五 悔恨
茂は、前を走る月ヶ瀬からの声が、ヘッドフォンに一言も入ってこないことに、少し不安になりながら、不安になる自分が不思議でもあった。
森と湖を背にした巨大リゾートホテルは遥か後方へ遠くなり、街の大量の光の中へ、道路を滑るように二台のオートバイが走る。今、二人が話をすべき用件はなにもない。
今、目の前をオートバイで走っているのが葛城だったら、どうだろうかと茂は想像してみる。たぶん、無謀な行動をした茂をたしなめながら、和泉のことも気遣うような言葉があるだろう。そして茂に、もう二度と危ないことをしてくれるなと、しつこく言うだろう。
明らかなルール違反をした後で、叱ってもらえないということの不安さを、茂は再認識した。
そしてそれは即ち、自分がこれまでいかに葛城に甘えてきたか、ということだと思った。
大森パトロール社の事務所の駐車場に二人が到着したとき、ビルの二階の事務室は明りが消えていた。
駐車場に入れたオートバイから降りた月ヶ瀬が、ヘルメットを脱ぎ、長い漆黒の髪が街灯の光を受けながら流れてその顔を覆う。
ヘルメットを持っていないほうの手で髪をかき上げた月ヶ瀬の顔は、予想以上に疲労して見えた。それは肉体的というより精神的な疲労感に思えるようなものだった。
「・・・・すみません、月ヶ瀬さん。」
茂はおずおずと詫びる。
月ヶ瀬は茂のほうを、その、美しいと形容するには冷たすぎる両目で見る。
「謝るくらいなら、最初からしないでほしいね。」
ビルの入口に向かって歩き始める月ヶ瀬に、慌てて茂は続く。
事務室に入り、明りをつけ、それぞれ通信機器を所定の位置に戻したり書類を引き出しに片づけたりし、警護員の動静表に記録をつける。そしてロッカーの前で着替えを済ませた月ヶ瀬が、茂のほうを振り向いた。
「じゃあ明日、予定通りクライアントの家の前でね。もしもそれまでにクライアントと連絡がついて、警護業務がキャンセルになっていたら連絡してね。」
「はい。」
「今日のことは、僕から波多野さんへ報告しておくよ。」
「すみません。」
ロッカーの前を離れ、事務所出口へ向かいながら、茂のほうへ立ち寄るように近づき、立ち止まる。
「河合さん、もしも明日も警護がキャンセルにならなかっとしてね」
「はい。」
「・・・で、さらに延長になったとしたら。引き続き、あのクライアントの警護を引き受ける?」
「もちろんです。」
「奴は、君を身代わりにしようとしたんだよ。」
「関係ありません。」
ぞっとするような冷たく美しい笑顔が、月ヶ瀬の青白い顔に満ちた。
「ふふっ・・・。及第点の回答だね。」
「・・・・」
「でも、満点ではないね。」
「・・・・」
月ヶ瀬は踵を返し、背を向け事務室出口に向かいながら、言った。
「満点になるのは、いつかその同じことを、そんなに不機嫌な顔をせずに言えるようになったときだね。」
阪元探偵社の依頼人は、日曜の朝から訪問してきた相手の様子を見ただけで用件を察したようだったが、居間で一通り話を聞き終わると、礼儀正しさの中にも失望の色を隠さなかった。
初老の背の高い痩せた体を前に乗り出すようにして、吉田の、メガネの奥の目を見つめ、依頼人は念押しした。
「吉田さん・・・仕事を継続していただくようにお願いする方法は、なにもないということですか?」
薄暗い洋間の、埃じみたソファーに浅く腰掛けている吉田は、はっきりと頷いた。
「はい。申し訳ありません。」
「私の身に危険が及ぶことなど、覚悟の上です。私はなにもかも奪われた。命など、惜しくないんです。」
「・・・・」
「もちろん、事業を再開できればとは思いますよ。しかし、また妨害を受け倒れたとしても、それはそういう定めだったんだとあきらめます。私は、一矢報いたい、それだけなんです。業界の暗黙のルールを破ったら、制裁を受ける。こんな不条理な状況を、少しでも変える一歩を刻みたいんです。」
「おっしゃることは、よくわかります。」
「では、なぜ引き続き力を貸してくださらないんですか?相手の力が大きすぎるとおっしゃいましたが、相手をつぶしてくれなどとお願いはしていません。・・・奴らの、不当要求の記録を一部であっても入手して、世間に明るみに出したい。もちろん、マスコミは一時騒いだらすぐに飽きるでしょう。それでもいいんです。また、私に続く者がいつか出てくるでしょう。」
吉田は同意と哀しみのこもった目で依頼人の顔を見た。
「・・・今は、まだ、あの会社のあの暴力を相手にして貴方ほどに覚悟ができる人は、業界にはほかにはいないと考えてよいと思います。貴方は、そして貴方の事業は、本当の無駄死にをすることになる。もちろんわたくしは、素人です。全てを理解して申し上げているわけではありません。これは、我々のこれまでの仕事の経験からの、勘であり、それ以上でもそれ以下でもありません。」
