ひとりぼっちとふたりごと2
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「パティー君は面白いね。本当なら、このまま君とお喋りをしていたいところだけど……。残念ながら、そんなに話している時間もないんだよね。ほら、ここの廊下って隠れるところないだろ? ここで長話して気づかれたら逃げようがないからね。あまり、顔も見られたくないし……いや、見られても何の不都合もないけどさ」
彼の言葉に、少女は首を傾げた。彼女は生まれてこの方この小部屋から出たことがなかったのだ。そのため彼女は、彼に同意を求められても肯定も否定もできなかったのだった。是も非もないことというのが、彼女にはまだ理解できない。この世には善と悪、白と黒で分けられるものしか存在しないと言われ続けてきた。ならば、今目の前にいる彼は白なのか、黒なのか。
意味の無い問いに静寂が返事をする。
静かな部屋の中に二人ぼっち。いつも通りだ、と少女はいつもと違う密度に意味のない安心感を覚えた。人ではない自分と、人でなしの彼では、どうやらこの部屋は満たせないようだった。少女の無関心も、忠心も、青年の澱みのない悪意さえこの小さな部屋を満たすことはできない。そんな無力感に囚われながら、ただ、青年を見ていた。
今度は彼が首を傾げた。
「あれ、君、もしかしてこの部屋から出たことがないの? まあいいや。ここにたくさんの研究員がいたことぐらいは知ってるよね。もっとも、君が目覚めた時には彼らはほとんど残っていなかったと思うけど」
彼の言葉に少女は小さく頷いた。いた、という表現に首を傾げながら、きっとそういうことなのだろう、と思って目を閉じる。彼が何を言おうとしているのか、彼女は既に理解していた。彼女の主、彼女自身、名前、そして、突然少女の目の前に現れた不思議な青年。それらの要素全てが、彼女が最も考慮したくない可能性へと直結していた。
「その研究員が、今じゃ一人しか残ってない。夫妻の助手だった人さ。どうしてだか分かる? ま、これまでの話の流れからして答えは一つしかないだろうけどね」
夫妻の助手。ロース=マリー・フェルトは、賢い女性だ。少女はこれまでに何度か話したことがあった。しかし、彼女は少女に対し苦手意識を持っているようで、常に睨みつけるような目で少女を見ていた。
当然だ。少女の存在そのものが、フェルトの無力の象徴だったのだから。
少女はそっと腕の力を抜き、操り人形のように重量に任せ腕を降ろした。この展開を想定していなかったわけではない。いつか必ず起こることだと理解していた。しかし、予測できる展開が必ずしも望む展開とは限らない。そのことを彼女は誰より知っていた。
「あの方達は」
「ん?」
青年が首を傾げる。その後に彼女が何を言わんとしているか分かった上で、あえて大げさにリアクションしてみせたかのようだ。ブリキの人形のように、錆び付いた動きで彼は少女を見つめる。ガラス玉の瞳が彼の瞳と重なった。
「あの方達には、娘様がいたはずです。もし、貴方の言っていることが真実なら、娘様は——」
「あぁ……」
少女の言葉に、青年は明らかに肩を落とした。声のトーンも心なしか下がったように思える。少女は無表情のまま彼を見つめている。青年は居心地悪そうに視線をそらす。そのまま逃げ出してしまいたいのか、自分が開けた扉に寄りかかるようにして触れていた。
「まだ生きてる……はずだよ。僕自身が調べたわけじゃないけど……。でも、無事じゃないことは確かさ。あの人たちはもう、自分の子供の顔すら分からないんだから」
吐き捨てるように——文字通り、何か嫌な思い出を吐き出してしまいたいように、彼は憎々しげに端整な顔を歪めた。少女はそんな彼の様子を見ながら、頭では全く別のことを考えていた。命令。彼女の主が、彼女が作られてすぐに言ったことを思い出していた。
早く、行かなくては。
少女は柄にもなく焦っていた。
彼女には、命令に沿う以外の生き方が分からなかった。
「主が、傷つけたのですね。ワタシは……。ならば、行かなければなりません。指示を遂行しなければ」
