四 ルール
遊歩道への入口近くで、車道から脇の雑木林へ車を急カーブさせて侵入させ、酒井は車を停めた。服を引き裂いて左腕に巻き付けた結び目を、口と、大型ナイフを持った右手とを使って再度きつく縛る。かなりの血が布と袖を赤く染めていた。
次にその右手のナイフを隣の助手席のほうへまっすぐに向けた。
「いつまで気絶したふりしてはるつもりですか?目的地に到着しましたんで、降りてください。」
助手席の、体格のよい男が酒井のほうを見て、ゆっくりとドアに手をかける。
「データ盗りにきた小娘ひとりに、プロ級の腕っ節の男ふたりも送りこむって、頭おかしいんとちゃいますか、あんたたち。」
男が笑った。助手席のドアを開ける。酒井も後ろ手に運転席のドアのロックを解除し、ドアを細く開いて片足を外の地面につけた。
「見せしめは確実にやってこそだ。経費をかけてかけすぎということはない。それから・・・」
酒井が気配に気づいて振り向いたとき、ドアを大きく開いて背後から襲いかかったもう一人の男が、既に酒井の首にロープを回し締め上げていた。
「・・・それから、ふたりじゃない。三人動員している。」
酒井の手からナイフが落ちた。助手席の男がそれを拾い上げる。
「これは返してもらう。高級なナイフだ。腕だけじゃもったいない。今度はこれで致命傷を負わせてあげよう。まずは・・・」
男は酒井の体から通信機器をはぎ取りナイフで破壊した。
茂の運転するオートバイが山道を登り、少し離れてもう一台、月ケ瀬のオートバイが追走している。茂のオートバイの後ろにはヘルメットを被った和泉が乗っている。
和泉が、エンジン音の中とぎれとぎれに聞こえる声で、茂へ話しかける。
「・・・河合さん、どうして・・・」
「・・・?」
「どうして、助けてくださるんですか?私は、いえ、私たちはこれまで貴方たちに・・・」
茂の、和泉より少し濃い茶色の髪が強い風を受けて、和泉のヘルメットのゴーグルをかすめる。
「命を狙われている人は、助けます。」
「私が、貴方を害さないという確信があるのですか?」
「・・・ないです。」
和泉は沈黙した。
ぎりぎりとロープを締め上げる背後の男は、しかし酒井の意識を失わせることを急がなかった。
酒井は辛うじてまだ声を出せる時間をぎりぎりまで使おうとするかのように、言葉を出す。
「こういうことを、これからも繰り返すことになりますよ、あんた方・・。今回はデータを盗られずに済んでラッキーやったかも知れんけど、また次の者が・・・さらに優秀な者が、行くでしょう。」
助手席の男はあざ笑うようにナイフをさらに酒井の胸に近づける。
「この期に及んで口の減らないやつだ。お前の死体は、業界全体への見せしめになる。心配するな。」
「・・・恐怖じゃ、人は、短期的には止められても長期的には止められませんで。」
「お前の命はあと数秒だ。ひとつだけ機会をやる。お前の、組織名を教えろ。」
「・・・・」
「お前がどこから送り込まれてきたか、教えろと言っているんだ。」
「お断りします。貴方がたがどこの人か、こちらは分かっていますんでね。名乗るメリットが特にないんですわ。」
「組織のために喜んで死ぬか?無意味なことだ。」
酒井はほぼ血の気を失いつつある顔に、穏やかな笑みを浮かべた。
助手席の男がナイフを逆手に持ち替えたとき、酒井の右足がクラッチとアクセルへ、右手がトランスミッションへ滑るように伸びた。
バックへ急発進した車から、男が酒井を引きずりだそうとして逆に運転席へ引き込まれ、車道側へ飛び出す直前に急停止した車の中で、何かが激突する鈍い音がした。
二台のオートバイが山頂付近の、湖を臨む遊歩道の入口に到達したとき、左右の暗い林に囲まれた車道は沿道の僅かな照明の下、車一台通らない茫々とした静けさを保っていた。
しかし和泉はすぐに、斜め前方の林の中から車体後部を僅かに車道寄りに覗かせている、一台の車を発見した。
「あれです。」
和泉が降りて近づこうとしたのを茂は引き留め、少し離れた位置からオートバイのヘッドライトで車を照らした。