「それはつまり、おこがましいとは思われませんか?」
「そうかもしれません。」
「貴方がたは、依頼人の利益を最優先に考えて仕事をしておられると思っていました。でも、何が依頼人の利益であるか、決める最終的な権利は、依頼人にはなにひとつないのですか?」
「・・・・・」
「力の前に屈し、あきらめ、逃げることが、私の利益だというのですか?」
吉田は首をふった。
「そうではありません。今は耐える、ということです。絶対にあきらめずに、事を改めるためにこそ、待つということです。」
「きれいごとです。」
依頼人は、数秒間うつむいたあと、立ち上がった。
吉田は、続いて立ち上がり、頭を下げた。
「ご希望に添えないこと、申し訳ございません。」
「もう、結構ですよ。お引き取りください。解約の件は、了解しました。」
「・・・・はい。」
玄関で吉田が再度一礼し、ドアを開けたとき、最後に依頼人は低いかすれた声で言った。
「阪元探偵社さんだけが、頼りでした。とても、残念です。」
依頼人の自宅を後にした吉田を待つ軽自動車は、一つ筋を入ったところで停まっていた。吉田は、いつもその運転席にいた部下が、今は数十キロ離れた山中でどういう状態でいるかを、想像することを半ば自分への鎮静剤のように繰り返していた。
運転席から、板見が降り、吉田のほうへ歩き近づいていく。
「吉田さん、・・・大丈夫ですか?」
「お客様は、解約に同意くださった。大丈夫よ。」
「いえ、吉田さんのことです。顔色がとてもお悪いので。」
「ありがとう。貴方こそ、夕べろくに寝てないのに、迎えに来てもらうことになってしまって、ごめんなさいね。」
二人を乗せた軽自動車は、朝の住宅街を静かに発進する。
吉田は、低くため息をついた。
「お客様は、解約には応じられたものの、ご納得はされなかったのですね?」
「ええ。とても、失望しておられた。」
「・・・・」
「それは非常に、もっともなことでもあるわ。非常に。」
「・・・・」
しばらくの間、沈黙が続く。
やがて吉田が、声の調子を変えた。
「和泉の様子は?」
「落ち着いています。今朝、自宅へお送りしました。吉田さんのご指示どおり、今日は自宅待機しています。」
「血液のこと、彼女には教えていないわね?」
「はい。」
ターゲットの車に残されていた血は、大部分、酒井の血液型と一致していた。
「まだ発見されていないのね。」
「はい。ターゲット側の刺客も・・・。酒井さんも・・・。」
吉田は、助手席の背もたれを少しだけ倒し、天井を見上げた。
「・・・社長は、第二のエージェントの選定を既に終えられた。いつでも、送り込めるそうよ。」
もはや希望がまったくないかのような言い方をする吉田の言葉に、板見は声が出なかった。
「吉田さん・・・・」
「うちのエージェントの殺害を図った人間たちが、もしもまだこの世にいるなら、絶対に逃がさない。そしてもしも第二のエージェントがしくじるようなことがあったら・・・」
「・・・・」
続きを、しかし吉田は言わなかった。
板見は、吉田が窓の外に目をやったのがわかった。
「この先、また我々は、ルール・Cが適用になるような、不確実性の高い案件を担当することが、きっとあると思う。」
「はい。」
「条件に合意するかどうかは、それぞれのエージェントの自己判断に任されている。」
「はい。」
「だから、これは、私からの命令ではなくて、お願いよ。」
「・・・・?」
ゆっくりと息を吐き出し、吉田は言った。
「貴方は、そういう話が来ても、断ってほしい。」
「・・・・・」
沈黙が数秒間続いた。
「・・・すみません。吉田さん。それは、できません。」
「・・・・・」
「俺は、うちの探偵社が仕事を続けるためには、自分の命より優先させるべきものがあると思っています。だから、俺にもその機会が訪れたなら、必ず、受けます。」
「・・・・」
「酒井さんと、それはまったく同じです。そして・・・」
吉田は黙ったままだった。
「・・そして、和泉さんも、昨夜、おっしゃっていました。今回は酒井さんに助けてもらった。でも次のときは、自分も必ず、責務を全うする、と。」
窓の外を見たまま、吉田はじっと動かなかった。
次第に高くなる太陽の光を背に、軽自動車は街の中心にある高層ビル街へ向かい走り続けた。
警備会社である大森パトロール社は土日夜間も関係なく業務が行われているが、身辺警護部門の事務所は日曜はやはり人が少ない。どの席にも人がいない事務室の、しかし奥の応接室だけは使われており、波多野営業部長の叱責の声が部屋の外まで響いている。
茂が、さっきからかなりの時間、たっぷりと波多野にお灸をすえられていた。
