紅薔薇フェルトの未完成な必然
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今回、残酷な表現が多数ありますのでお読みになられる際はお気をつけ下さい。
その日は雨が降っていた。
今にも雷が落ちそうな豪雨の中を、あたしは傘も差さずに研究所に向かった。世界の終わりみたいな気持ちで向かった先では、アストルガ夫人——イレーネさんが不気味に笑っていた。
壊れたように。
「あら、貴方——どなたかしら?」
どこまでも冷えきった声で問う彼女に、あたしは悲哀を覚える。最初はなんてことはないただの物忘れだった。それが今では助手であるあたしの顔も——娘の顔すら分からなくなってしまった。あたしがもっと早く気づけばよかったなどと後悔してももう遅い。夫妻に残された選択肢は二つ。
「ッ——! かっ……は……ぁ」
「あぁ……動いちゃダメよ……? うまく採血できないじゃない……」
このまま、新たなホムンクルスを生み出すために罪のない人々を犠牲にし続けるか。
それとも、今ここで。
死ぬか。
「どうした、イレーネ……? ん、客人か?」
「——ッ」
もどかしい、辛い。
あたしはこの人たちを殺したくなんてない。まだ科学者としては半人前にも満たなかったあたしを拾ってくれたのはこの人たちだ。家は貧乏で学もないあたしを、何も聞かずに受け入れてくれた。いわば命の恩人なのだ。あたしは薬学、夫妻はさまざまな分野に精通していたから、見ているだけでもかなり勉強になった。未知の病にかかった妹パトリツィアのことをぽつりと漏らしたあたしの背中を押してくれもした。だからこそ、あたしに二人は殺せない。しかし、このままいけば二人の娘——ラウラ嬢もただでは済まないだろう。
ホムンクルスの生成には人間の血が必要となる。最初は自分たちとあたしの血を使っていた。しかしそれでは足りなくなり、夫妻は死体から調達するようになった。そこまではよかった。しかし、そこで問題が生じた。死体から調達した血ではホムンクルスは成長しなかったのだ。そこで二人がとった手段。それは生きた人間を大量に集め、それらから血を得ること。
そのうちの一人が、ラウラ嬢だった。
大量出血で死に至る者、栄養失調で餓死する者。たくさんの人が命を落とした。ラウラ嬢も歳の割に小柄で、成長が止まってしまったように見えた。
いっそ、ラウラ嬢をさらっていってしまえばいいかとも思った。しかしそれではその他の多くの人々を見捨てることになる。そんなこと、あたしにはできない。あたしは恩人と多くの人の命を天秤にかけて、決めた。
どうせ悲劇なら、あたしの手で終わらせよう。
「ごめんなさい、アストルガ先生。でもあたし——もう決めたんです」
もう二人には子供の顔も分からない。そんな風になってまで研究を続ける二人は見ていたくなかった。だから、これはあたしの我侭だ。あたしの我侭であたしは恩人を殺す。とんだ恩知らずだと思われても構わない。それでもあたしの恩人の名誉と誇りを汚されるのだけは許せなかった。
ただ、最期に、一度だけ。
「このホムンクルス、パトリシアって言うんだってね。助手のことは忘れておいてその妹の名前をつけるなんて、悪趣味にもほどがある」
「な……どうしてパトリシアがそこに——? 貴方が連れ出したのですね!? 何と言うこと……。早くパトリシアから離れなさい!」
イレーネさんが捲し立てた先、その言葉の向こうにいたのは、薄汚れた身なりの青年と白髪赤目が特徴的な少女だった。夫人の言葉に青年は肩をすくめると、虚ろな瞳で夫妻を睨みつける。
「思い出さない……か。期待するだけ損だったな」
「貴様! 名乗らないか!」
テオドーロ先生が怒鳴りつける。彼は聞いてはいけないことを聞いてしまった。
青年は憎々しげに答えた。
「そうだね——。名無しだから『ジャック』でどう?」
そういって彼はテオドーロ先生の額にワルサーP38を向けた。ついにこの時が来たのだ。あたしは暴れる心臓を押さえつけてイレーネさんに銃口を向けた。
「ほら、最期に言い残すことは?」
挑発するようにジャックが言う。その冷酷な響きに胸が痛んだ。
ホムンクルスの少女は何も言わなかった。
ただ黙って、この凄惨な光景を見ていた。
夫妻は動かない。
「——パトリシア、娘を……ラウラを、守りなさい」
アストルガ夫妻。
貴方たちは、思い出すのが遅すぎた。
銃声が響く。
「さようなら、先生」
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