前編
首から上を交換することは、体の交換に等しい。"私"は首の方に有るからだ。首全体を交換する必要もない、脳だけでも十分だ。では、脳の中の何が”私”作り出しているのか?
ジェームズは記憶だと考えていた。さらに限定するならばストーリー記憶。一般に思い出と呼ばれているものだった。
「一つの仮想実験をやってみましょう」
ジェームズはインタビュアーに向かって口を開いた。歳は三十代後半。若くして教授に成った彼の姿は、顎鬚を生やした甘いルックスと相まって、非常にテレビ栄えした。
「私が妻と記憶の交換をしたとします。私の体は目を覚ました時言うでしょう。『私こんなに毛深くなかったはずよ!』とね。なぜなら記憶の交換により私の記憶は失われ、脳が何かを思い出そうとした時出てくるのは妻の記憶だけだからです。記憶をいくらたどっても自分は女性であるという記憶しか出てきません。客観的も主観的にも妻の心が私の体に入っているよう見えるでしょう」
インタビュアーがシナリオに沿って質問する。
「しかし、ホルモンバランスや習得した技能などは、交換されていないんですよね?」
「仰るとおりです。しかし、それは"私"が誰かを規定するために重要な情報でしょうか? 新しい技能を習得したら、私ではない? 性転換手術を受けたら私ではない? 違いますよね。もしどれほど外見が変わっていたとしても、去年一緒に行った旅行の思い出や、昨日の打ち合わせ結果を把握しているようなら、同一人物であると判断されます」
その後、インタビューは一時間続いたが、放送されたのはこの数秒間の会話だけだった。
だが、この数秒間の放送によってジェームズの人生と人類の未来は大きく変わることに成る。
収録から一週間後、研究室を出たジェームズは、スマートフォンの音声通話機能に伝言が残っていることに気づいた。再生ボタンをタッチすると、切迫した女性の声が聞こえた。
「ジェームズ博士。突然のお電話をお許し下さい。ドリー・バレットと申します。テレビの放送を見て、すぐにあなたに連絡を取らなければと感じました。来週の火曜、ご都合のよろしい時間に研究室を訪問したいと思っています。折り返し電話をください。電話番号は……」
ジェームズが最初に思ったのは、この女はどうやって俺の電話番号を調べたんだ、だった。次に思ったのは、ドリー・バレットってあのドリー・バレットか!? だった。
ジェームズは公開鍵認証を確認した。予想は当たっていた。彼女はフォーブス誌の選ぶ世界一お金持ちの女性であり、骨髄癌であと三年年の命と噂されているドリー・バレットだった。
ジェームズはすぐに電話をかけた。彼女は詳しい話はあった時に話すと言ったが、切迫した声から、要件はおおよそ察しがついた。
火曜日の午後一時、ジェームズはドリーを自分の研究室に招き入れた。
ドリーは席に座るとまず礼を言った。
「急な申し出を受けていただきありがとうございます」
三十代後半。最近では若いと言われる年齢だ。電話で話した時とは違い、落ち着いた物腰だった。その立ちふるまいは彼女の育ちの良さと、企業家としての意志の強さを感じさせた。
彼女は出されたコーヒーに口をつけた後、すぐに本題に入った。
「すでに私の事はある程度ご存知だと思いますので、前置きは無しにします。私を救っていただけませんか?」
彼女は"私の命を"とは言わなかった。
「記憶のコピーによって、肉体が朽ち果てた後でも生きていたいと、そうお望みなのですね?」
ドリーは頷いた。
「人工海馬を埋め込んだマウスで記憶の交換に成功したと伺っています」
ジェームズは放送を見が彼女が自分の研究について誤解しているのだと思った。確かにジェームズはマウスの脳を使い記憶の移植に成功していた。しかしそれは、記憶の一部を交換しただけであり、人格の移植には程遠かった。
三年前、ジェームズは海馬が正常に働かないノックアウト・マウスを使い実験を行った。生まれてすぐ人工海馬を移植し、本来なら出来ないはずの場所記憶を作らせることに成功した。この研究の発展として、二匹のマウスを使い人工海馬内に蓄えられている記憶の交換を行った。脳の個体差は人工海馬に吸収させた。結果として数ヶ月以内に学習した内容については移植に成功したが、それ以前の記憶はコピーできなかった。すでに海馬を経由しないネットワークに書き写されていたためだ。
