一 疑問
大森パトロール社始まって以来のメンバーのうち、現役四人のうちまだ登場していなかった月ヶ瀬透警護員が、事実上初めて登場する回となります。ただし今回の主役は彼ではないのですが・・・。
街の中心にある高層ビル街の、古い一棟のオフィスビルで、個人の書斎のような社長室の扉がずっと閉じたままになっていた。
夕日が眩しいほど強くブラインドの隙間から事務室内を照らし、誰もいない机や書庫に複雑な図柄を描いている。
社長室の中からは小さく、音楽が聞こえていたが、事務所入口の自動ドアが開きひとりの女性が入ってきた気配とともに、その音は止んだ。
女性はそのまま事務室内を突っ切って早足に歩き、社長室の扉をノックする。中から、よく通る透明な男性の声で、入るよう返事があった。
「失礼いたします。」
「こんばんは、恭子さん。予定より遅くなったんだね。少し心配したよ。」
阪元探偵社の若き社長である阪元航平は、入ってきた女性エージェントのほうを笑顔で見ながら出迎えた。阪元が、明らかに白人の血が入っている異国的な顔立ちに深いエメラルドグリーンの目、金茶に輝く髪という容姿なのに対し、入ってきた女性は、どこから見てもまったく特徴のない人物だ。
「申し訳ございません。」
阪元は、吉田恭子に、部屋の中央にある小さな円テーブルを囲む六つの椅子のうちひとつを勧めた。自身も部屋奥の窓に向かってしつらえられたシンプルなデスクを離れ、吉田と向かい合って座る。
「・・・で、恭子さん。やっぱり今回の仕事、やりたいの?」
「はい。」
「お客様の会社はもう倒産してしまって、存在しないんだよ。」
「はい。」
「再起を期すなら、なおのこと、今回の依頼は両刃だよね。それに今回は・・・・事に比べて、情報がかなり足りない。」
「承知しています。・・それから、社長のご指摘どおりさらにもうひとつ、・・・これは小さなことですが、問題があるのも確かですし。」
「ああ、あの、君達が呪われているという、警備会社。なんか、同じ現場にやって来そうなんだってね。」
「・・・・・」
阪元はおかしそうに笑った。吉田は少し解せないといった表情で上司の顔を見る。
「あれから何度か、セーフだったのに、今回はまたニアミスなんだね。まあ、ここ最近話題の人気ホテルだから。でも、まあいいよそれは。いずれにせよ、君がやりたいと言うなら、私はとめないよ。」
「和泉は外しましょうか。」
「いや、ここまで準備したんだから、彼女にやらせよう。今回の仕事は危険だけど、彼女ももう次のステップへ進むべき時期だ。そしてたとえ、大森さんのところのボディガードたちと再会することになろうと、親の敵と再会することになろうと、仕事は仕事だよ。」
「そうですね。」
阪元は立ち上がって奥の小さなカウンターからコーヒーセットを持ち出し、テーブルの上に置いてふたつのカップにコーヒーを注いだ。その動作は、心もちゆっくりとして見えた。
「・・・恭子さん、今回私が本当に気になっているのは、一点だけなんだ。怒らないで聞いてくれるかな?」
「・・・?」
「ちょっとだけ、感染してない?大森パトロールさんたちの病気に。」
「え?」
コーヒーカップをソーサーに置き、阪元が吉田に差し出す。
「人をとにかく短絡的に守るという悪い行動に、さ。」
「・・・どういうことでしょう?」
「うちの会社は、お客様の利益になることをするけど、それは、お客様をよくみて、その状況を全部考え、判断している。その判断がある限り仕事をするし、少しでも危うければやらない。そういう、”慎重な判断による選ばれた仕事”が信条だよ。」
「・・・・・」
「そのことを、ほんの少したりとも、忘れたことはないとは思うけど。恭子さん。」
吉田は鼈甲色の縁のメガネの奥から、静かな視線を上司へ返す。セミロングの髪に縁取られたその顔に、表情の変化は読み取れない。
