六 進展
和泉は板見に車で拾われ、そのまま阪元探偵社の協力病院へと向かった。
現場から戻ってきた補助要員ふたりに迎えられ、検死をした医師が待つ読影室へと向かう。
「先生、お休み中のところ、遠方まで申し訳ございませんでした。」
和泉が挨拶し、医師は「お気になさらないでください」と答えながら、手元の数枚の写真を二人に示した。
「両名とも、現場で死亡を確認しました。」
二体の死体のうち、一体は和泉も見覚えがあった。
板見が、小さく、和泉に言った。
「これで・・・ルール・C、終了ですね・・・・。」
「ええ。」
和泉は医師のほうを見る。
「先生、酒井は・・・」
「こちらですよ。」
医師は二人を先導して廊下へ出た。
突き当りの小部屋へ二人が入ると、奥のベッドの上で、酒井が座っていた。腕に点滴の針を刺し、胸を肌蹴てだらしなく着た寝巻の上に、肩からガウンをひっかけている。
「酒井さん・・・・・」
和泉がそのまま立ち止まり、床に両膝をついた。
板見は和泉の肩を支えるように、立ち上がるのを助け、二人はようやくベッドの脇まで到達した。
「大丈夫か?和泉」
酒井が困った顔で尋ねる。板見に支えられて辛うじて立ったまま、顔を両手で覆い、和泉は答えない。肩が激しく震え、顔を覆った手の指の間から涙が伝い、ぽたぽたと床へ落ちた。
板見が、やはり目を赤くしながら、その大きな目で酒井を見て、微笑んだ。
「・・・和泉さんは、怒っていましたよ。どうして酒井さんからの第一報が、自分じゃなくて板見の携帯電話に入ったのか、って。」
「はははは。たまたまやないか、たまたま。」
医師は点滴の針をチェックすると、部屋を出て行った。
板見はベッド脇の二つの椅子のひとつに、和泉を座らせた。
「怪我の具合は・・・」
「ああ、腕と太もも、ざっくりやられたわ。あれ、すごい高級ナイフやったもんな。しばらく献血はできへんで、俺。」
「・・・・。」
「二人の死体の写真、見たか。」
「はい。」
「そうか。」
酒井は、しばらく黙った。
板見が自分も椅子に座り、背筋を伸ばして酒井の顔を見つめる。
「奴らは酒井さんを、殺そうとした。二人がかりで。酒井さんのしたことは、普通に、正当防衛です。」
驚いたように酒井は板見の大きな両目を見返し、そして少しだけ、笑った。
「・・・そうやな。」
窓の外から、正午近くの眩しい光がブラインド越しに漏れている。
板見が、別の話をした。
「俺が言うのもなんですが、酒井さん、ずいぶんご連絡があるまで時間がかかったようですが・・・・」
「悪い悪い。とりあえず、二人の死体と一緒に絶妙な位置まで移動するのに、意外に手間取った。和泉を最初に襲った奴が合流してくる可能性があったし、それにあのあたり、誰も通らへんようで、ときどき車が通るからな。それから、通信機器を思いっきり壊されてしまってたからなあ・・・あいつらの携帯電話をもらうことにしたんやけど、他人の携帯ってめっちゃ使いづらいもんやで。」
「はあ」
「妙な機能ついてへんかどうか、確認しながらやしなあ。」
「まあそうですね。」
実際は、負傷した体の体力を回復するのに、時間を要したのだろう。板見は酒井の、まだ憔悴の色の残る顔を改めて見つめた。
和泉がようやく顔を上げ、目も鼻も真っ赤になったまま、震える声を出す。
「酒井さん、ほんとにすみませんでした・・・。私が未熟なために・・・・。」
「まあそれは事実やけどな、はっはっは」
和泉がまた泣き出しそうになったのを見て、板見が慌てて言葉をはさんだ。
「えっと、酒井さん、社長と吉田さんには報告してありますが、なにか伝言があれば俺が・・・・」
そこまで言って、板見は、酒井の視線が、自分を飛び越えて部屋の入口のほうへ向けられたことに気がついた。
板見が振り向くと、そこには、吉田が立っていた。
茂がテーブルの麦茶のグラスを片づけて応接室から出ると、波多野が事務所から出ていくところだったが、最後に茂に向かって言った。
「そうそう、忘れてた。お前、明日の月曜夜は、こっちに来られるか?」
「あ、はい。大丈夫です。」
「今日これから俺が面談に行って、その結果によるが、お前たちに担当してもらえそうな新たな案件がある。」