車内は無人だった。
ヘッドライトの角度を固定してオートバイを降り、茂は先に立って車へ向かった和泉に続く。
ドアは助手席も運転席も大きく開いている。そして車内は、助手席も運転席も、ほぼシート全面が血液で真っ赤に染まっていた。
「・・・・・・!」
ヘルメットを被ったままの和泉がかすかによろめき、茂が後ろから駆け寄って支えた。周囲を見渡すと、車の周辺に血痕が残っていたが、少し離れたところで消えていた。
「これは・・・」
「・・・ルール、C・・・。」
「えっ?」
和泉はヘルメットを脱いで茂へ返した。再び車のほうを向き、両手で顔を覆って数秒間うつむいていた。
茂はなにも言えず見守る。
再び顔をあげて振り向いたとき、和泉の目は真っ赤だったがその表情はすでに驚くほど落ち着いていた。
「会社へ、連絡します。安心してください、助けてくださった貴方がたには、危害行為はさせません。」
和泉は通信機器のスイッチを入れ、応答があった相手に、低い声で現在の状況と自分のいる位置とを伝えた。
その後、坂の下から和泉を迎えに軽自動車が近づいてくるまでの三十分少しの間、三人はその場で待った。
軽自動車が接近すると同時に、月ケ瀬がオートバイのエンジンをかけ、茂と和泉のほうへ数歩近づく。
和泉はその意味を理解し、茂の顔を見て微笑む。
「・・・河合さん。本当に、ありがとうございました。うちの会社の、他の者とお顔を合わせるのはよくありません。これで、お帰りになってください。」
「大丈夫ですか?」
「河合さんは、優しいかたですね・・・いえ、優しすぎるかたですね。貴方の仲間を、我々は殺そうとしたこともあるんですよ。」
「・・・・」
「貴方達のやっていることを、正面から否定しているのが、我々のやっていること、と言ってもいいです。それを・・・」
「俺には、わかりません。」
「え・・・?」
「俺たちのしていることや、貴女たちがしていることが、どこが否定されるべきで、どこがそうじゃないか、とか・・・。そういうことは、俺には分かりませんし、決めることもできません。でも・・・」
和泉は充血したままの、淡い褐色の大きな両目で茂を見た。
「・・・でも、貴女を見ていると、つらいです。人のために、法を犯す仕事をしているのは。見ていてつらいです。」
「・・・・・」
後ろから月ケ瀬の声がした。
「河合さん。行くよ。」
茂は振り返り、うなずいた。
月ケ瀬が踵を返し、自分のオートバイへと歩き出す。茂は和泉の方を振り返る。
「気をつけて、和泉さん。」
「・・・ありがとう、河合さん。」
和泉は頭を下げ、再び茂の顔を見た。
「もうこの先、こんなふうにお話しすることはないでしょう。次にお会いするときは、また、違う方向へ向かった仕事で、河合さんたちの行く手を阻むことになるでしょう。」
茂は眼を伏せ、うつむく。
「さようなら、河合さん。」
和泉が右手を差し出す。茂が応じて右手を出し、握手をしたとき、羽根がかすめるかのように、和泉の左手が茂の右ほほに、和泉の唇が茂の唇に、微かに触れた。それは、ほんの一瞬のことだった。
和泉が背中を向けたとき、茂は、自分の頬に和泉の涙の滴が残っていることに気がついていた。
カンファレンスルームで、吉田は一人、通信機器の先の部下の報告を聞いていた。
「和泉に怪我はないのね?」
「はい。データファイルの入った媒体も無事です。」
「ターゲット側の車内に、ほかに残留物は?」
「特にありませんでした。補助要員が、何カ所かから血液は採取しました。」
「わかった。・・・・板見。」
「はい。」
「こちらから連絡しておくから、帰り、念のため和泉は病院で診察を受けさせてちょうだい。」
「わかりました。」
「一晩入院させてもらって。そして貴方が、ついていてくれる?」
「・・・了解しました。」
通信を切り、吉田はテーブル上の電話から別のところへ電話をかけた。
コール二回で相手が出る。
「吉田です。」
「・・・恭子さん、酒井は絶望的なのか?」