「お前、自分の命がいくつあると思ってる?」
「・・・・・すみません・・・・」
「まあ、止められなかった月ヶ瀬も問題だが、勝手に月ヶ瀬のもとを離れて勝手な行動に出たお前を、あいつが助けなかったら、今頃お前の葬式に出てなきゃならなかったかも知れん。」
「・・・・はい・・・・」
「自分の身だけじゃない。先輩警護員の生命も危険に曝したんだぞ。わかってるか?」
「・・・はい・・・」
波多野はソファーの背にもたれ、ため息をついた。
「・・・確かに、人命救助は大事なことだ。それが間違っているとは言わない。が、自分の実力を考えて、できる範囲のことをしろ。身の程を考えろ。」
「はい・・・」
「いやなんだよ。」
微かに、波多野の声の調子が変わったことに気が付き、茂は目の前の上司の顔をはっとして見つめた。
「・・・・」
「いやなんだよ、・・・もう警護員が・・・命を落としたり、死の淵に立ったりするのはね・・・・。」
「波多野さん・・・・・」
茂は、目の前に、波多野の記憶の光景がよく見える気がした。月の光の下、ガラスの破片の飛び散る窓から、飛び降りた犯人を助け共に転落した葛城。極寒の海上で、襲撃された被害者を助けようとして、甲板から海へと転落した朝比奈。・・・そして、クライアントが犯人から逃げる時間をつくるために、自らの胸へナイフを突き立てることを厭わなかった高原。
「本当に・・・すみませんでした。」
波多野は背もたれから体を離し、よいしょ、と掛け声をかけながら立ち上がった。
「よし、もう十分反省したな?」
「はい。」
「じゃあ今日はこれでいい。今日の警護もキャンセルになったことだし、家でゆっくり休め。」
「はい。・・・・あ、あの・・・」
茂は自分も立ち上がりながら、波多野を呼び止めた。
「なんだ?」
「月ヶ瀬さんは、やっぱり、もう二度と俺とペアを組んでくださるのはイヤだとおっしゃってたですよね・・?」
茂の顔をしげしげと見ながら、波多野は少しゆるんだ顔になって、腕組みをした。
「ああ、当然だ。そう言ってたよ。命がいくつあっても足りない、とな。」
「・・・・」
波多野は茂に背を向け、応接室のドアへ向かって歩き出す。
「ただし」
「・・・?」
「また機会があったら、お前と月ヶ瀬を、組ませるつもりだ。」
茂は波多野の背中へ向かって頭を下げた。
「ありがとうございます・・・!」
事務所の入っている古い高層ビルの前で軽自動車を降り、吉田は板見をそのまま帰宅させた。
事務室に入った吉田は、カンファレンスルームの中にいる人物が目に入り、やや驚いて足早に自分もその部屋へと足を踏み入れた。
深いエメラルドグリーンの目を部下に向け、振り返った阪元の表情に笑みはなかったが、穏やかだった。
「お客様は、お怒りだった?」
「はい。」
「おこがましい、とか言われた?」
「はい。」
吉田に、テーブルに向かう椅子に座るように言い、逆に阪元はゆっくりと立ち上がった。
「このあいだ、知人から上等のコーヒー豆をもらってね。君も飲むよね?」
「・・・ありがとうございます。」
阪元がコーヒーセットを手に戻ってくるまでの間、吉田はカンファレンスルームの巨大なガラス窓から、眩しい太陽に照らされた下界の街並みのほうを向き、しかしどこも見ずに、じっとしていた。
テーブルの上で慣れた手つきでコーヒーを淹れ、阪元は部下のほうを見ずに言葉を出した。
「我々、本当に、散々だよね。酷い結果になった。」
「はい。」
「エージェントはいまだに行方不明。仕事は仕事で、頓挫し、お客様の満足には程遠い状態。希望もなにもないと、思う?・・・恭子さん。」
「・・・・」
「これは、掛け値なしの、私の本音と思って、聞いてくれるかな?」
美しい磁器のコーヒーカップが、吉田の前に置かれた。
「はい。」
「・・・守っているだけでは、いつか、行き止まりだ。次のステージへ、踏み出すことが、何かを続けるために避けられないことが、ある。そして、踏み出すとき、一度色々なものが壊れる。そういうことが、あるんだよ。」
「・・・・。」
「痛みを伴うことだけど。そういうことが、あるんだと、私は思っている。」
「はい。」
吉田の声が、喉につまるような色を帯びた。
「結果は結果だ。天に祈ろう。」
テーブル脇の椅子のひとつに、阪元も座り、背もたれに体を預けた。
太陽は、正午の高みに向かい、空を上り続ける。
阪元が二杯目のコーヒーを淹れたとき、吉田の携帯電話が鳴り、阪元にことわって吉田は応答した。
「はい。・・・」
吉田のほうを阪元が一瞥する。
「そう。わかった。ありがとう。」
電話を切り、吉田が阪元の顔を見た。
その目は、真っ赤になっていた。
「見つかったんだね?」
「はい。酒井が、発見されたそうです。」