ひとりぼっちとふたりごと
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「ひとりぼっちとふたりごと」は三部編成となります。
これはとある少女の話。
薄暗い研究所で生き、そこで死ぬはずだった少女が、何故牢獄から抜け出すに至ったのか。それを語ることができるのは、本人である少女自身と、彼女をそこから連れ出した青年。そして、誰よりも少女に同情していたある女性の三人だけだ。
しかし、その場にいたのはその三人だけではなかった。
ある日のことだ。少女の元に一人の若者がやってきた。年は二十歳か、もうすぐ二十歳になろうというところだっただろうか。小汚い身なりで、いかにも貧乏そうな、けれど顔だけは端整な青年だった。彼はどんな手品を使ったのか、開くはずのない鋼の扉を簡単に開けて少女の暮らす小部屋へとやってきた。彼は薄幸そうな表情で微笑む。その笑顔は不気味で、心を持たないその少女でさえ、この男は危険だと察した。
「いきなりごめんね。面白い話をするから、許してよ」
微塵の許しを乞うているようには見えない人の悪い笑顔を見せて、彼はひらりと手を翻した。両手を広げる。少女がその腕に飛び込むことを期待しているようなその姿に、少女は首を傾げた。彼は残念そうに笑って、一言、だよね、と言った。
「僕の名前は……と言いたいところだけど、生憎名前がなくてね。とりあえず君の名前を聞いてもいいかな」
青年は皮肉っぽく笑った。それが少女に名を問うことへの皮肉なのか、あるいは彼自身に対する皮肉なのかは分からなかった。ただ、彼の微笑みが引きつって見えたのはおそらく間違いではないのだろうと少女は感じた。彼は何かが欠落している。その何かを少女は知らなかった。だから彼女は彼の不自然な表情も気にせず、毅然としているのだった。
「ワタシはパトリシアと言います。個体番号は……」
「あー、いいよそんなの。名前だけ分かればいいさ。しかし——知り合いの妹と名前が似てるな。じゃあ……そうだ!」
青年は顎に手を当てて数秒唸った後、名案でも閃いたかのようにぱっと表情を明るくさせた。その時の彼の表情は年齢に見合わないほど幼く、まるで十代の少年のようだった。先ほどの皮肉な笑みとの差に少女は身を震わせた。彼女自身にも理解できない悪寒が彼女を襲ったのだ。この男は、何か螺子が外れているのだ。噛み合わない歯車を強引に動かしているような、そんな拙い恐ろしさのある青年だ。少女は何の根拠もありはしないのに、何故だかそれを確信した。そうさせるだけの力が、彼の中にはあったのだった。
彼女に危機感を抱かせたのは彼の違和感だけではなかった。少女と名前の似ている人物とその姉を、彼女は知っていたのだ。その人物とこの男が知り合いだという情報は、彼女にとって大いに有益な情報だった。それと同時に、とても恐ろしい結末を予感させる情報だった。
そんな彼女の様子に気づきもせず、男は話を続ける。
「君のことは、パティーと呼ぶことにするよ。もっとも、僕はあまり人を名前で呼ばないんだけどね」
冗談めいた口調で言って、それから彼は小さく笑った。少女はまだ、その呼び名に慣れていなかった。彼に聞かれて、やっと自分の名前を思い出したのだ。それまで彼女を名前で呼ぶ者はなく、彼が聞こうとしなかった個体番号でしか呼ばれていなかった。そのため、彼女は彼の言葉に柄にもなく動揺した。二人の距離が途方もなく遠く見えて、これまでの会話の全てが幻であったなら、などという妄想に駆られる。それほどまでに彼女は当たり前の日常という者に縁がなかったのだった。
「それじゃあ……まずは、君の材料について話そうか」
そう言って彼は指を鳴らした。まるでこれから劇でも始まるかのように、大げさな動作で語りの場を整えていく。その華美な物腰とは裏腹に、彼の言葉は物騒極まりなかった。彼はさも当然のように材料という言葉を口にするのだ。それに対して少女が嫌悪感を抱くことはなかったが、彼の方は、その言葉にほんの少しの罪悪感を覚えたようだった。少女は無表情のまま彼を見ている。するとなぜか彼の方が哀しそうな表情を浮かべた。何故だろう、と思ったが、少女はなにも言わなかった。
