三 襲撃
カンファレンスルームの扉が細く開き、光が漏れている。
背のあまり高くない、しかしまっすぐに背筋が伸びた折り目正しい姿勢の男性エージェントが、扉をノックしすぐに部屋へ入っていく。
テーブル上のスピーカーに耳を傾けていた吉田は振り返り、部下の大きな宝石のような両目を見返した。
「板見、ありがとう。音声は良好だわ。」
「・・・いえ、すみません、俺がまだ前線復帰できないばかりに、和泉さんに負担を・・・。」
「それは仕方がない。私も、そして社長も同じ考えだもの。お前は次の仕事からまた大いに体力を使ってもらうから。」
「はい。」
「それに和泉にやれる案件だからこそ、補助要員も今回は本来はなし。でも酒井はつけたけどね。」
テーブルの前の椅子を勧められ、板見は座って自分もスピーカーの音声に耳を傾ける。まだ和泉からの報告はない。
「人の大勢集まるイベントの最中に、最後の情報を引き出して持ち出す、というのは、やりやすい反面・・・・リスクも高い。」
「ターゲットの企業が人を送り込んでいた場合、ですね。」
「そう。本当は、もっと、ターゲットの力を試してからが良かったとは思っている。」
吉田が、自分の準備が不足しているかのようなことを言うのを、板見は少し驚いて聞いた。それは、吉田がそういうことを滅多に言わないからだけではなく、酒井が板見に、吉田がそう言うだろうと予言したとおりのことだったからだ。
「吉田さん・・・・。出かける前、酒井さんがおっしゃっていました。吉田さんの気のすむまで準備してたら、今回のケースは実行が百年くらい先になるって。」
目を少し丸くし、そして苦笑しながら吉田は板見の顔をもう一度見て、そして目を逸らした。
「酒井はどうでもいいときに、妙に温情を見せる。・・・ただ、あれと意見が確実に一致した点は、お客様の会社を倒産に追い込んだ、業界を牛耳っているあの会社に、何らかのダメージを与えること、それだけを今回はやるし、それだけでいいということ。」
「はい。」
「それは、お客様の復讐心を満たすだけではなくて、再起への一歩を助けるものになるだろうということ。」
「業界そのものの、改善への一歩になるということですよね。」
「そう。あの会社の不正を、明るみに出すことが。ただし、ターゲットは、やくざのなれの果てみたいな会社だから、抗うためにどの程度の暴力を使ってくるものか、予想しきれていない。」
「そうですね。」
吉田は窓の外の夜空をちらりと見た。反射する部屋の光景の隙間から、星が微かに見える。
板見は、吉田がまるで吉田自身に言い聞かせ、説得しているような言い方であることが、気になった。
「単純な仕事なのに、不安だ。」
「吉田さん・・・・」
「ごめんなさいね。私がこういうことを言ってはいけないのだけれど。」
板見は、吉田の不安の残りの理由がわかっていた。
「あの、吉田さん」
「・・・なに?」
「今回は、ルールCが適用になる。そのことはわかっています。でも、もしもターゲットが和泉さんか酒井さんに気付いて、そして最悪の展開になったとして・・・適用を外すという選択肢はないのでしょうか?」
「前提条件が変わらない限りは、ない。だからこそ、事前に担当エージェントと合意しておくのよ・・ルールCはね。」
板見の視線を受け止めて吉田は表情をことさらに和らげてみせた。
ちょうど一週間前に来た同じ場所に、同じ時間帯に到着した茂は、タクシーから降りたクライアントを追ってホテルロビーに入った。茂のバイクと自分のバイクの二台を押して月ヶ瀬が駐車場へ向かっている間に、茂はロビーの定位置につく。
森と湖を背にした近郊型高級リゾートホテルは、プールサイドのカフェバーも、ロビーのラウンジも、そしてラウンジに隣接してガラスの壁際につくられたレストランも、夕暮れ時を迎えほぼ満席だった。ライブ演奏が始まると、ロビーを通行する客たちも多くが足を止める。
