2040年秋
2040年秋
僕は一切の人間関係に背を向け、家に引きこもっていた。現実の人間関係を予測不能な厄介なものと考えていた。また新たに、不確定な人間関係を築くことで、気苦労を感じるよりは読書をしたり、音楽を聞いていた方が自分にとって、有益だとも思った。
だいたい、付き合うに足る人間など学校に何人いるのだろう。どれだけ気を使い、心身を摩耗し人間関係を築くことに刻苦精励しても、卒業後にすすんで会おうと思うような人間なんてごくわずかにちがいない。
僕は誰でもいいからさみしさに任せて他人と付き合おうとするような人間ではないし、仮に、信頼できる友人や恋人ができたとしても、それ以後関係を保つことができるだろうか。それは、想像するよりはるかに難しいことだろう。人間は他人を完全には理解することなどできやしないのだ。だから、僕は人間関係による幸福よりも、それによるリスクを恐れ、回避しようとした。
僕はドストエフスキーやカフカそして安部公房を読み、レディオヘッドやヴェルヴェットアンダーグラウンドの音楽を聞いた。
僕の最高の付き合いの良い友は、こうした文学作品や音楽だった
書物は僕に人生にたいしてさまざまな示唆を与え、世界に対する理解を深めてくれた。
一方で、いつまでもこうしているわけにはいかないのは、自分でも重々承知していた。しかし、と僕は思う。
今だけは、こうすべきなのだ。
これは充電期間なのだ。と。今までの人生で、楽しかったことや、悲しかったこと、辛かったこと、たくさんのことが通り過ぎて、僕の頭の中はパンク寸前だったし、将来のことを考えると吐き気を催した。僕は一度休んで自分や自分の人生のことを考え直さなければならない。もちろんいずれは他人に対して心を開いていかないといけない。人は一人では生きてはいけないし、なにより永遠の孤独を望む人間などいるものだろうか。
つまり、僕は誰かを求めているのだ。しかしそれは、今ここにはいない誰かだった。僕にはまだ自分がどんな人間を求めていて、どういう人間を拒絶すべきなのかすら皆目検討がつかなかった。どの人間もぼくには、汚れているように見えた。僕は誰を拒絶し、誰を受け入れるべきかがわからないから、この世界のすべてを拒絶しているのであった。僕にできることは、世界に対して拒絶することだけだった。
ところで自分という存在は周りにどう見られているのだろうか。
今までであってきた中で、わずかながらでも分かり合えたと感じた、数少ない友人はどう思っているだろう。僕のことを友と認めてくれているだろうか。都合のいい遊び相手だと思っているかもしれない。あるいは、ぼくのことなどは、取るに足らない存在と何も考えていないかもしれない。どちらにせよ、と僕は思った。どちらにせよ同じことなのだ。他人がぼくのことを実際より高く評価しようが低く評価しようが、僕にとっては関係のない話だった。それはぼくの問題というよりはむしろ相手の問題なのだ。大切なのは僕が世界に対して何を感じ、考え、どう行動するかだった。
僕は久しぶりに外出することにした。 白いカッターシャツに綿のチノパンツを履き、黒い靴下を履いた。
いよいよ出かけようと思った時、ひげが伸びっぱなしであることに気づいた。文豪のヒゲはりっぱなものだが、引きこもりのヒゲ面
は惨めなだけだ。生活感がでるし、汚らしい。僕は温めたタオルを10分間顔にかけ、そのあとシェービングクリームを塗りたくり、丹念に剃り落とした。幾分かはマシな顔になった。久々に見る自分の顔は悲しいほどいつもと変わらなかったが、安心感もあった。
久しぶりの外出で、気づいたのは
外は驚くほど静かで、まるで変わっていないことだった。当たり前のことだけど、僕がいくら人生について思い悩もうと、世界を拒絶しようとも周りは何も変わらない。僕が知らないところで、静かに進んで行く。僕だけが取り残されたままみたいだった。
長袖だけでは少し肌寒くなった、10月に、僕は図書館にいくことにした。僕の行動範囲は恐ろしく狭く、半径5キロ以内でほとんど僕の日常生活は説明できる。その中でも、図書館は僕の最もお気に入りの場所だった。静かで、一生では読みきれないほどの本があり、ビートルズやマイルスデイヴィスだって聴ける。
