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トラブル

そのあと一月ぐらい経ったころのことだった、その日は弘樹が早番だった。

裏の事務所のカギを開けて入ると、もう日は高かったが、彼岸を過ぎて風が少し出てくるのか、夏の日のもわぁとした湿った熱気はもうなかった。

それでもまず空調をいれる。本来なら窓を開け放って換気をしたかったが、それは禁止されていた。「超研」の部室でもやっていたが、窓を開け放つのは弘樹の好きなことだった。

机の上に日報があった。

仕舞い忘れたのではなくて、読んでくださいというように置いてあった。昨日の遅番は店長ではなく桜井の担当だ。

照明を入れ店内を一巡してから、その日報を手にした。


9月28日 (水) 

22:16ごろ、レジでバイトの水口とお客さんがもめているので、様子を見に出て行った。レジの順番が違うというので、お客さんは強硬に抗議していた。

水口は謝っていたが、納得するようではなかった。

それで私からも謝罪したが、聞こうとしない。

声も大きく、他のお客さんにも迷惑なので、事務所で話を聞くことにした。

レジでの扱いが悪く、店員の教育がなってない、と今度は私にクレームをつけてきた。

それでも、

「申しわけありません」と謝ったが、納得せず大声で非難し、机をたたかんばかりにするので、理不尽と思い

「暴れるなら警察を呼びますよ」と言った。

すると、「呼んでもらわうか」と背を向けて今度は口を利こうとしない。

さらに謝罪したが、動こうとしないので、交番に連絡した。


ハッキリとした意図がわからないし、何かを要求しているわけでもなかった。

ただ、店内でも大声を出していたし、事務所では、そのうえ威圧的でもあったので、

「お客さんとトラブルになり、暴れるので見に来てほしい」

と通報した。

珍しく、警官は二人ですぐやってきた。

顔見知りの人だったので、「よろしく」というふうに引き合わせた。

型通りの質問をして、おとなしくもしているので、そのまま引き取ってもらった。

帰り際に「覚えておけよ」と捨て台詞を吐いて行きました。


以上、報告します。


一読してまずいな、と思った。

桜井は弘樹より二才若いが、まじめで仕事熱心な男だった。ただ少し融通が利かないような性格に見受けられた。たぶん、脅かされて驚いたのだろう。防御的でありすぎたかもしれない。心理的にはそうかもしれないが、実際そうであったのかはわからない。反対に言えば、その男が巧妙であるのか、少なくとも初めてではない気がした。いわゆる、クレーマーではないだろうか。

暴行の証拠的なものはないし、実際手は出していない気がした。

どちらにしても、防犯カメラで確認してみなくてはならない。いろいろな場所、角度で十数か所カメラは設置されているが、事務所の中を正面から映したものはない。まず、レジの後方から正面を撮ったものを見る。今はCDになっているのが多いが、ここのはテープのものだった。

一カメ、と呼ばれるメインの装置だった。四,五分前から、テープを回してみる。再生はコマ送りのようになる。多くの場合レジは一台で動いていた。三人目のお客さんが並んだら即座に第二レジを使うというのが、マニュアルだった。店内や事務所で作業中でも、すぐレジに駆けつけなくてはならない。

だれもいなかったレジに、三人連れの学生がやってきて、各々に商品を出している。

その横に雑誌を手に体を揺すっている男がいた。

若い女の人が学生の後ろにとりついた。そのあと、女子の後ろに背の高い男が並んだ。学生たちが去って、レジの正面には女子、横に男というようになってしまった。

男が、レジ台に雑誌を置くのを見ながら、バイトの子は女の人から商品を受け取った。男がなにやら言っているのが聞こえる。

「少々、お待ちください」と言っている。これは事務所の方に向かってのサインでもあった。このタイミングで桜井が出てくるはずだった。

映像は、女子が袋を提げて背を向けるところだった。男は手を振って、怒っているように見える。本は入らないとカウンターに置いたままになっている。

桜井が出てきて、隣のレジを開け、並んでいた客の接客をしている。二人の処理をして、バイトの子と二人で男と話している。さらにお客が来たので、バイトの子が二レジを使い、男の対応は桜井がしていた。

男と桜井は消え、バイトの子が接客を始めた。二人は事務所に入ったのだろう。

この間十数分だった。事務所の入り口が映っているカメラを確認しなくてはならないが、その前に荷物の仕分けをしておかなくてはならなかった。


一仕事終えて、テープを見たが警官が来たときからドアも閉められ、中はわからなくなってしまった。書類を点検しながらちらちら画面を見ていたが、10分ほどで男が出てきて、続いて警官。最後に桜井が出てきて、後は中のイスを映しているだけになった。