茂は立ち見客を装いながら、フロントとレストランの中間あたりに立ち、背中を向けてテーブル席に座っているクライアントやその周辺に目を配る。
クライアントへのアクセスはほぼ全方位から可能であるし、普段会社と家の往復ばかりしているクライアントを、襲撃するとしたらこの機会が狙われやすいのは確かだろう。
しかし、プロの組織的な犯罪ならいざ知らず、素人の、個人が実行することである。いくら未熟者とはいえ一応プロの警護員である茂の目を盗み、襲撃し、そして逃げることは不可能に近い。もちろん、犯人自身が逃げられない覚悟でやるならば襲撃は可能かもしれない・・・もしも警護員が茂ひとりならば。しかし今回は月ヶ瀬もいる。
ヘッドフォンから月ヶ瀬の声が入り、振り返ると月ヶ瀬も定位置についていた。
クライアントとその婚約者の食事が始まり、茂は、こちらを向いて座り楽しそうに話しているあの女性は、自分の前にこの男と交際していた女性がどうなったか、知らないはずはないのにと、その笑顔が不思議でならなかった。
さらにクライアントから、プレゼントのようなものを渡されている。今日は何かの記念日らしい。茂は聞いていなかったが、多分女性の誕生日かなにかだろう。
メインディッシュの皿が下げられてしばらくして、クライアントがポケットから携帯電話を取り出して耳にあてた。電話がかかってきたようだ。
そしてそれとほぼ同時に、デザートらしい、小さいが華やかに飾られたホールのケーキが、運ばれてきた。
「バースデーケーキまで・・・。呑気なものだなあ。」
茂がため息をついたとき、クライアントがこちらを振り返り、おもむろに茂に向かって手招きした。こちらへ来い、というのか。
「?」
ロープロファイル警護をしている警護員が、警護員自身の判断ではなく、クライアントの指示で動くことはありえないし、そのことは説明してあるはずだ。なにか非常事態なのかと、茂はクイアントのほうへ歩きだそうとしたとき、ヘッドフォンから月ヶ瀬の声が入ってきた。
「行くな、河合さん。」
「え・・・」
「クライアントは犯人の指示を受けてるよ、たぶん。」
「・・・で、でももしも犯人から電話があったら答える前に警護員の指示を仰ぐ約束です。」
「そんなこと守る人物じゃないよ。ロープロファイルの警護員を呼ぶこと自体、すでに約束違反じゃない?」
「・・・・」
茂は手招きに応じず、動かずにいた。
何度手招きしても茂が来ないので、苛立った様子だったクライアントは、しかし再び携帯電話のコール音に反応し、電話に出た。
電話を切ったクライアントは、もう茂のほうは見ようとしなかった。
しばらくして、女性が立ち上がり、女性用の化粧室のほうへと歩いていった。
その直後、クライアントが立ち上がり、脱兎のごとくレストランのエリアから走り出た。
「えっ・・・・!」
茂がその後を追うより早く、月ヶ瀬が滑らかに体を翻し、クライアントより先にその目的地へ到達していた。
レストランから二〇メートルばかり離れたロビーの一角の大きな柱の前で、目の前の襲撃犯と対峙した月ヶ瀬は、顔を覆って流れる艶やかな黒髪をかき上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「うちのクライアントになにか御用ですか?お兄さん。」
「・・・・どうして、わかったんです・・・?」
クライアントから提供された、自殺した女性の兄の写真と同じ容貌の、若い男性は、信じがたいという顔で月ヶ瀬の冷たい両目を見つめている。
月ヶ瀬の後方では、そこまで走ってきて男性を見つけ、立ち止まったクライアントが、茂に追いつかれていた。