図書館にはいろんなひとがいる。ヒトラーを崇拝するネオナチみたいな中年男や、世界の終わりを予見したかのような顔で新聞を読んでいる老人、テスト勉強という名目でひそひそ声でクラスメイトの悪口をいう女子中学生グループ。僕は誰とも関わらなかった。赤の他人にとっては僕なんて、埃みたいなものに違いない。
僕はとしを追うごとに悲観的に物事を考えるくせができてしまったらしい。無根拠なポジティブ思考よりは幾分かマシだろうけれど。
あの子はきているだろうか、と僕は思った。平日の昼間なのに関わらず、図書館に通い熱心に本を読んでいる美しい女の子。何やら彼女はいつも同じページを何回も繰り返し読んでいるようだ。小声で文字を読んでいる。よほど難しい本を読んでいるにちがいない。
まず僕が目がひいたのは、彼女の美しさだった。彼女は陶器のような白い肌に、吸い込まれそうな瞳、ぽってりとした少し厚めの唇、肩まで下がったやや長めの黒髪は彼女にとても良く似合っていた。男ならまずほっとかないだろう。
しかし、時折浮かべる苦痛を噛み殺したような表情を浮かべる彼女は、僕を暗くさせた。
一体、なぜ彼女のような美しい少女が苦しむ理由があるのか、僕にはわからなかった。いや、こんな時代だからどんな人でも、絶望を感じてしまうのはおかしくないと思い直す。
僕は、彼女を求めているのだろうか。気づいたら彼女のことを目で追う自分がいる。他人をこんなにも意識するのは初めてだった。もともと僕は誰かを求めることはあまりしないのだ。僕の心は鉄の檻のように硬く心を閉ざしていて、
その中身は、ガラスのように傷つきやすくそして繊細だった。
僕は、本を読むことにした。ナチスドイツについての本だ。アドルフヒトラーは、僕にとって今1番関心を持っているものの一つだ。
6年前、日本に未曾有の大不況が襲っていた。しかし、あるひとりの男の登場で日本は大きく変わった。犬養という男だ。男は、僕にアドルフヒトラーを思い起こさせた。
2020年8月初旬、日本は第三次世界大戦の敗戦により、疲弊し、民族としての誇りを失っていた。多額の賠償金と領土の譲与、徹底的な自虐史観教育、日本はまさに、アメリカ、中国、ロシアの奴隷に成り下がっていた。勝てば官軍負ければ賊軍、北方領土や尖閣諸島、竹島問題などの領土問題は終止符を迎え、アメリカ、中国、ロシアの事実上の属国に成り下がってしまった。
イタリア、ドイツ、日本の首脳陣は戦犯として死刑。失業者は3人に一人、実に1000万人以上の失業者で溢れていた。自殺者が4倍に増え、風俗も乱れ、犯罪が横行した。まさに日本は暗黒時代を迎えていた。
その時にあの男は現れた。
彼は芸術を愛好し、時間があると、読書をした。女性や子供に紳士であるよう努め、犬を愛した。また、ウィットにとんだジョークで、大衆を沸かし、教養のある人間だと思い込ませた。
意外なことに彼は、弱小政党の党員の1人にすぎなかった。
彼が頭角をあらわしはじめたのは、演説の才が認められたからだ。
彼の演説はまさに天才というべきものだった。
大げさな身振りやジェスチャー、
低く、重々しく響くバリトンヴォイス。
何といっても彼の目だ。
すべてを見通すかのようなこの目で見つめられると、彼を絶対の存在だと思わずにはいられなくなる。
その目が、黒を白だと思わせるのだ。
彼はいつも金曜日の夕方に大衆の前にでて演説をした。
労働に疲れた金曜日の夕方は大衆の思考力が一番弱い時間だからだ。
大衆のざわめきが止むと、犬養は小さな声で聴衆に語り始める。
聴衆は聞き耳を立てやがて物音一つしなくなる。
だんだんと激しさを増す彼の演説は後半ピークに達し、聴衆は彼に熱狂する。
聴衆は彼を救世主だ、天才だと囃したてる。
そう、事実彼は日本の救世主であり、21世紀最大の政治的天才であった。
第三次世界大戦敗北後の日本をたった五年で建て直し、世界屈指の経済力を誇る大国を築き上げたのだ。彼は奇跡を起こした。
誇りと自信、職と米、一家に一台にヘリコプターを持たせ、水陸両用自動車の開発、海中トンネルや高速道路に公共投資し景気回復を図った。
僕はこの男が嫌いではない。いや、ある意味信奉者だといってもいい。しかし、一方で彼を警戒している。なぜなら彼があまりにもアドルフヒトラーに似ているからだ。
僕の考えでは、アドルフヒトラーは1938年に暗殺すべきだったのだ。