コーヒーを一口飲み、阪元はその上品な形のよい唇で、再び笑った。
「ごめん、余計なことを言ったね。」
「いいえ。」
窓の外には、かすかに月の影が浮かぶ夜空が満ちてきていた。
河合茂は、平日昼間勤める会社で、今日は仲の悪い同期の三村英一が有給休暇を取っていたため一日爽やかに過ごし、終業後、上機嫌で駅の反対側にある雑居ビルへ向かった。二階に入っている大森パトロール社事務所の、従業員用入口をカードキーで開けて入る。茂が土日夜間限定で警護員として登録している警備会社である。
事務室内へ入ると、先輩警護員の葛城怜が、自席から振り返った。
「こんばんは、茂さん。」
「こんばんは!」
葛城の笑顔を見ると、茂はこの世がいかに良いところであるかいつも再認識する気分になる。幸運な偶然から茂が警護でペアを組ませてもらえるようになった葛城は、男性とは思えないその絶世の美貌だけではなく、その性格も、この世の天使だと茂は認識している。
しかし葛城のいつも通りの笑顔に、少しだけさびしそうなものがあることに、茂は気が付いた。
「茂さん、今日は波多野部長から週末の仕事の話があると聞きました。」
「あ、はい、そうらしいです。」
そのとき、別の声が応接室から届いた。
「月ヶ瀬とペアなんだよな、河合。」
「えっ・・・」
茂が応接室のほうを見て驚いたのは、茂が尊敬するもう一人の先輩警護員の高原晶生が応接室を出てこちらへ歩いてきたからではなく、その後ろからやはり出てきた人物が、今日一日会わずに済んでほっとしていた人間だったからだった。
「げっ三村」
「げっとは何だ、お前の伝言をもらってまたお邪魔してるっていうのに。」
確かに以前茂は、大森パトロール社の茂の上司である波多野部長や先輩警護員の高原が、英一と仲が良いのに最近英一が事務所に立ち寄らないので、淋しがっていることを仕方なく伝えたことがある。
「そうだぞ河合、うちの大切なクライアント兼コンサルタントの三村さんに失礼はゆるされないぞ。」
高原が笑う。
高原と英一はいずれも百八十センチくらいの長身で、ともにすらりとした二人が並んで立っているとかなりの光景だ。茂は英一が高原となぜ仲が良いか百も承知だが、英一の、不気味なほど整った顔に浮かぶ皮肉な笑顔を見ると、つい反発心が沸き起こってしまう。
しかし尊敬する先輩警護員の高原の、メガネの良く似合う、知性と愛嬌が同居した目で見られると、やはり茂はこの世が本当に素晴らしい場所だと感じる。
英一を事務所出口まで見送り、戻ってきた高原は、さっきの続きの話を茂と葛城にした。
「波多野部長はたしかに前から、何かの案件で機会があれば、別の先輩警護員と組ませてみたいとおっしゃっていたけどね。」
「はい。今日は月ヶ瀬さんと一緒に波多野部長からお話を伺うことになってます。月ヶ瀬さんは、確か・・・」
「ああ、怜や崇や俺と同様、うちの会社ができたときからのメンバーだ。お前は今日初めて会うんだっけ?」
「月ヶ瀬さんを含めて、フルタイムの警護員さんたちは多分何度か事務所でお見かけしてるはずなんですが、全然顔と名前が一致してなくて・・」
「そうだよな。まあ大丈夫、あいつは一度見たら忘れないから。」
茂は少し不安そうな顔になった。
「そ、そんなに特徴が・・・?」
高原は少し笑った。葛城は黙っている。
「ま、百聞は一見に・・・」
噂をすれば、従業員用入口からどかどかと聞きなれた大きな足音がした。
事務室からの茂、高原、そして葛城の視線を受け、彼らの上司である波多野営業部長が入ってきた。後ろに、もう一人の人物を従えている。
波多野は茂を見て声をかける。
「おう、茂、すまんな待たせたか?透の別の案件で打ち合わせがあってな。やっと終わった。」