「電話で、うちのクライアントに・・・テーブルかどこかに、遠隔操作できる爆弾でも仕掛けたとか、言ったんでしょう?で、最初は、警護員を身代わりにすればお前は命は助けてやるって、言ったんじゃない?」
「・・・・・!」
「でもそれはうまくいかなかったよね。で、プランB。もう思いっきりフルバージョンで爆発させちゃうけど、あの柱まで逃げてごらん、とか。そんな感じかな?・・・いずれにせよ、貴方の目的はただ一つ。どこにいるかわからない警護員を見つけ、そしてさらにできるならば、なるべくクライアントを引き離すことだったんだろうね。」
外のプールから聞こえてくるライブ演奏は、さらに盛り上がり、ロビーの増える立ち見客たちも熱気を帯びている。
「・・・・・でも、ここへ来させるっていうのは、どうして・・・」
「レストランのあのテーブルから見えて、なおかつフロントから死角になっているのは、ここだけだからね。・・・さて、そんなものを持ってると、危ないよ。」
男性の右手の長袖の袖口から刃物の先が覗き、かすかに光っていた。
男性は、月ヶ瀬の顔を正面から見て、一段低いトーンになった声で、絞り出すように言った。
「妹はあの男のために料理教室へ通ってた。捨てられ、自殺したとき、妊娠してた。」
もう一度月ヶ瀬のほうを見て、そして一歩前へ踏み出した。
ナイフの刃が、煌めいた。月ヶ瀬は、正面から男性の前に立ちふさがるようにその進路を阻んだ。
袖口から刃先を出し構えてこちらへ向かってくる男性の、鳩尾に、月ヶ瀬の右足蹴りが飛んだ。
体を折った男性に、さらに月ヶ瀬は右手の手刀で、相手の顔を右頬から払うように強烈な一撃を加えた。
「・・・・!」
クライアントの傍で、茂は息を飲んで目の前の光景を見ていた。
折れた歯が軽い音をたてて床を転がっていった。男性はそのまま床にうずくまった。
茂は、月ヶ瀬の様子が終始まったく変わらない冷え冷えとしたものであることに戦慄した。しかもなぜ腹と顔を。この場合、刃物を持った手を蹴れば十分なのではないか。
月ヶ瀬はホテル従業員に声をかけた。大森パトロール社の身分証を見せる。
「私はあのクライアントの契約ボディガードですが、この人がうちのクライアントを襲いましたので防衛しました。警察を呼んでください、なにかあればここへご連絡ください。」
名刺を手渡す。従業員がフロントのほうへ走っていく。
「行きますよ。帰りの警護は、いたしますか?」
「・・・・いえ、いいです・・・。あの、彼女がまだ化粧室にいるんで、電話して出てくるように言ってもいいですか?」
「もちろんいいですよ。」
電話するまでもなく、待ちかねたように向こうの化粧室のほうから婚約者の女性が出てきた。茂はこっちですよと手招きしつつそちらへ少し歩く。
柱の陰から出た茂の視界に、フロントデスクの女性が入った。
それは明白に見覚えのある女性だった。
フロント係の制服を着た和泉の目の前に、一人のスーツ姿の男性客が立った。そして、他の従業員の視線が一瞬逸れた短い間隙を突いて、左手で和泉の右手首をカウンターの上で素早くつかんだのが、フロントを見つめる茂の視界に入っていた。
和泉の手首をつかんだ客が、次に右手で光る刃先を飛び出させた黒いペンを逆手に持ち替えたとき、月ヶ瀬も、茂が何を見ているのか理解した。
ペン型のナイフが突き出されたと同時に、和泉がその刃先を避けながら、カウンター上のスタンドの電球を相手に向けた。
相手がひるんだ隙に、和泉は手首を振りほどいて、後ろの従業員用出口から走り去った。
男は、和泉がどこへ向かうか知っているかのように、フロントから離れロビー奥の通路へ向かう。
茂は月ヶ瀬を振り返り、言った。
「すみません、知り合いの人が暴漢に・・・俺、救護します!クライアントお願いしていいでしょうか?」
