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中編

 サンノゼ郊外にバレット社の第七研究所がある。そこがジェームズの新しい職場だった。

 ドリーとの出会いから数週間がたった今、彼は人格移植プロジェクトの記憶モデル化チームの一員として働いていた。プロジェクトには他にも視覚モデル化チーム、感覚モデル化チーム、運動モデル化チーム、情動モデル化チーム、連合モデル化チームが有った。

 記憶モデル化チームの役割は、各領域に保存された記憶を統合し、一つの記憶として働くようにすることだった。基本すべてのチームとの連携が必要だったが、一番深く関わるのは前頭葉などを担当している連合モデル化チームだった。反対に小脳と運動野を担当している運動モデル化チームとはあまり関わらなかった。これらの領域の記憶は、意識に登らない非陳述記憶であり、全体の記憶とは統合されず、その領域の中でのみ参照されるからだ。

 各分野の一流の研究者と働くことは、ジェームズにとっていい刺激となった。

 ある日ジェームズは、情動チームのドウラ、視覚チームのマーと一緒に昼食をとっていた。

「あなたは以前から、記憶こそが人格を作ると言っていた。だが本当にそうだろうか、もし記憶が人なら日記を残すだけでも本人が生きていることにならないかな?」

ジェームズは、ドウラの表情から議論を活発にするため、彼がわざと挑発的なものいいをしていることに気づいた。

「日記ではダメですね。記憶の大部分は意識に上らない非陳述記憶ですから、どれほど詳細な日記を残しても、無意識の記憶が抜け落ちてしまうでしょう」

ドウラは頷いた。

「そうだね、その通りだ。では脳のスキャンデータではどうだろう。現在のスキャン技術を使えば、シナプス一本一本やその結合強度まで記録できる。これなら情報の記録漏れは起きないだろう」

ジェームズは少し考えてから答えた。

「いい所までいってますが、まだ不十分ですね。それは記憶の死体です。記憶を新しく追加し、書き換え、削除するそのシステム全体で一つの人格です。ニューロンの結合パターンだけでは意味が有りませんよ。DNA単体では生命と言えず、細胞単位になって初めて生命と言えるのと同じです」

 マーが口を開いた。

「じゃあ魂の問題はどうするんだい。君は唯物論者なのか?」

 ジェームズは冗談で返した。

「私は何度も人の脳を見てきましたが、魂を発見した事は一度も有りません」

 ドウラは笑ったが、マーは笑わなかった。

 ドウラはマーのために説明した。

「無神論の宇宙飛行士と有神論の脳外科医というジョークがある。無神論の宇宙飛行士は言った『私は何度も宇宙に行って来ましたが神に会ったことは一度もない』、有神論の脳科学者は答えた『私は何度も人の脳を見てきましたが、魂を見たことは一度もない』。神の存在は疑っても、魂の存在が無条件に信じられていた時代のジョークだな。今の感覚だと分かりにくい。神も魂も存在しないという結論に成ってしまうからな、今ジェームズがやった様に」

 マーは不機嫌そうに言った。

「魂が存在しないというのは、受け入れがたい考えですね。では、あなたは殺人は罪ではないと言うのですか」

 ジェームズは答えた。

「殺人は罪です。その人が一生の間に蓄えた記憶がすべて失われてしまうという意味で、社会的に大きな損失ですから」

 マーはさらに尋ねた。

「しかし、殺人者側も魂を持たない存在なのですよね。だとすれば、すべての殺人と落石による事故死を区別するものは何もないのでは? それとも岩を裁判にかけて死刑にしますか?」

 ジェームズとドウラは少しの間黙考した。先に考えがまとまったのはドウラだった。

「岩と人の区別も記憶能力の有無つくんじゃないかな。人は罰を与えればそのことを記憶して、もうその行動を取らなくなる。しかし岩は物理法則に忠実に従うだけだ、罰を与えても前回と同じ条件が揃えば再び人を殺すだろう」

 マーは引き下がらなかった。

「しかし、記憶は人だけではなくほとんどの動物が持っている能力です。とくに哺乳類のそれは人とほぼ同じレベルです。記憶を持っているから罪を負ったりや罰を受けたりするというなら、動物裁判を現代に復活させる必要がありますね」

 マーの皮肉がジェームズにヒントを与えた。

「動物は罰を受けるが罪は負わない、というのが正解ではないでしょうか。人と一緒に暮らす動物なら躾や調教という形で今でも罰を受けています。しかし、彼らに罪があると考える者は居ません。動物は苦痛と自分の行動の因果関係を記憶して、それを避ける事は出来ます。しかし、他人の言葉や行動を元に、未来の苦痛を予知することは出来ません。人間を噛んだ犬を傷害罪で裁いても、その後すべての犬が人を噛まなく成ったりはしないでしょう」

 マーは言った。

「それでは、犯罪者が罰を受けるのは彼らの罪ゆえではなく、他の人間への見せしめのためだと?」

 答えに窮したジェームズの代わりに、ドウラが答えた。

「その通り。少なくとも自由意志が存在するから殺人者には殺人を犯さないという選択肢も有った、という理屈は現代では通用しないんじゃないかな。様々は実験結果が自由意志が存在しないという説を支持しているしね。法律は善悪の判断ではなく、社会の管理システムの一部として見るべきだよ」