「・・・・・」
「君の声で、わかるよ。」
「申し訳ございません。」
「責任は、私にある。君が詫びることはない。」
数秒間の沈黙があった。
再び、阪元が話す。
「恭子さん、酒井は有能なエージェントだ。さすがの私も、正直、揺れている。」
「・・・・」
「ルール・Cを、破棄したくなるよ。」
「それは、絶対にしてはならないことです。彼が有能であるからこそ、です。」
「そうだね。」
吉田は天井を仰いだ。
「恐らくターゲット側は二名で酒井を最終的に襲撃したと思われます。そして酒井を含む三人のうち、まだ誰も発見されていません。」
「酒井が殺されている場合・・・。相手側が生きていることが分かった瞬間に、我々は第二のエージェントを送り、必ずそれらを殺害する。」
「はい。」
「酒井が死んでいないが負傷している場合・・・。相手側が死んでいたら、酒井は救援を頼むだろう。酒井がそれをしないのは二つの場合だけだ。相手が生きているとき。または、呼びたくても呼べない程度の重傷を負っているような場合だね。」
「・・・その場合・・・・」
「そう、それがルール・C。相手側の死亡を知るときまで、我々は、酒井を捜索したり救護したりしない。」
「そうです。」
「我々のエージェントの殺害を図った者は、我々が必ず殺害する。もちろん密かにね。そのことはどんなことよりも、優先して遂行する。だからそのために、第二のエージェントの活動に、第一のエージェントの捜索・救護活動が障害となる限りにおいて、その捜索・救護活動は実施しない・・・・。この想定において、仕事に入る前にエージェントと会社とで合意しておく。酒井は、確か、最終的に和泉についてはその合意を無効にしてほしいと願い、君に許可されたんだね。」
「はい。酒井が、和泉については、万一のときも、殺害を図られる前の段階で守るという、約束の上でです。」
電話機の向こうから、阪元のため息が聞こえた。
「ルール・C。・・・・必ず報復する。阪元探偵社存続のための絶対的なポリシー、か。」
「また、お客様が特定される恐れを減少させることにもなります。」
「そうだね。」
「はい。」
「恭子さん、君は、よく頑張るね。」
「・・・・」
阪元の声の調子が少し変わっていることに、吉田は気が付いた。
少したってから、阪元は、別の話をした。
「それで・・・・恭子さん。もう一つ、私に報告か相談かをすることが、あるよね?」
「・・・はい。」
「今、話せる状態なら、聞くよ。」
「はい。」
吉田は数回、息を整えるように、呼吸をしてから、言った。
「今回・・・ターゲットとしたあの企業の送り込んだ刺客の、量も質も予想をはるかに超えていました。今回の、お客様のご依頼は、ここで継続を見合わせたいと思います。」
「・・・そうだね。中止、だね。」
「はい。お客様ご依頼の仕事を継続した場合、将来のお客様の身に危険が及ぶ可能性が高い上に・・・お客様が再起を図っている業界全体にも不利益が生じる恐れがあります。」
「ターゲットの企業の力が非常に強くて、そしてそれに抗うだけの意思も力も、まだ業界の各社には、ない。我々も、お客様に一生ついて守るわけにもいかない。」
「・・・はい。」
「このことが、はっきりわかったね。今回のことで。明日、お客様には説明しよう。幸い、ターゲット企業は、和泉がデータをまだ持ち出していないと思っているようだしね。」
「・・・申し訳ございません。・・・この仕事は、社長がおっしゃったとおり・・・無謀でした。わたくしの責任です。」
「・・・確かに、少し無謀だった。そしてそれは、許可した私の責任だよ。」
「それは・・・」
阪元の声の調子は曇っていたが、吉田の声はほぼ聞き取れないほどの低さになっていた。
「大丈夫?恭子さん。」
「・・・・」
「酒井のこと・・・・」
「・・・・・」
「過度に責任を感じているよね?きっと君は。」
吉田は答えない。
「それは、間違った責任感だよ。それだけは、言っておくよ。」
ふたたび、吉田の答えはなかった。