茂は波多野の後ろの人物を凝視した。
あれが月ヶ瀬透警護員。確かに前に事務所で見かけた気はするが、正面から見るのは初めてだと思った。
最初の一瞬、茂は、その人間がなんとなく葛城に似ていると感じた。
確かにそうだが、しかし同時に、まったく違う。
葛城や茂同様に、細身の青年だ。背丈は、高原ほどではないが、茂や葛城より少し高い。そして髪は長く、肩の下くらいまである葛城のそれよりさらに長い。そして同じ長髪でも、葛城の髪は自然にやや栗色がかっているが、月ヶ瀬の髪は艶やかな漆黒である。それは乱暴に切られ、無造作に額、頬、肩を流れている。
そして肌は葛城と同じくらい白く、むしろ蒼みがよぎっているほどだ。
その顔は、一瞬「美しい」という形容をしてしまいそうになるが、それをすぐに思いとどまらせるような、言いようのない冷たさがあった。
「透、茂、ふたりとも応接室へ来い。今度の案件の説明をする。」
三人が応接室へ入ってしまうと、高原は隣で黙っている葛城のほうを見た。
「怜、なんだか浮かない顔だな。」
「そんなことないよ。」
非常に浮かない顔をしながら、葛城は、応接室のドアから目を離さずに答える。
高原は優しい笑顔を同僚に向ける。
「心配するな、河合も大人なんだから、多少のことはちゃんと受け止めるさ。たぶん波多野さんは、お前と対極にあるガーディアンから、まったく別のことを学ばせたいんじゃないかな。」
「・・・・・」
この世ならぬ美しい両目を伏せ、葛城はまだ多少納得のいかない表情をしていた。
応接室で、波多野部長は改めて茂と月ヶ瀬を引き合わせ紹介した。
「月ヶ瀬、今回初めて面倒みてもらうが、よろしく。河合茂警護員だ。そろそろ新人と言えない程度の回数の経験は積んでいるが、技術はまだまだだ。本格的な単独案件に今回はふさわしいと思ったが、若干難易度が高いことが分かったんで、お前に周回警護のサポートに入ってもらうことにした。」
「わかりました。」
「茂、月ヶ瀬透警護員、・・・うちの有能なガーディアンのひとりだ。よく学ぶんだぞ。」
「はい。」
三人はソファーに座り、波多野が茂と月ヶ瀬に書類を渡す。
「明日、明後日とかけて事前準備をすること。警護は日曜日から次の日曜日まで、八日間。平日は勤務先から自宅までの帰宅時の移動時警護、日曜二回と土曜一回は自宅と外出先との往復の移動時警護だ。終了は次の日曜。もちろんロープロファイルだ。担当警護員は基本的には茂ひとり、つまり単独での警護だが、月ヶ瀬が全行程で周回警護にあたる。」
「はい。」
「下見と事前準備も茂の単独作業だが、月ヶ瀬は前日の土曜の下見に同行して、あとルートマップのチェックもしてくれ。」
「了解しました。」
書類にざっと目を通し、月ヶ瀬がうつむいたまま質問した。
「警護期間は、クライアントの・・・警護対象の結納の日までということなんですね?」
「ああ。そして犯人と思われる人間は、クライアントの前の交際相手で先月自殺した女性の、兄だと思われる。」
「・・・・」
「脅迫は・・・」
「電話で二回あった。警察にも届けてあるそうだ。犯人は名乗っているわけではないが、クライアントは犯人の声を覚えている。」
「難易度が高い、というのは?」
「・・・結納の前日の土曜日、婚約者とどうしても二人で外出し食事をしたいというんだ。今話題の○○ホテルの、ロビーイベントで。」
茂はあきれた。
「そんな、わざわざ危険なことを・・・・」
月ヶ瀬は伏し目になりくすくす笑った。
「これは茂ひとりじゃ無理だ。で、お前のサポートを頼むんだが、せっかくだから一週間一緒にやって、先輩として指導してやってもらえたらと思ってな。」
三人での話を終えて波多野が帰った後、茂は月ヶ瀬とさらに書類を挟んで細々とした打ち合わせをした。