ちょうど昼休みの時間になった。バイトの子を食事にやるためにレジに立った。レジの中でやる仕事もいろいろある。客注品のチェックをしていたら時間が過ぎた。事務員らしき人がパラパラ訪れて雑誌を買って行く。のんびりとした秋の昼だった。

バイトの子が戻ってきたので、店長はもう出勤だろうが、交代して昼休みをとることにした。日報とテープを店長の机に置いて、メモをつけた。

「トラブル発生のようで、日報にテープ確認ください」

これで弘樹がいない間に来ても大丈夫だろう。

この件で弘樹にできることはもう何もない。


定期的に憂愁が襲ってくる。何が引鉄になっているのかは分からない。そんなものないのかもしれない。徒労感が募り非常に疲れる。どこかでそれは内臓の思考なんだ、と読んだことがあった。そうすれば心臓だろうか。

重い気分は消化器系に相応しい。胃が痛いような顔の人は想像がつく。寝不足では陽気になれない。目がしょぼしょぼする、だるい。ただ食欲はあった。ラーメンとチャーハンの定食をたいらげた。消化器系ではないらしい。

実は小学校の低学年まで、ほとんどものを食べなかった。好き嫌いが激しいというのだろうか、食べたいと思うものがなかった。今考えるとホテルの洋食系の朝メニューのようなものは食べられたのかもしれない。

ただ、そういうものは食卓には並ばなかった。野菜は大根だけしかだめだった。魚もダメ、鶏肉、脂身もダメだった。においの強いもの、ねばねばしたもの、ぬるっとしたものもダメだった。肉は噛むだけで飲み込むことができなかった。牛乳をはじめ、乳製品は好きだったけどアレルギーで食すと咳が出た。

その当時の写真を見ると、ガリガリで目だけ見開かれたような顔をして、いつも遠くを見ていた。これは少し仮性近視だったからかもしれない。

ポケットに手を突っ込み、身体を斜めにして、目が眩しそうなポーズだ。自分では気がつかなかったけど、はるかがアルバムを見ていて、「弘樹って、赤ん坊の時からホウレイ線があるね」と言っていた。

これが劇的に転換する。

きっかけは何だったのだろうか。林間学校といって、夏休みに泊まりがけで学年全員で二、三泊の合宿があった。そのとき出されたものは全部食べなくてはいけないルールがあったのかもしれない。トンカツが食べれなかった。キャベツはソースづけにして流し込んだ。豚の脂身を噛むことが出きなかったのだ。それで小さくして喉に触れないように呑み込んだ。ほとんど泣きべそ状態だったと思う。

それではいけないんだ、とそのとき急に思った。こんなことしててはいけないんだ、と決意した。たぶん、かっこ悪いと考えたんだと思う。それになんでも食べないと大きくならない、という脅しも利いたかもしれない。子供心に強くなりたかったし、人に負けるのは嫌だった。

最初はやはり呑みこむことしかなかった。生卵の白身は発狂しそうだった。ご飯に混ぜてぐるぐるかき混ぜているとヌルヌルがなくなることを発見した。豆腐も同じようにかき混ぜていたら、父親に怒られた。それで仕方なく小さくカットして口に放り込んだ。とにかく出てきたものは食べる主義に変えたのだった。それから弘樹はだんだん大きくなっていった。


対応に付いて、行き過ぎたかなという認識を桜井は持っているようだった。そこに誘導されてしまった感もあるみたいだった。

「どうして警察を呼んだのか、冷静になってみるとよくわからないんです」

誰かと連絡をとるという考えはなかったのか、と店長は訊いた。

「そんな大それたことになるという気はしなかったし、自分で十分片がつくと考えていました」と桜井は答えた。

店長は決して桜井を責めなかったし、嫌な顔もしなかった。もつれた糸をほどこうとでもしてるみたいに、ゆっくり経過を聞いていった。

落ち度という意味でいえば、客の男に責任はなかった。あるとすれば、周りを不快にするような雰囲気を持っていたということだろう。クレーマーという言葉が頭を回っていた。

桜井に同情はしても、自分ならもっとうまく処理できたのではないかと弘樹は思っていた。虚勢ははっているが気の小さい男に思えていた。もちろんそんなことは言えないし、言っても意味がなかった。問題はこの局面をどうさばくかということだった。どこがどうまずかったのか相手の立場に立って分析してみなくてはならなかった。金品でも要求してくれば、それこそまた警察へ相談ということもあったが、そういう展開にはならないようだった。

