人形パティーの壊れた時計
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「飲み物を買ってくる」と言って宿屋を出た主が帰ってきたのは、随分経ってからだった。赤く腫れた目元に涙が浮かんでいる。それだけで大筋は把握できた。その上、コリーさんが慌てた様子で入ってきたため予想は確信に変わった。主はきっと、とても辛い思いをしているだろう。無理もない。ワタシは小さくため息を吐くと、重い体を叱って立ち上がった。そして、扉を挟んで問答を繰り広げるコリーさんと主の会話に割って入った。
「ボクがいるはずないなんて、そんなはずない! 全部嘘に決まってる! 全部ッ……!」
「何を当たり前のことを言っていらっしゃるのです、我が主」
予期せぬ闖入者に、主は息を呑んだ。嗚咽混じりの痛々しい声が一気に小さくなる。
「貴方がパティーの主である時点で、貴方はラウラ・アストルガだと証明されているようなものではありませんか」
「……? パティー、そりゃどういうことだ?」
ワタシの隣でコリーさんが首を傾げる。扉越しに困惑が伝わってきた。ワタシはそれらを全て無視して話を進める。
「主、貴方はこの前レティは研究結果を盗んだ技術者だと言いましたね。全て、その通りなのです。レティは夫妻の『研究結果』を——つまり、夫妻の造り上げたホムンクルスであるこのパトリシアを、盗んでいったのです」
「え——?」
扉の向こうで主が絶句する。コリーさんも二の句が継げないようだった。
パトリシア。それがワタシの名前だった。ワタシの元の主——アストルガ夫妻は、ワタシに名前を与えてくれた。いや、違う。それしか与えてくれなかったのだ。
ワタシをパティーと呼んだのは別の人。それ以来、ワタシはワタシをそう呼ぶと決めた。
「主は——イレーネ様とテオドーロ様は死の間際、娘を守るようにとパティーに命令しました。だからパティーは、レティにラウラ様の生存が知られないようにと、この数年間、ずっと偽りの主に仕えてきたのです。本当の主である貴方を——ラウラ・アストルガ様をお守りするためだけに」
少しくらい褒められてもいい、と思う。
少しくらい優しくされてもいい、とも思う。
けれど、許されてはいけない、と思った。
「え? じゃあ……何? ジャックの言ってたことは——?」
主が鼻をすすりながら言う。ジャック。情報屋ジャック。確かに、彼の言っていることもあながち間違いではない。ワタシはなるべく淡々と喋ろうと心がける。
「あながち間違ってもいません。夫妻は途中、実験に使用した特殊な水銀で記憶障害を起こされて……。それからは、自分たちに子供はいないと、思い込まれるようになりました。まぁ、そんな情報は出回りはしませんでしたが」
「んな馬鹿な……。でも、それが事実——なんだな?」
コリーさんの言葉に、ワタシは小さく頷く。最後の言葉はワタシなりの精一杯の抵抗のつもりだったのだが、どうやら気づかなかったようだ。ワタシは内心深くため息を吐き、次なる一手をどうしようかと思案する。
そのとき、主が声を上げた。
「おい、パティー。今なんて言った?」
勢いよく扉が開く。頬には未だ涙の後が残り、瞳は充血していた。それでも視線はしっかりしていて、確固たる意志が感じられた。
それでこそワタシの主だ。
「そんな情報は出回りはしなかった——と」
「——ッ」
ワタシの言葉に、主が部屋を飛び出す。もう少しで廊下に出るところを、コリーさんが慌てて引き止めた。
「どこ行くつもりだよ、ラウラ! 少しは落ち着いて——」
「これが落ち着いていられるか! 娘の——そう。実の娘のボクが知らなかったことを、その情報屋は知ってたんだぞ? それってつまり、フェルトと関わってるってことじゃないか!」
ロース=マリー・フェルト。彼女はかつて夫妻の助手だった人だ。それは知っていてもおかしくないだろう。繋がっていてもおかしくはないだろう。
「ええ、ええ。確かにそうです。疑いようもないですね。しかし、主」
コリーさんに押さえつけられたままの主がワタシを睨む。しかし、そんなもの痛くも痒くもない。辛くもないし苦しくもない。けれど少しだけ、煩わしい。
「今の貴方にできることなど、何もありません」
ああ、酷なことを言ったな。と思った。それでも、言わなければいけなかった。なぜなら、主を危険から守ることがワタシの義務であり生き甲斐だからだ。
そしてワタシは、何も思わないようにして言った。
「代わりに、その怒りは、夫妻を見殺しにしたパティーに向けるとよろしいでしょう」
ワタシの時間は、あの日から止まったままだ。
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