話しの間じゅう、ほとんど月ヶ瀬は艶やかな黒髪が肩を滑って顔の前に落ちるのも構わず、書類に目を落としたまましゃべり、あまり茂のほうを見ない。
が、ようやくほぼ打ち合わせを終え、次の土曜の朝に事務所で落ち合うことに決めた後、顔を上げその切れ長の一重まぶたの目で茂の琥珀色の両目を見た。
茂は、月ヶ瀬の顔を見ながら、その感じが何かに似ていると思っていたが、能舞台に出てくる、綺麗な女性の顔の能面だと思い当たった。同じ、線の細い美しさでも、葛城の柔らかい温かさを含んだ奇跡のような美貌とはまったく違う。どうして生きているのかわからないような、血管に血が通っていないとしか思えない、冷たさだ。
「じゃあ、明日からの準備、がんばってね、河合さん。」
「はい、よろしくお願いします。」
「僕とペアを組んで、君に何か学ぶところがあるとは思えないけどね・・・。」
「・・・・」
「高原も葛城も優秀な警護員だ。それから山添もね。あいつらに比べて、僕が何か違う要素を持っているようなことは全然ないよ。」
「・・・・」
「ただし・・・」
月ヶ瀬は、頬杖をついて、微かに面白そうな顔をして、改めて茂を見た。その冷たく美しい漆黒の目は、蒼みがよぎるような色をしている。
「・・・ただし僕は、無駄なことはしない。たしか河合さん、君は、葛城が例の三村流家元襲名披露公演で重傷を負ったとき、ペアを組んでいたよね。」
「あ、はい・・・。」
「実にくだらないことで怪我したもんだ。バカじゃないかと、思うよ。葛城は。」
「・・・!」
「犯人の襲撃を阻むためなら警護員は命もかける。だが、自殺したい犯人など、勝手に死なせてやればいい。それを止めようとして一緒に転落するなんて、ただの頭のおかしい勘違い野郎だ。」
「・・・・・」
「何か言いたそうだけど、やめたほうがいいと思うよ。それじゃあ、また次の土曜日にね。」
静かに席を立ち、月ヶ瀬は出て行った。
茂が応接室を出ると、事務室には高原だけが残っていた。打ち合わせコーナーで麦茶を飲んでいた高原が茂のほうを見て声をかける。
「ずいぶん長く一人で応接室にいたな。月ヶ瀬は何か宿題を課したのか?」
「いえ、そうじゃないです。・・・葛城さんは、もうお帰りになったんですね。」
「ああ、あいつは月ヶ瀬がそこから出てくる前に、帰宅したよ。というか、帰した。」
「・・・・」
「想像ついてるかもしれないけど、怜は、月ヶ瀬と、相性が悪い。」
「はい。」
茂はまだ呆然とした顔をしている。
「大丈夫か?河合。なにか言われたのか?」
「いえ・・・あの、月ヶ瀬さんから色々学ぶようにって波多野部長がおっしゃっていたんですが・・・俺、高原さんや葛城さんから学ぶことだけでも一生かかりそうなのに、それ以上のことをなにをどうすればいいか、よく分からないです・・・。」
高原は、若干の憐憫の情をこめた眼で後輩警護員を見つめた。
「月ヶ瀬は、腕はいい。ただ、特に・・・怜と違うのは、あいつは多分なんだけどクライアントを守ることとか、いや、誰かを守ることと言ってもいい、そういうことがしたくて、警護をしていない。」
「え・・・・」
「あいつは、犯人が、犯罪を犯すことを阻止したい。ただそれだけのために、仕事をしている。そういう警護員だと、思う。」
「・・・・」
「そのことが褒められたことかどうかは、わからないけど、ただしそれは、ある意味うちの会社の警護員としてすごく正しい姿でもあるんだよ。」
「・・・・はい。」
「あいつの欠点といえば、そうだな、すれすれのケースが多いことだな。」
「え?」
「過剰防衛すれすれ、だよ。」
「・・・・・」
「そして最大の長所は、迷いがないってことかな。・・・これが長所かどうかは、微妙かもしれないけどさ。」
茂は高原の両目の知的な光に、複雑な表情が混じるのを見た。