、透を茂のサポートおよび怜の緊急時向け代替要員としてつける。」

 茂はそれが月ヶ瀬のことであると気づくのに一瞬遅れた。

 月ヶ瀬を「透」と名前で呼ぶのは事務所では波多野くらいだ。しかもそれでさえ、必ず、ではない。

「波多野さん、今回の案件は、そこまでするような危険な要素があるのですか?」

 葛城が硬い声で訊く。波多野は首をふる。

「そうじゃないが、茂と、それから透の、警護経験に資することになると考えている。協力してほしい。怜。」

「・・・わかりました。」

 茂は少し不思議に感じた。葛城と同等かそれ以上の敏腕の警護員である月ヶ瀬に、こういうかたちでの「経験」が必要な理由が思い当たらなかった。

 波多野が出て行った後、茂と葛城は応接室に残って書類に目を通す。

 葛城がその美しい目を書類から上げ、茂のほうを見た。

「まだ数週間ありますから、週末にでも下見の相談をしましょう。」

「はい。」

「今日、まだ時間ありますか?」

「あ、はい・・・。」

「ちょっとつきあってほしいところがあります。」

 葛城は先に立って応接室を出た。

 事務所の駐車場に、葛城の私物の乗用車が停まっていた。

 茂を助手席に乗せると、葛城は静かに車を滑り出させ、夜の高速に乗った。茂は葛城がどこへ向かっているかを理解したのは、高速を降りてまもなくだった。つい二日前に、オートバイで走った、よく覚えのある道だ。

「あの、葛城さん・・・・。」

 街の灯を抜け急坂を上がると、右手に巨大な低層建築物が華やかな明かりに彩られ姿を見せ、人工の水面がオレンジ色の光を反射しているのがわかる。

 やがて目の前は左右を林に囲まれた山道となり、ささやかな沿道の明りだけが路上を照らす暗い風景となる。

 そして、長い山道を上りきった車の前に、夜空と、巨大な自然の水面が広がった。

 湖を正面に臨む車留めまで来て、停車し、しばらく葛城はそのまま黙って前を見ていた。湖面が反射する月の光と、広大な水面のさざなみが夜空と同じ色で時折煌めいているが、車内は暗く、葛城の表情はほとんど分からない。

 やがて、ようやく、葛城の声が届いた。

「土曜日は、ここまでは来ませんでしたか?」

「あ・・・・はい。」

 茂は少し慌てて答えた。

「はい、この少し下の、遊歩道入口下の・・・林道ぎわまででした。」

「少し先へ登るだけで、さらに想像以上の風景が見えることがありますね。」

「・・・・」

「この湖は有名な観光スポットですよ。降りてみましょう。」

 エンジンを止めた車を二人は離れた。車留めの向こうの周遊路を渡り、丸太風のフェンスから、広々とした湖の水面を見下ろす。水の色は車内からは夜空と同じに見えたが、さらに青く、暗い紫の光を含んだ複雑な色彩をしていた。

 正面からの風を受け、葛城のきれいな額を露わにして長い髪が後方へなびいている。右手でそれを押さえるようにしながら、葛城が茂のほうを見た。

「あの人たちは、すごい人たちだと、思います。」

「・・・葛城さん?」

「正直、怖いです。」

「え・・・・」

「それは、彼らが、失敗をしないからではありません。むしろ、逆です。」

「・・・・」

「彼らも人間ですから、躓くし、迷うし、悩むでしょう。それでも、彼らは、揺らがない。変貌するのに、なおかつ、ぶれない。」

「・・・・」

「茂さんが見たとおり、彼らが今回払った犠牲はかなりのものでしょうし、受けたダメージはそれ以上なんでしょう。」

「・・・はい。」

「すみません。個別の警護案件の内容を、関係のない警護員が知ることは、ルール違反ですが。」

「あ、いえ・・・・。」

 葛城はうつむいた。

「私が同じ場に居合わせたとしても、やはり、和泉さんを助けたと思います。それは、人命救助ということがそれ以外の何物より優先する、というだけではありません。我々の存在そのものと、絶対に相容れないことをしている人間たちなのに、どこかで、彼らを尊敬している。」

「・・・・!」

 茂は恐怖に似た表情で、微かに窺うことのできる葛城の端正な目を見た。私は親の仇を愛しています、と誰かが言ったとしても、これほどの衝撃は受けないと思った。

 葛城は自分を辱めるように笑った。

「そして、私たちのクライアントを襲撃し、晶生や崇を命の危険に曝し、そして茂さん・・・あなたに重傷を負わせた、奴らです。それなのに。」

「すみません、葛城さん。」

 茂の声が、強く震えた。

 茂は暗闇に、感謝した。涙が茂の意志と無関係に、両目に滲んできた。

「すみません・・・・」

「なぜ、謝るんですか、茂さん。」

「それは・・・」

「茂さん、私は」

 葛城が、体ごと茂のほうを向き、そして、大きく頭を垂れ、茂はさらに驚いた。茂のほうを向いてはっきりうつむいている葛城の顔を、覆うように流れ落ちる髪が、風にあおられる。

