悪意の循環3
荒い息づかいが二つ暗い路地裏を駆けていた。
いかにも最近の若者といった風貌の男と高そうなスーツを着崩した営業マン風の男というミスマッチな二人組であるが生憎本人たちにそんなことを気にする余裕は、ない。
「くっそ、どうなってんだよ!?さっきから走っても走っても出れやしねぇ!」
「急がねぇとあいつくんぞ!?」
「んなこた分かってんだよ!来慣れた道なのになんでこんな時に限って迷ってるんだ……チクショウ!」
「……」
「あ?おい。どうした?」
仲間の返事が聞こえなくなり営業マン風の男が後ろを振り返る。
「あぁ、すまん。考え事をしてた。それでなんだが、俺どうもここに見覚えがあってな。ここを真っ直ぐ進んだ所に倉庫があったと思うんだ。一先ずそこに行って隠れてすごさないか?」
「出口は、分かんねぇんだよな……。よし、なら、それでいこう」
少し安堵した表情で向き直ると営業マン風の男はまた走り始めた。
その背で仲間のはずの男がにやりと笑っていることなど知らずに。
「こっちだ!なるべく音を立てるなよ!?」
いかにもチンピラのような男の背をこれまたいかにも現代の若者といったヨソオの男が言われた通りなるべく音を立てないよう配慮しながら、遅れないよう慌ててついていく。
「俺もあの小娘にゃ痛い目みさせられたことがあってな。はっきり言ってあいつから二人も逃がすってのは無理だ。悪いがお前のお仲間さんには囮になってもらうが、いいよな?」
文句があるなら面倒は見ないぞ、と暗に示したチンピラの語調に男は一生懸命頭を縦に振った。
「全然大丈夫っす!あんな奴どーでもいいんでお願いします!助けてください!」
男は逃げている最中、口元に人差し指を当て、手招きをしているこのチンピラを見たとき、終わりの見えない逃走に蜘蛛の糸が降りてきたかのように感じた。
前を走る仲間の背に声を掛けようとした時、自分にだけ聞こえるほど微かに「ダメだ」と言われた時には不信にも思ったが、この際助かるならあいつを見捨てることなど些細なことだと自分に言い聞かせ今目の前にある糸に懸命にしがみつく。
(大体あいつらとは近くにいると女だとか儲け話だとかをお互い持ってくるというだけの関係だ。仲間もへったくれもねえし、俺が助かるために精々利用させてもらおう)
暫く走ったところで前をいくチンピラがスピードを下げて歩き出した。
「ふぅ、ここまでくれば一安心だ。」
「ハァハァ……!本当に助けてくれてありがとうございます……!」
「あぁ、ここは普通に声出しても大丈夫だぞ?構造上この通りなら音が周りに聞こえる心配がないからな」
「ああ!ここなら俺も来たことあるっす!」
(見張らしも悪くなくて誰かが近づいてきてもすぐ分かるし、ケンカするときなんかに便利だから、よく女を連れ込んで遊んだり、気に入らねぇ奴を袋叩きにしたりした場所だ)
「ところで質問してもいいっすか?」
「あ?いいぞ」
「あの女、なんなんすか?ありゃ只のケンカが強い奴なんかじゃなくどうみても『そういった』訓練を受けていますよね?そんな目立つ奴がここらを歩き回っていたんだとしたらもっと前に俺たちも気づいたと思うんですけど」
男の質問にチンピラは苦笑いを返す。
「あいつはな、殺し屋みたいなもんだ。殺し屋が自分の素性を隠すのは当然だろ。最も只の殺し屋とは違うんだが」
「どこら辺が、違うんですか?」
「お前も体験したんじゃないか?あり得ない技とか」
「あ!あのすっ、と消えたやつ!」
鷹揚にチンピラは頷く。
「これは、俺のツテから仕入れた情報だが、あいつはどうやら魔術って呼ばれる常識を覆せるような技が使えるらしい」
「魔術って、そんな……」
「だが実際に見ただろ?」
自分の精神を保つためにあり得ないと笑い飛ばそうとした男だったがそれは言われた通りであった。
「それにあいつの場合、他の殺し屋とは過程と目的が逆なんだ」
「過程と目的が、逆……?」
「普通殺し屋ってのは金やら何やらのために人を殺すだろ?あの女の場合は人を殺したりいたぶったり、弄んだり辱しめたりするために仕事を受けるんだ」
「なんだそれ、最悪だろ……」
「はは、でも流石に彼女も君には言われたくないと思うよ?君も大して変わらない外道じゃないか」
「え?」
「ああ、いやいやごめんごめん。自分じゃそんなことも理解できないからこうなっているんだっけ?」
(なんだこいつ?俺を逃がしたからって馴れ馴れしいな。今は利用できそうだからそっとしておくが、次あったら絞めてやる)
からかったようなチンピラの言葉に心に余裕をなくした男は苛立ちを募らせたがなんとか抑え込んだ。
そんな男の葛藤をまるで楽しんでいるかのようにチンピラは愉快そうな顔で男の顔を覗きこんだ。
「でもよ、気を付けた方がいいぜ。あの女はさっきも言ったように人を欺くための魔術を使うことができるんだ。うっかり油断してると寝首をかかれちゃうかもよ」
「いや、でもさっきここまで来れば安全って……」
「だから」
ゆらり、とチンピラの顔が陽炎のように歪んだように見えたのは気のせいか。
男の直感が警鐘を鳴らす。
何か自分は大きな過ちを犯しているのではないか……?
様々な可能性がぐるぐると男の頭の中を巡り始める。
「人を欺くのが得意なんだって」
そして最悪の可能性が現実のものとして目の前に現れる。
すぅ、とチンピラの男が消え、代わりに現れたのは身長こそチンピラより低いものの圧倒的な存在感を放つ黒色の少女だった。
「ひっ……!?誰か……!!」
「ご自分でおっしゃっていたではありませんか。ここは周りに音が漏れずらく見通しが良いと。」
(どうなってんだこれ……!?なんで!?俺は助かったんじゃなかったのかよ……ッ!?)
「どうなっても何も貴方は私に嵌められたのです。立場こそ逆ではあれども、貴方達にとっては親しみ深いことでしょう」
「……っ!?」
「あぁ、なんで考えてることが分かるのかといった顔をしていらっしゃいますね」
口の端をつり上げて少女は嘲笑う。
「たす、けて……くれ……っ!」
震える声を振り絞って口にした男の命乞いはしかし、少女にとっては快楽のスパイスでしかなかった。
「ふふ……!素敵ですわ。もっともっと恐怖に震え、醜く懇願し、深い絶望を味わってくださいませ!それが私にとって何よりの楽しみなのですからっ!ほら、少しでも長く生きたいのであれば私を飽きさせないでくださいまし?」
腰を抜かした男に少女が鉄パイプを降り下ろす。
骨が折れる嫌な音がするが、男は死なない。的確に急所を外されているからだ。
人通りのない路地裏で、男の悲鳴と鈍い打撃音が誰に気づかれることもなく暫くの間響き続けていた。