鳥籠パティーと叶わない幻想
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「パティー!」
珍しく取り乱したコリーさんが、怒りのこもった声を荒げる。その奥から、息を呑むような、嗚咽にも似た悲鳴が聞こえた。主だと思った。しかし、淀んだ視界にはその姿を捉えることはできなかった。
空が青い。
彼がいなければ見れなかった空。
そして、彼によって二度と見ることの叶わなくなる空だ。
投げ出された腕を生暖かい液体が伝う。液体は右の脇腹から流れ出ているようだった。滔々と流れるそれは、ワタシが研究所で見たあの赤だ。力が入らない。視界はぼやけ、空が色彩を失っていく。
これでいい。
これで主が守れるなら。
「あ……ああ……」
声がする。
あの人の声だと、すぐに分かった。
「パ、ティ……っ……うそ。なんで……」
また、遠くから主の声が聞こえた。距離感がおかしくなっているようだ。主はワタシのすぐそばで、ワタシの顔を覗き込んでいた。感覚の鈍った掌に、震える温もりを感じる。主がワタシの手を握っているのだろう。もう目を開けることさえままならない。ワタシには主の姿が見えない。
「主、怪……は、ない……す、か」
笑おうと思った。主に心配をかけたくなかった。しかし、もともと脆いホムンクルスの体はそう簡単に言葉を発してはくれなかった。言いたいことがたくさんある。それなのにこの唇は、喉は、声帯は、ワタシの言うことを聞いてはくれない。こんなにもホムンクルスであることを恨んだことはなかった。いや、恨んだことも、今までなかったかもしれない。どうだっただろう。自分を作った人を、あの人たちを目の前で殺されたとき、ワタシは彼を恨んだだろうか。
主を庇って、彼に撃たれても、ワタシは彼を恨めしく思わない。
「ボクの心配なんてどうでもいいよ! 傷、傷が……止血っ」
主の声がどんどん遠くなる。ただ感覚だけが異常に研ぎすまされて、五感の落差に酔いそうになった。
頬に液体が滴り落ちる。
泣いているのですか、主。
それとも、泣いているのはワタシですか。
聞くことができなかった。
「なんで……どうしてだよ、君は……。当てるつもりなんて……僕は君を撃つつもりなんてなかった。なかったのに……」
「……ジャック!」
水中にいるみたいだ。音が全て籠って聞こえた。今話しているのはおそらく、コリーさんとジャック様だろう。ジャック様はだいぶ錯乱しているようだ。淀んだ意識でも分かるほど、彼の声は揺れていた。
気づくと、腕が動くようになっていた。視界も、そこそこクリアになった。致命傷からは外れていたらしい。先ほどから続く虚脱感は多量出血によるものなのだろうと、ワタシはぼんやりと考えていた。それは処置や再生力の賜物などではなく、ただ、命の炎が潰える前のほんの少しの焔の灯火にすぎない。
それで十分だった。
「ジャック、さま」
ジャック様の表情が怯えたように引きつる。コリーさんが驚いた表情でこちらを見る。その顔はまさに顔面蒼白と言った様相で、彼らしくもない。けれどそれが嬉しいような、申し訳ないような気持ちになった。
体はやはり、完全にワタシの思い通りと言うわけではなかった。初めてこのまぶたが開いた時のような目眩が、未だにワタシを蝕んでいる。焦点が定まらないのはいつものことだ。人間を模しただけの模造品の体に鞭を打って立ち上がる。すぐ隣で主が怒鳴るように声を荒げたが、何を言っているのかは分からなかった。
ジャック様の姿と声だけは、何故だか異常に鮮明だ。青ざめた顔。血色の悪い唇は先ほどからずっと同じ言葉を繰り返していた。銃を持つ手は震え、銃口は地面を見ている。あの時を思い出す。彼らを殺しても取り乱さなかったジャック様が、取り乱している。それはきっと、ワタシが主を庇ったからだ。
主がそんな哀しそうな顔をするのも、コリーさんが怒っているのも、きっとそのせいだ。
「パティーは、知っています。貴方が、主を守ろうとしたこと。その手を汚しても、永遠にご自身が何者でもない存在になっても、博士たちを殺したこと」
半分は、ジャック様に。もう半分は主に向けた言葉だった。
ジャック様の表情が歪む。今更何を言おうと、彼の罪が消えることはない。そして、共犯者であるワタシの罪も、消えることはない。
ならば、せめて、重い方の罪をワタシに背負わせてほしい。
その罪を背負って逝けるなら、この作り物の命にも意味があると思えるから。
ワタシは、彼と彼女を、憎しみ合わせないために生まれてきたのだ。
そう思った。
「……? パティー、何を言って……?」
「そんなこと今はどうだっていいだろ!」
二人の声が同時に響く。コリーさんはジャック様の胸ぐらを掴んで、投げつけるように地面に組み伏せていた。主は、絶望のような、純粋な疑問のような訝しげな表情でワタシの顔を見上げている。
「博士は言いました。もし自分たちが、他ならぬ我が子を傷つけたその時は殺せ、と。けれど、パティーが目を覚ました時には、博士は既に罪を犯していた」
なぜだか、流暢に喋れるようになっていた。死期が近いのかもしれない。最期の力を振り絞って、という奴だろう。ワタシは薄く笑みを浮かべた。我ながらうまく笑えた気がした。
「博士は、一人娘がいると言いました。子供は一人だと言いました」
「やめろ……」
ジャック様の声が聞こえる。それは蚊の鳴くような細く弱々しい声で、制止としての役目を全くと言っていいほど果たしていなかった。
ワタシは続ける。
「けれど、それは間違いでした。博士には、娘よりも前に子供がいた……名前も貰えなかった、一人の男の子。彼は両親から存在さえ忘れ去られ、それに気づいた博士の助手によって今まで生かされていました」
捲し立てる。
この命の続くうちに。
「彼は助手から妹の存在を伝えられてからずっと、彼を忘れた両親が妹を傷つけないか、それだけを気がかりに思って生きていたのです。そして、不安は現実となり——彼は両親を殺害した」
「それ……まさか……」
主の不安そうな声。
そんな声が聞きたかったわけではなかったけれど。
「その場に、パティーもいたのです。パティーも、同罪なのですよ、主」
笑ってみた。
主は哀しそうに表情を歪めた。
「彼の名前は——ジャック。ジャック・アストルガです」
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