「君の材料だけどね、その一つの、ちょっと特殊な水銀があるんだけど、そいつが人体には有害でね。記憶障害やら妄想幻覚やらが起きるとか何とかで、学会じゃ使用に規制がかかってるらしいよ」
まあ、僕は学会のことなんて知らないけどね、と付け加える彼。言葉の端々から悪意が伺えた。彼は学会、ひいては研究者というものに対していい印象を抱いていないのかもしれない。少女は考える。
ならば何故、この男はここへ——アストルガ夫妻の研究所へと足を運んだのか。
「貴方の目的はなんですか」
「おや、やっと喋ったね。てっきり言語機能に問題でも起きてるのかと思ってたよ。違うなら、良かった。ほら、もっとお喋りしよう」
彼は心底楽しそうに声を上げて笑った。少女の質問は彼の耳を素通りしたようだ。ただ、少女が言葉を発したという事実だけが彼の好奇心を刺激したらしかった。変な人だ、と少女は思う。変人たちの巣窟と言っても過言ではないこの研究所でも、彼のような人間までは取り揃えていなかった。もっとも、少女はこの研究所にいる人間以外の生き物を情報でしか知らなかったのだから、きっと、彼のような人間も外の世界にはごまんといるのだろう、というのが率直な感想だった。
「ワタシは回答を求めています。貴方の目的はなんですか」
「大丈夫……急かさなくったってすぐに分かるよ。今すぐ聞きたいというのなら、教えないこともないけれど、しかしそれだと僕の身が危ういのでね……ま、順を追って説明するとしようか」
呆れたように肩をすくめる。少女に言うとまずいような動機でここへ来たのか、と彼女は身構えた。それに気づいた男がやれやれといった表情で肩をすくめる。それを見て、彼女はわずかに警戒を解いた。すると彼はほんの少し嬉しそうにして、先ほどよりいくらか明るい声で話を続けた。
「水銀の話はさっきしたろ? 勘の良さそうな君ならもう気づいているかもしれないが、しかし、気づくにしたってヒントが少なすぎるからね。もう少しヒントを出すとするなら……そうだね。もう一つの君の材料について、とかがいいかな」
わざとらしく人差し指を立て、胸を張る。彼は少し大げさなところがあった。今思えば、彼はそうすることで己の惨めさを少しでも隠そうとしていたのかもしれない。彼が分かりにくいのは、今に始まったことではなかった。
少女は男の動向に気を配りつつ、辺りの様子をうかがった。彼を見る振りをして逸らした視線の先に人影を見つける。彼女はその姿に見覚えがあった。少女はその人影を訝しく思いつつも、気づかない振りをして男の方に目を向けた。彼は薄気味悪い微笑をその整った顔に浮かべながら、楽しそうにこちらを見ていた。
「君、知ってるかい? 君の精製には、それはそれは大量の血が使われているんだよ。それこそ、戦争で流れるのと同じくらいの血が、君には使われているのさ。だから君のような存在の研究をしているヤツらは腫れ物に触るように扱われるってわけ」
腫れ物に触るように扱われる、という部分だけを不自然に強調して男は吐き捨てるように言った。今までの柔和な口調とは大違いだ。少女はますます目の前の青年のことが分からなくなった。いつもは見慣れた薄暗い石造りの小部屋が圧迫的に見える。こんなことは初めてだった。無意識のうちに後退する。少女に恐怖するという概念はない。しかし、そんな彼女でさえも恐怖を自覚するほどに、その青年は歪で不気味だった。引いた足がテーブルの角にぶつかる。少女は無表情のままびくりと体を震わせて振り向いた。彼はそんな少女を見て、口元に手を当ててくすりと笑っていた。顔色をうかがうように男の方を向く。女性であれば上品だと言われるであろうその動作は、貧相な身なりの、顔立ちだけは整った男がするとなんだか違和感があった。
笑っているときの彼は、毒気が抜けて、少年のようだった。
だから余計に、怖かった。
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