意図せず早口になる。瞬きをすることも忘れ、扉を注視した。その時だけ、彼女は盲目だった。ふらつく足取りで扉の方へと向かう。その瞳には月のような曖昧な光が宿っていた。対して扉の前では、青年が冷めた瞳で少女を見下ろしている。彼は部屋から出ようとする少女を遮り、静かに前に立ちはだかった。少女ははっとなって立ち止まり、そっと彼を見上げる。彼の瞳に光は見えなかった。
絶望と、諦観と、哀れみを混ぜ込んだような、こわれた碧の瞳。
その瞳は彼女が仕える主の、大切なものを失って自分すら失おうとしているような、破滅を願う瞳によく似ていた。
「指示って、何かな。自分たちが狂って子供を傷つけたときの指示でもされてるわけ?」
詰問するような強い言葉が狭い部屋に反響する。押し付けたように感情が抜け落ちたその声は、深層には苛立ちを孕んでいるように思えた。
「はい」
それでも臆せず、彼女は答えた。青年ははっとしたような、安心したような、けれどもやはりどこかで怒りを感じているような表情で、じっと彼女を見つめた。そしてすぐに気まずそうに視線をそらした。
「ふうん……やっぱり彼ら、どうかしてるな。水銀以前の問題だ。馬鹿馬鹿しい」
本当に馬鹿馬鹿しい、と彼は繰り返す。呆れているのか、それとも怒っているのか。彼女には分からなくて困惑する。そんな彼女に気づいたのか、青年は低く唸りながら頭痛でもするように頭を抱えた。そして、未だ苛立たしげな瞳で再び彼女に向き直った。
「なぁ、パティー君。君、これからあの人たちを殺しに行くんだろ? 僕も一緒に行っていいかな。利害の一致……いや、目的の一致、かな。いいだろ?」
その問いは、懇願というよりは脅迫に近かった。たとえ彼女が駄目だと言っても、彼は行くのだろう。彼はただ、形式的に彼女の許可を得ようとしているにすぎなかった。何故だか、そんな風に確信していた。
「ワタシは処理を任されただけです。闖入者の対応については指示を受けていません。よって、許可も禁止も不可能です」
「ああそう。じゃ勝手についてくね。君には悪いけど、こっちにも事情があるんだ」
始めからそういう回答を用意していたかのように、彼は食い気味に答えた。彼女は不満げに口元を歪め、横暴な彼を睨むように見る。青年は迫力のない彼女の瞳を鼻で笑うと、ぽん、と彼女の頭に手を置いた。彼女は目を丸くして、何度も瞬きをした。少しして、頭を撫でられているのだと分かった。
「なんなら、君はここに残ったっていいよ。君が来ても、来なくても、同じ結果になるんだ。それなら人は……もとい、目撃者は少ない方がいい」
「……ワタシも行きます」
絞り出すような声で、彼女は答えた。
青年はほんの少し寂しそうに笑った。
そのまま二人とも、何も言わなかった。扉の軋む音と、二人の足音と息づかいだけが聞こえてくる。
南京錠は壊されていた。
「人間ですね」
少女は何ともなくぽつりと呟いた。それが彼の耳に聞こえたかどうか、少女は知ることはなく、また知ろうともしなかった。
ただ、何かを納得したように、呟いていた。
小さなナイフを握り締め、少女はコンクリートのむき出しになった廊下を歩く。青年は擦り切れて汚れたジーンズのポケットに両手を入れてつまらなさそうにしていた。きっと、そこに拳銃があるのだろう。彼はアストルガ夫妻を自分の手で殺そうとしていた。
少女は今でも明確に記憶している。自分の無力も、主の願いも。あの頃はまだ命令としか受け取れなかった思いに名前があることにようやく気づいたのだ。
名前のなかったその思いは、名前のなかった青年に届いたのか、少女は知らない。
「名前をくれなかったのは、あんたらだろ」
静かな声。少女だけが聞いた声。
返事は、二つきりの銃声。
その後は、何でもなかった。少女が殺すはずだった人を、彼と、夫妻の助手が殺した。
少女は、見ていることしかできなかった。
それだけだった。
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