「・・私は、あなたに謝ってほしいのではありません。あなたに、お願いを、したいんです。」

「え・・・?」

「どうか、どこへも、行かないでほしい。我々と、これからもずっと共に、仕事をしてほしい。」

 言葉を失った茂の脳裏に、夜のドライブウェイで、下界の街の灯を共に見下ろした和泉の横顔が、蘇った。

 目の前の葛城の、その顔を覆う長い髪が、茂の記憶に割り込もうとするかのように、強くなびいた。

「葛城さん、俺は・・・」

「・・・」

「俺は、和泉さんに、同情しましたし、そして俺もたぶん、一部同感さえ、してます。正直、好きでもあります。」

「・・・はい。」

「そのために、葛城さんと高原さんに、どれだけ迷惑をかけたか、わかっています。」

「・・・・」

「こんな俺を、赦して、助け出して、そしてあのときも・・・再び受け入れてさえくださいました。葛城さんたちは。」

 茂はもう一度、葛城のほうを見た。葛城は顔を上げて茂の顔を見返した。

「俺が葛城さんや高原さんのもとで、仕事をしていく、それだけが嬉しいですし、余りにも当たり前のことです。が、それだけじゃなく、もう一つ、約束します。」

「・・・・」

「和泉さんのことは、記憶から、消します。」

「・・・・・」

 葛城が、両目を閉じた。茂も、そのまま少し、うつむいた。

 広大な湖面を風が大きく渡り、映る月影を乱した。



 下界の街を見下ろす高層ビルの巨大なガラス窓に向かい、立ったまま吉田は携帯電話の相手の声に、耳を傾けている。

 阪元のよく通る、耳触りの良い上品な声は、いつもと変わらないように聞こえた。

「次の仕事は予定通り二週間後の開始だけど。・・・やれる?恭子さん。」

「特に中止や延期が必要な状況変化もありませんので。」

 電話の向こうで上司がくすくす笑う。

「恭子さん、君は、本当に強いね。」

「そうですか。」

「女性というものが、強い生き物なのかね。」

「どうでしょうか。わたくしは、あまり女性らしいとは自分では思いませんが。」

「あははは。」

 特に表情を変えることなく、吉田は阪元がひとしきり笑い終わるのを待つ。

「明日香も、強靭だったな。」

「根拠もなくあまり一般的なことを言うのは好きではありませんが、女性は、強いのではなく、我慢強さを少しだけ多めに持っているということなのかも・・・しれませんね。」

「・・・・そうかもしれないね。」

「社長ほどでは、ありませんが。」

「ありがとう。・・・恭子さん、今回も、よくがんばってくれた。君は上司として、部下たちを労っただろうけれど、上司になると、自分はなかなか誰にも労ってもらえなくなる。」