「俺と・・・」
「怜とだ。」
「葛城さんと・・・!」
「そうだ。」
茂が露骨に嬉しそうな顔をしたのを見て、波多野は面白そうに笑った。
「そういえば、ここしばらく、事務所で葛城さんをお見かけしてなかったです。」
「そりゃそうだ。休暇を取らせていたんだから。」
「・・・・?」
「晶生の提案だけどな。」
ぼそり、と波多野が言った。
「?」
「いや、なんでもない。・・・で、今日から復帰だから、もしかしたらもうすぐ・・・」
噂をすれば、従業員用入口をカードキーで開ける音がして、一人ならず二人の足音が近づいてきた。
高原と、葛城だった。高原が驚いて茂に尋ねる。
「河合?今日の警護はどうしたんだ?」
「あ、実は夕べの帰宅時以降、キャンセルになりました。」
なにかやらかしたのか?という表情で真剣に心配そうな顔になった高原と葛城を見て、波多野が大笑いした。
狭い病室の入口ドアから室内へ一歩入ったところで、吉田は立ち止まった。
酒井は板見の肩越しにまっすぐに上司の顔を見た。吉田は普段と変わらぬ地味な服装、普段と変わらぬ静かな様子で立っていた。しかし普段と違っていることが二点あった。一点目は、手になにも持っていないこと。そして二点目は、その顔に血の気がほぼ感じられないほどに疲労が色濃くよぎっていることだった。
板見は思わず立ち上がって上司の傍へ行こうとした。しかし、吉田はすぐにそのまま酒井の座るベッドへ向かって歩いてきた。
ベッドサイドに吉田が近づき、板見と和泉はそれぞれ立ちあがって椅子を引き、道を譲る。
吉田が酒井を見下ろし、いつもと変わらぬ低い穏やかな声で、言った。
「傷の具合は?」
傍まで来た上司の顔を見上げ、酒井は微笑んだ。
「大丈夫です。今日のうちに退院させてもらえないか先生に頼んだくらいです。」
「それはさすがに、無理そうね。」
和泉が、ゆっくり後ずさりする。
「私、なにか飲み物もらってきます」
「あ、俺も行きます。」
和泉と板見は、病室を出ていった。
吉田は病室入口のほうを振り返って苦笑した後、再びベッドの上の部下のほうを見た。
吉田が何か言おうとしたのを先制するように、酒井が言った。
「だめですよ、恭子さん。」
「・・・・」
酒井がやや上目づかいで、さっきより少し意地悪そうに微笑んでみせた。
「だめですよ、謝ったりしたら。」
「・・・・」
「ルール通りに、事が実行されただけです。そしてこれは、俺が望んだことです。」
「それでも、私は詫びるべきなのよ。」
「座ってください。ものすごく顔色が悪いです。」
「仕事も・・・、中止になった。」
吉田の語尾が、かすれた。
「わかってます。それは、結果です。」
沈黙があった。
「恭子さん。どうか、そんな顔せんといてください。」
酒井は、その精悍な顔立ちに不釣り合いな懇願の表情で、上司の目を見上げた。
吉田は黙っている。
「恭子さん、それじゃあ言いますが、詫びることなら、こちらにもあります。」
「・・・・」
「俺は、エージェントとして、ある程度の実力はあると自負してます。ですから、今回のような案件で、ルールに則った役割をさせてもらえることは、当然やし嬉しいと思ってます。これらも、それは変わりません。・・・ただ、恭子さんがどれだけ部下のことを心配しておられるか、知っています。俺たちが危険を冒す分だけ、そのたびに、貴女を死ぬほど苦しめる。そのことを、分かっています。でも、どうしようもないです。」
「・・・・」
「これが、俺が、俺たちが、許してほしいことです。」
吉田は酒井を見つめたまま、目をかすかに細めた。
「無理だ。」
「わかってます。」
「板見が負傷したときの、自分のことを思い出してみてもそうでしょう。」
「そうですな。」
吉田は、窓のほうを見た。
「・・・酒井。」
「はい。」
「今回も、よく頑張ってくれた。感謝している。」
「はい。」
「ただし、命はいくつもあるものじゃない。くれぐれも、粗末にはするな。」
「わかってます。」
「これは、命令だ。」
「はい。」
「もしも背こうとしたら、そのときは・・・」
酒井のほうを、再び吉田が見た。