記憶というのはコンピュータのハードディスクの様に特定の領域に保存されているものではない。最初にその情報を処理した脳の領域に分散して記録されている。物の形は視覚野に、音なら聴覚野に記録される。そのため複数の刺激が関連する学習では、各領域間でシナプスの結合を作る必要がある。離れた場所とのシナプス生成には時間がかかるため、一時的に海馬を中継する伝達路を作り、その後およそ数ヶ月から数年の時間をかけて、直接の伝達路を作りなおす。実験で移植したのはこの一時的な経路だけだった。
ジェームズは彼女に誤解を与えないよう、言葉を選びながら話した。
「現在成功しているのは記憶の一部、主に場所に関する記憶だけです。テレビでは対談の一部だけを切り取ってセンセーショナルな報道をしていましたが、ストーリー記憶交換による人格の移植は例え話だと思ってください。せいぜい遠い未来可能になるかもしれない夢といった所で、少なくとも後十年は不可能でしょう」
ドリーはわずかな苛立ちを見せた。
「私がテレビの放送だけを見て、ここに来たとお思いですか? 発表されている論文については一通り目を通してきました。現状、海馬に記憶されている一部の記憶が交換されただけだということは理解しています。そして、その記憶交換は、生まれた直後から人工海馬を使っているマウス同士でしか出来ないことも。更に言うならストーリー記憶単体での移植という考え自体非現実的ですね。ストーリー記憶は他の陳述記憶を参照していますから、ストーリー記憶だけ移植してもリンク切れを起こしたリンク集に成ってしまうことでしょう」
ジェームズはドリーへの評価を一段階上げた。以前から彼女が医薬・医療機器企業の社長で有ることは知っていた。しかし、二代目社長であり、経営センスはそれなりに有るかもしれないが、技術的なことには詳しくないだろうと侮っていた。
「失礼しました。しかし、私の研究について理解しているなら、私が貴方のお力になれないこともご存知なのでは?」
ドリーは鞄から資料を取り出した。
「我が社では数年前からバーチャル・ヒューマンの研究を続けてきました。それを応用したいと考えています」
「バーチャル・ヒューマンというと、医療用の化学モデルですか? 事故解析用の力学モデルですか?」
「両方です。細胞内の代謝から、骨格、筋肉、脊椎に至るまで、現在可能な最高水準の精密さで作られた人体のモデルを我が社は保有しています。ニューラルネット制御による歩行や寝返り、呼吸、嘔吐反応なども実現しました」
ジェームズには初耳だった。
資料に目を通すジェームズに向かって、ドリーは説明を続けた。
「生物同士の記憶移植の困難さはニューロンの変化に時間がかかることに有ります。理論上同一種なら、ある個体の脳で表現された記憶は他の個体の脳でも表現できるはずです。しかし、そのためには膨大な量のシナプスの生成と削除が必要になる。生体の脳でそれだけの書き換えを行うには数年の月日がかかるでしょうし、その間被験体を活かしておくことも難しい。しかし、バーチャル・ヒューマンなら可能です。先生の研究を応用して私の人格を仮想の体に移植して欲しいと考えています」
ジェームズは資料を机の上に置いた。
「話は分かりました。私の研究室と共同研究がしたいということでよろしいですか?」
「いいえ先生。これはヘッドハンティングです。ぜひ我が社の研究所に来ていただきたい。我が社は大学よりも潤沢な設備と資金を提供できます。特許取得後ならば論文発表も許可いたします」
それはジェームズにとって魅力的な誘いだった。人格のコンピュータへのコピーはSFで古くから扱われてきたアイディアだが、いまだ実現はされていない。最初のコピーを実現できれば間違いなく歴史に名が残るだろう。
しかし、ジェームズには一つ気がかりなことが有った。
「聡明なあなたなら当然気づいているでしょうが、人格のコピーを作っても”あなた”が生き続けられるわけではありません。あなたの記憶を引き継ぐもう一人のあなたが生まれるだけで、今のあなたは数年後に……、この世を去ることになるでしょう」
ドリーは微笑んだ。
「その点についてはすでに気持ちの整理ができています」
ジェームズは彼女が自分の死を受け入れたのだと、死を覚悟した上で後に残す人たちのためにコピーを残そうとしているのだと理解した。彼は彼女の健気さに心打たれた。
「分かりました。それでしたら私から言える事は何も有りません。ぜひ御社で働かせてください」
二人は硬い握手を交わした。
次話は明日の21:00ごろに投稿します。