ひとりぼっちとふたりごと3
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握りしめた拳に青白い爪が食い込む。薄い皮膚に血がにじむ。悔しいわけじゃない。哀しいわけじゃない。苛立たしいという感情でも、きっとない。何とも言い切れない靄が彼女の胸中に立ちこめていた。血液の滴る手で胸を押さえる。靄は一向に消える気配がない。それどころか、ますます肥大化しているように思えた。彼女は未だ強く握りしめようとする自分の手をそっと開いた。震えていた。滴る血は、どろどろして気味が悪い。彼女は一切表情を変えないまま、流れ落ちる血に戦慄した。
この傷も、いつか消えてなくなるんだろう。
けれどこの罪は、永遠に消えない。
彼女は、胸につっかかる毒霧に眉をしかめた。
対する彼は、何でもないように鼻歌を歌って、人目も気にせずに汚れた服を着替えていた。彼の服は血まみれで、とてもそのまま外に出られるようなものではない。少女の主の助手だった女性は、もうどこかへ行ってしまった。ただ一つ、嫌悪のような激しい憎悪をこめた一瞥をくれただけだ。
彼女はなんだか居心地が悪かった。彼女は、主の命令を果たした。それは間違いない。にもかかわらず、彼女の心はどこかへ行ったきり戻ってこなかった。
娘は、無事なんだろうか。
これで本当に全てが終わるのか。
これから自分はどうすればいいのか。
彼女には、「主」に聞きたいことが山ほどあった。
「ねぇ、僕と一緒にここから出ない?」
藪から棒に、まるで今まで会話をしていて、その一環として何となく言った言葉のように彼が言った。彼女は、その唐突な言葉にすぐに反応できず、そのまま硬直する。彼女には考えなければいけないことがあった。彼の意味の分からない提案を鵜呑みにして、時間を浪費するのは彼女にとって好ましい状況ではない。彼女の耳には彼の声が聞こえていたが、彼女が振り向くことはなかった。
それがかえって、彼の好奇心をかき立てたらしい。
「あれ、聞こえてないのかな。おーい、パティー君。パティー君ってば。無視するなんてつれないなぁ」
不快感を煽る嫌味ったらしい笑みを浮かべながら、青年が彼女の顔を覗き込む。返事を期待している目だ。その顔は、今さっき人を殺した男のものにはとても見えなかった。彼女は深くため息をつく。きっとこの男は、自分が何か返事をするまで決して諦めはしないだろう。彼女は妥協するということを覚えた。
「……貴方と?」
「そう、僕と」
満面の笑みを浮かべながら、彼は大きく頷いた。そして、大きく両腕を開き、自慢げに少女を見つめた。少女は首を傾げて、青年はそんな彼女を見て困ったように笑う。
「こんなところに一人でいたって退屈だろ? もし僕についてきてくれるなら、世界中を旅して君が見たことのないものをたくさん見せてあげられるよ」
驚いた。
少女は自分にも分からない衝動に突き動かされて、一歩大きく踏み出した。
少女が見たことのないもの。
青い空。広大な海。風の吹く草原。冷たい雨。真っ白な雪。美しい星空。花の蕾。薔薇の花。
少女は唾を飲んで、青年を見つめ返した。
「だから——僕と行こう」
手が差し伸べられる。まだ新しい血の跡のある大きな手だ。少女は困惑した。自分自身を突き動かす衝動に、どう接したらいいか分からなかった。少女は少しの間逡巡して、その衝動の言いなりに病的に白い手を動かした。
青年が息を呑む。
「ごめんなさい」
風の擦れる音が聞こえた。
すんでのところで腕を引いて、少女は胸元に自分の手を抱きしめた。その手は小刻みに震え、今にも彼の手を取ろうとしていた。
少女は彼の手を取らなかった。
少女には、その手を取る勇気がなかった。誰一人守れないこの手で、誰かを守るために汚した手を取ることを、誰より彼女自身が許せなかった。
「……そうか」
残念そうに、けれど潔い声で青年が言った。
「なら、次に会うときは敵同士だね」
今度は、確固たる冷たさを持って彼は言った。震えていた手も、いつの間にか止まっていた。
にこりと、彼が笑った。
「待って……待ってください」
意識より先に口が動いた。気づけば少女は青年を引き止めていた。
「……なんだい?」
気だるげに青年が返す。その瞳はもうどこも見ていないようだった。
「ワタシには、ここでやらなければならないことがあります。それを果たすまでは、ワタシはここを離れるわけにはいきません。ですが、もし。もしもワタシに与えられた使命が果たされ、ワタシが存在意義を失ったその時は、貴方のその手を……」
その後は、言えなかった。きっと自分は、彼の手を取ることはできないのだろうと、少女は思っていた。華奢な体を抱きしめる少女の脆い両腕が、より一層強く彼女の体を締め付ける。そうでもしないと立っていられないのだ。
彼女を見つめる彼の瞳が、苦しげに歪められた。
「もう少し、優しい嘘が聞きたかったかな」
嘘。
嘘をついたわけではない、と少女は言おうとした。しかし、喉元まで出かかって、ふと疑問に思った。果たすことができないだろうと思っているのに、もし果たせたら、と自分は言った。それが結果的に嘘にならないと、彼女に言う資格があるのか——。
少女はそのまま唇を噛み締めて黙りこくった。
二人の間に静寂が流れる。
「なぁ、パティー君」
青年が声をかける。
「なんでしょうか、ジャック様」
少女はそれに、何事もなかったかのように、平静を装って答えた。
「もし僕と来たくなったら、復讐者の宴へおいで。僕、気は短い方だけど、諦めが悪いからさ」
いつものようにおどけてはいなかった。どこまでも真剣な声音で、少女の方を見ないままで彼は言った。少女は一拍遅れて瞳を輝かせた。先ほどの自分自身の発言が嘘ではないと言われた気がした。
「はい」
青年は横目で少女を見て、笑わなかった。
ただ、叶わない夢を抱かせたことを後悔するように、そっと目を閉じた。
……。
そして、今。
その夢は最悪の形で叶おうとしていた。
「……」
ジャック。
ラウラ様にとっては仇でも、ワタシにとってその人は救世主だった。
今でもワタシは、あの日の答えを出せないままでいる。
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