 マーは攻め手を変えた。

「もし、魂が存在せず記憶こそが人格なら、コピーを残せれば死んでも構わないということになりませんか?」

 この質問には残りの二人も答えられなかった。客観的に見ればコピーが残っているのなら本人が生きているのと同じだ。しかし、主観的には意識を失い、その後二度と目覚めないことになる。それは死と同じだ。

 では、夜眠りについてから朝目を覚ます時と、意識を失ってからコピーとして目をさますときとでは何が違うのか? どちらも意識を一度失い、過去の記憶を引き継いだ形で目を覚ます、にも関わらずコピーの場合は記憶を引き継いだだけの別の存在として扱われるのはなぜだろうか? ジェームズの心には説明のつかない不安感が残った。



 プロジェクトに参加直後の時期には、ジェームズとドリーはよく一緒に夕食を取った。最初に誘ったのがどちらだったかは二人とも覚えていない。食事中は主にプロジェクトの進捗状況について話した。ジェームズにとって、脳科学の話題を遠慮せずに話せる女性は貴重だった。ドリーもジェームズに好意を持っているようだった。

 ある日ジェームズは言った。

「君は本当に魅力的な女性だね」

ドリーはまんざらでも無い顔をしつつ答えた。

「そういうことを言ってると奥さんに言いつけるわよ」

ジェームズは照れくさそうに笑った

「実は独身なんだ、テレビの話は冗談で言った。あの十秒後でカットしてくれていれば、誤解を受けずにすんだんだが」

ドリーは真剣な顔で尋ねた。

「今まで、結婚しようとは思わなかったの?」

「単に機会がなかっただけだよ。そういう君はどうなんだい?」

ドリーは自虐的な笑いを浮かべた。

「高学歴、高収入の女性はもてないのよ。今まで何人かの男性と付き合ってきたけど、どれも長続きしなかったわ。まあ半分は私のせいでも有るけど」

ジェームズは冗談として流せるよう気をつけながら尋ねた。

「今からでも結婚してみる気はある? 相手ならここに一人いるけど」

ドリーは一瞬真剣な顔で悩んだ。

「お気持ちは嬉しいけど……、結婚しても数年で別れることになるので……」

「それでも構わない!」

ジェームズは本気でそう思っていた。だが、ドリーの答えは

「ごめんなさい」

だった。

 この日以来、二人で合う事は少なくなった。ふられた事も有ったが、主な理由はドリーの病状が悪化したことだった。

 プロジェクトは以前にもまして急ピッチで進められた。誰の脳のコピーでもない中立的な脳モデルが完成した段階で、プロジェクトメンバーに被験者の募集がかけられた。

 ジェームズにとっては意外なことに、被験者として名乗りを上げたのはマーだった。彼は

「コピーはコピーだ。写真をとったからって、魂を奪われるわけじゃないだろう」

と言って、自分のスキャンデータを提供した。

 スキャンデータに基づいてニューラルネットのパラメーター調節が行われ、世界初のコピーが誕生した。

 コンピュータの処理速度の関係で、コピーは現実世界の十分の一の早さで生きている。研究者たちは録音のスロー再生と加速再生を使ってコピーとコミュニケーションを取った。

 最初実験は成功に見えた。コピーはマーの記憶を保持しており、いくつかの知能テストに合格した。

 雲行きが怪しくなったのはコピーの誕生から一ヶ月が経った頃だった。マーのコピーが精神的に不安定になった。原因は体感覚の微妙な変化と、人とのコミュニケーションがまともに出来ないことへのストレスだと推測された。コピーとして誕生してから彼はずっと独房に閉じ込められている様なものだった。

 ホルモンバランスの外部調整など場当たり的な対応を繰り返したが、事態は改善されず、誕生から二ヶ月目にしてコピーは本人の希望を聞き入れる形で削除された。

 この結果はプロジェクトメンバーに衝撃を与えた。特に影響が大きかったのはマー自身で、彼はこのことをきっかけに脳研究の現場から身を引いた。

 研究所では同じ失敗を繰り返さないために、コピー用の仮想環境を用意した。しかし、追加実験のゴー・サインはなかなか出ず。ドリーに残された時間だけが少なくなっていった。



 研究が足踏み状態の中、ジェームズは久しぶりにドリーから連絡を受けた。社長室で彼に会いたいとの事だった。

 ジェームズは夜の十二時頃、社長室を尋ねた。すでにほとんどの社員が帰っている時間だが、二人だけで話したいという彼女の希望に答えるため、ジェームズは一人この時間まで会社に残っていた。ドリーは一見昔と変わらない姿だった。しかし、近づくと化粧とカツラで病状を隠している事が分かった。

 ジェームズは出されたコーヒーを一口飲んだ後尋ねた。

「それで、話というのは何ですか?」

ドリーは黙って彼の顔を見つめていた。

 ジェームズはもう一度尋ねようとしたが、舌が動かなかった。そして彼はそのまま意識を失った。

次話は明日の21:00ごろに投稿します。

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