「・・・・」

「だから私は、君を、十分労いたい。理由はもう一つある。強いか弱いかと、苦しみの大きさとは、別物だ。そしてむしろ、強い人間のほうが、多く苦しむ。」

「・・・・」

「あと、大森さんのところには、今回、借りが出来てしまった感じだけね。」

「はい。」

「面白いね。」

「・・・?」

「あの、月ヶ瀬という、警護員。」



 翌朝、フルタイムの警護員たちが多く自席で仕事をしている事務所へ葛城が顔を出すと、応接室から波多野と月ヶ瀬が出てくるところだった。

 波多野が葛城をみつけ、手招きする。

「ちょうどよかった、透にも次の仕事の話をしたところだ。下見や準備は怜と茂のふたりで進めてほしいが、情報は全て透と共有してくれ。」

「わかりました。」

 波多野が行ってしまうと、月ヶ瀬は切れ長の、夜の湖のように蒼みを帯びた黒い目で、目の前の同僚のやはり美しい両目へ刺すように視線を向けた。

「よろしくね、葛城。」

「ああ。」

 月ヶ瀬が葛城とすれ違って自席へ戻ろうとしたのを、振り向いた葛城が呼び止めた。

「・・・月ヶ瀬。」

「なに?」

「今回の警護で、河合警護員が、迷惑をかけた。俺の指導不足だ。申し訳ない。」

「は・・・?」

 体をもう一度葛城のほうへ向け、月ヶ瀬は漆黒の艶やかな髪を左手で肩の後ろへよけながら、あきれたように葛城の顔を凝視した。

 そして、氷のような言葉が飛んだ。

「自分のコントロール外のことを、詫びるのは、極めて無責任で失礼なことだ。そういうの、なんて言うか知ってる?」

「・・・・」

「偽善、だよ。」

 葛城は表情を変えない。

「お前のそういうところは、気分が悪い。・・・そんなことより、その大事な後輩警護員が、これからも君にちゃんとついてくるかどうか、心配で大変なんじゃない?」

「・・・・」

「愚かだね。」

「・・・・」

「何かに、誰かに、執着するのは、誰もしあわせにしないよ。」

 美しいと言うには冷ややかすぎる両目を細め、月ヶ瀬は、残酷さと同情とが複雑に同居した微笑みをその人形のように端正な顔に浮かべた。



 平日昼間仕事をしている会社で、まだ火曜日とは思えない疲労の表情をしている茂を、斜め向かいの席から三村英一はあきれた表情で見た。

「河合、確か仕事は土曜で終わったんだよな?三日間も疲れが残るって、お前何歳だ。」

「うるさいなー。」

「というより精神的疲れか?失恋か?」

「な、ななななななんだよいきなり」

 英一は皮肉な微笑みを浮かべて、さらに追い打ちをかけた。

「あと、悪い知らせだ。」

「え?」

「今日はこの後、帰りに大森パトロールさんへ立ち寄る。高原さんが来ておられるらしいから。」

「なんだって」

 茂は今日は事務所へ行くのをやめようかと心の底から思ったが、終業ベルとともに英一が帰ったあと、極力時間をかけて残業し、その後やはり駅の反対側の雑居ビルの事務所へと向かった。

 事務室へ入ると、葛城が給湯室から麦茶のピッチャーを持って出てくるところだった。

「あ、葛城さん、こんばんは。」

「こんばんは。英一さん来てますよ。」

 笑顔で葛城が応接室のほうを見た。

「げっ。まだいたんですか。」

「晶生と話しておられます。応接室ですよ。」

「え、いや、俺はいいです。」

 応接室のソファーで、高原は英一に軽く頭を下げ、礼を言っていた。

「三村さんには、なんだかいつも、甘えてばかりのような気がします。」

「いえ、俺が一番楽しんでますからね、きっと。」

「今回の警護で、あいつもなにか学んでくれたとは思いますが、ちょっと刺激が強すぎたかもしれません。昼間の会社で、ほとんど仕事になっていないんじゃないですか?」

「まあそれは・・・もともとです。」

「女性のことも、三村さんのほうが詳しそうですね。」

「はははは。いろいろですよ。」

「今度ばかりは・・・葛城怜不幸の話くらいじゃ、元気は出そうにないな。」

「え?」

「あ、いえ・・・」

 英一は、麦茶を一口飲み、微笑んだ。

「・・・高原さんたちは、優しい先輩ですね。悔しいほどです。」

 メガネの奥の知的な目を、少し天井に向けて、高原は再びため息をついた。

「怜は・・・葛城は、体当たりで河合に立ち向かって行ってしまったみたいです。怜のことはだいたい分かっているつもりなのに、今だに、たまに、驚かされます。」

「高原さんと葛城さんのような間柄でも、そうですか。」

「そうですね。・・・玉砕して、怜のやつ、あいつまでダメージ受けてなきゃいいんだけど。」

「心配いらないですよ。こちらが心配するほど、相手は弱くないものです。往々にして。」

「・・・・・」

「大切な友人であればあるほど、弱く見えてしまうことが、ありますけどね。」

「・・・・そうかも、しれませんね。」

 葛城に引きずられるようにして、茂が応接室に入ってきた。

 高原が笑顔で茂と葛城に座るように勧める。

「お、河合。さっきからお願いしてるんだが、なかなかご了解を得られない。お前も一緒に頼め。」

「なにをですか?」

「三村さんに、うちの会社の武道研修の、剣道の講師をしていただきたいという話だよ。波多野さんに聞いてないか?」

「聞いてません!」

 英一は爽やかな笑顔で茂のほうを見た。

「昼間の会社の同期でもありますし、河合警護員さんがどうしてもとおっしゃるなら、考えてもいいですが・・・・」

「・・・・もう!」

 茂は、目の前の先輩警護員たちが、涙が出るほど笑っているのを、不本意な表情で見つめた。

 窓の外では、月が穏やかに街を照らし始めていた。

第九話、いかがでしたでしょうか。

第十話は、月ヶ瀬警護員がさらに多く登場する予定です。またお読みいただけましたら、ありがたいです。

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