月ヶ瀬が答える前に、クライアントを月ヶ瀬の前に残して茂は走り去っていた。
「はあ・・?」
月ヶ瀬はあきれて一瞬とまどったが、すぐにクライアントとその婚約者とをホテル前のタクシー乗り場からタクシーに乗せた。
「では、ここで今日の警護は終了させてもらいます。お気をつけて。」
タクシーが行ってしまうのと同時に、月ヶ瀬は走った。
従業員用駐車場に先回りしたスーツ姿の男性は、和泉が建物から出てくるのに少し時間を要していても、その扉から彼女が出てくるのを微塵も疑っていないようにその場を動かない。
茂は気取られないよう距離を空けて様子を見守った。後ろに気配を感じて振り向くと、月ヶ瀬が立っていた。
月ヶ瀬の顔は、ついさっき、眉ひとつ動かさずに襲撃犯を打ちのめしたときとはまったく異なる、不快感とめんどくさそうな色に満ちている。
茂は声を出さずにしぐさで詫びた。
和泉が出てきたとき、茂と月ヶ瀬は二手に分かれ、月ヶ瀬がスーツの男性に後ろから飛びかかり、うつぶせに押し倒してスリング・ロープで拘束した。茂は和泉のほうへ走った。が、茂が到達するより早く、一台の乗用車がその前に立ちふさがるように急停止し、運転席の扉が開いた。
運転席から降りてきた体格のいい男は、しかし和泉に襲い掛かる前に、気配もなく立ちふさがった長身の男性に襟首をつかまれ、今降りてきた車の中へ再び無理やり乗り込まされた。
酒井は車内へ押し戻した大柄の男性へ右足蹴りの一撃を加え、さらに助手席まで押し込むと、自分が運転席に乗り込み車を発車させた。
「酒井さん・・・・!」
和泉が叫んだ時、初めて茂は、車が発車した後の地面に、赤く大きな血痕が残っていることに気がついた。
月ヶ瀬が、車が走り去った方角を見つめて、言った。
「車から降りてきた体格のいい奴、すごいサイズのナイフ持ってたよ。そしてあの背の高いお兄さん、もみ合ったとき刺されてたね、間違いなく。」
「・・・・!」
見ると、スーツの男の姿はすでにない。
「月ヶ瀬さん、あの男は・・・」
「逃げたよ。」
「・・・」
「あいつを逮捕する権利も義務も僕にはない。それじゃ、帰るよ、河合さん。」
茂は黙っている。
月ヶ瀬は、茂のほうを向いて、少し苛立った様子で言った。
「・・・・僕は、君の警護員じゃないんだけど? これ以上、何をしたいの?」
「あの、この人をせめて少し安全なところまで、送りたいんです。」
「はあ・・・?」
「大丈夫です、河合さん。ありがとうございました。」
和泉は踵を返し、歩き出す。茂が、その腕をつかんだ。
「あの男がまだ近くにいるはずです。どこまで送ればいいですか?」
和泉はしばらくそのまま黙っていたが、やがて振り返った。
「・・・もしも、お願いできるなら・・・・」
「はい。」
「お願いできるなら、この上の森の、湖の散策路入口まで・・・・連れて行っていただくことはできますか?」
「さっきの車を追うんですか?」
「そうです。」
茂は一瞬ひるんだが、すぐに頷いた。
「わかりました。」
月ヶ瀬の声が飛ぶ。
「・・・河合さん。今の君が、どれだけ意味不明かつ危険極まりないことをしてるか、わかってる?」
「すみません・・・・。でも、もう警護業務は終わりました。これは俺の、個人行動だというわけには、いかないでしょうか?」
めんどくさそうな顔に、軽いあきらめの表情を混ぜながら、月ヶ瀬がその漆黒の目から視線を刺すように茂へ向けた。
「波多野さんには後で報告するけど、いずれにせよ、僕は君を無事に事務所まで連れて帰らないといけないのは確かだと思うから、おつきあいするよ。ただし・・・・最初で最後だよ。」
「・・・・」
「こんなことに僕がつきあうのも、それから、僕が、君とペアを組むのも、ね。」