「・・・そのときは、お前が、私のことで、今回の私と同じ思いをすることになる。」
「・・・・!」
目を見開いた酒井に、静かな微笑みを向け、吉田は踵を返して部屋のドアへと向かった。
「恭子さん!」
「じゃ、よく休養して、また板見や和泉と、いい仕事をしてちょうだい。」
「・・・・はい・・・」
吉田は振り返り、もう一度微笑し、部屋を出ていった。
部屋を出た吉田は、廊下で所在なげにしていた和泉と板見に優しく微笑みかけた。
「今回の仕事、二人につらい思いをさせたと思う。でもよくやってくれた。感謝している。」
「ありがとうございます。・・・」
「・・・悪いけど、今日は酒井を頼むわね。」
「はい。」
「二人とも、明日から三日の休暇をとりなさい。」
「はい。すみません。」
「そしてまた、元気な顔を見せてちょうだい。」
「はい、吉田さんも、お気をつけて。」
吉田は廊下の向こうへ歩き去った。
和泉と板見が病室に戻ると、酒井がベッドに座ったまま、うつむいていた。
「酒井さん・・・気分が悪いですか?看護師さん呼びますか?」
「いや・・・」
明らかに顔色が悪くなっている酒井に、和泉が心配そうに訊ねる。
「どうしたんですか?」
「思いっきり、脅された。」
「え?」
「恭子さんに。」
「・・・?」
酒井は恐怖で蒼白になった顔をあげて同僚たちの顔を見た。
ふたりはもちろんまったく話が見えなかったが、とにかく酒井が死ぬほど衝撃を受けていることだけは分かり、おずおずとその顔を見つめていた。
日が西の空に傾いたころ、外回り営業を終えて大森パトロール社の事務所に波多野営業部長が戻ってきたとき、事務所では数人の警護員がそれぞれの机で書類整理や事務作業をしていた。茂がいないことを確かめた後、波多野はやはり自席で端末に向かっていた高原が、こちらを見たタイミングで、目配せをした。
高原が立ち上がり、波多野に続いて応接室へ入り、波多野は扉を中から閉めた。
「お戻りになるまでできれば事務所にいるように、とのことでしたが・・・」
「ああ、すまんな。」
「仕事もありましたから大丈夫ですが・・・・。・・・なにか、ありましたか?」
高原のメガネの奥の知的な両目が、まっすぐに上司の顔を見つめる。
「念のため、確認したい。お前もよく記憶しているはずの、人物の特徴を。」
「はい。」
「女性のほうは、身長一七〇センチくらいで、明るい茶髪のショートカット。目もごく淡い茶色。」
「・・・・!」
「そして、男性は、お前と同じくらいかそれ以上の長身で・・・」
「鍛えられた、非常に身体能力が高い・・いえ、総合力の高い工作員です。髪は、そうですね、崇くらいの長さの、黒髪。」
「まったく、一致してる・・・・土曜の夜、月ヶ瀬が見た、二人の人物に。」
「どういうことですか・・・?」
「その女性のほうが命を狙われる現場に、二人が偶然居合わせたんだが、茂がその女性を助けに行き、月ヶ瀬も巻き込まれる形で救援したんだ。」
「・・・・・」
「男性のほうは二人目の刺客から女性を守ったが、負傷し、行方不明になった。」
「・・・・そうですか・・・。」
「女性の名前は確か、和泉、だったな。」
「はい。男性の名は、酒井、のはずです。」
「三村さんを監禁し、怜を威嚇し、崇に報復した奴だな。」
「そうです。」
波多野はソファーに深々ともたれ、ため息をついた。
「困ったもんだ。」
「今回は、しかし奴らと直接の対峙になったわけではないのですよね?」
「ああ、それにむしろこっちが貸しをつくったと言ってもいいくらいだな。」
「はい。」
「それにそもそも、奴らがどこで何をしようと、基本的に我々は関知はしない。我々は警察でもなければ探偵事務所でもないからな。」
「そうですね。」
「・・・・つまり問題はそこじゃない。」
「?」
高原は、ここまで聞いても波多野の話の筋が見えずにいた。
「月ヶ瀬は奴らの・・・酒井や和泉たちのことをもちろん何も知らないが、どういうことをしている人間たちか、ほぼ正確に理解したんだと思う。あいつがこういう類のことを俺に報告するのは非常に珍しい。・・・で、お前の意見が聞きたい。」