桜井が弘樹の部下であるなら、警察を呼んだことの対応を非難していたと思う。そうするべきではなかった、と思うが店長はそのことに何も言わなかった。部下を庇っているわけではないが、対応のまずさを指摘もしなかった。

「本部から何か言って来るまでこちらは待機だな」

そう言って、話は終わった。


それから三日経った。

本部と店長での打ち合わせはあったようだが、弘樹の耳には入ってこなかった。早番の日だったが、「ちょっと残ってくれ」と店長に言われた。

「例の人が来るらしい」

駅の喫茶店で会うことになったらしい。弘樹は顔が割れていないようなので、近くに席を取って、監視してくれということだった。

本部から来た北沢という男は、ひどく若く見えた。30歳は越えているはずなのに弘樹と同じ程度には見えた。小柄で優しい顔をしているせいかもしれない。

三人で、その北沢と店長と桜井は並んで駅の階段を上って行く。弘樹は少し遅れて進んだ。彼らを見張っているようだった。

駅ビルの三階の喫茶室に入る。入り口が見える通路側に席を取った。弘樹はその手前の斜め横に座った。やってくるその男のたぶん背中越しになる感じだった。

その男は防犯カメラに映っていた感じより太って見えた。年齢は30代の中ごろだろうか。三人が立って男を迎えると、うすら笑いを浮かべ、そのまま空いている席に座って、三人を見上げた。言葉は発しなかった。

「…さん、このたびは大変申し訳ございませんでした」

北沢がまず口を開いた。名前の部分は聞こえなかった。店長が次に詫びを入れている。桜井が何か言おうとすると、「お前は何も言わなくていい」と男は言った。

「お前の声は聞きたくもないんだ」

三人は立ったままだった。

「それで、結論をきかせてもらえるかな」と男は北沢を見ていた。

「失礼して座らせていただきます」と北沢は言って、店長に席を勧めた。

三人が座ると北沢は意を決したように言った。

「西田さまの仰っていたことでございますが、担当の桜井の件はご要望には応えられません。もちろん厳重に注意をして、このようのことの無いよう十分な注意を払いまして今後に生かしていきたいと思います」

聞いていて、はっきり何のことを言っているのか、弘樹には分からなかった。ただ推察することはできる。要するに曖昧にして過ごしてしまいたいのだ。

暖簾に腕押し、という言葉が浮かんだ。それを狙っている。慇懃無礼ではあるが、言質を取らせない官僚の答弁のようだ。

「納得できないナ」

西田と呼ばれた男は答えた。

まあ、そうだろうな。

「この男を首に出来ないなら、その責任はきっちり取ってもらおうか」

結構冴えているように思える。昔、大手の新聞はインテリが作ってヤクザが売るといわれたが、彼はマスコミ系の人間かも知れない。そこをひけらかしてもいない。嫌な奴だが、話の筋は通っている。知っていて、いちゃもんをつけている。

愉快犯のタイプなんだろうな、と弘樹は思った。予想していた危険、暴力的な場面はないことは分かった。

「どうしたらよろしいでしょうか」

北沢はあくまでも低姿勢で対応している。

「まあ、とりあえず土下座して詫びてもらおうか」

またうすら笑いをして西田は言った。

北沢は少し気色ばんだようだった。

息をのんで、一呼吸おいた。

「誠に申し訳ありませんでした」

と、一礼して立ちあがったのは店長だった。そのまま、イスを脇によけ通路に膝まづいた。なにやら感じるものがあったかもしれない。ここでけりをつけるというような意気込みだろうか。

何か運んできたウエートレスが、トレーを持ったまま口を開けて立ち止まった。近くの客がそわそわしだした。店長はそれを気にせず、深々と頭を下げた。

「部下の者の教育が到りませんで、ご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」

ハッキリと店長は言った。かなり大きな声であったかもしれない。

「お許しください」と言って、立ちあがると、西田の横にそのまま立っていた。

弘樹には店長の手が握られ、少し震えているように見えたが、西田は気に留めていないようだった。

続いて北沢も膝をついて、こちらはなにやら芝居ぽく頭を下げた。そうでなくてはやっていられない、という気持は弘樹にはよく分かった。桜井が立とうとしたら、西田は手を振って、「お前はいい」と言った。

「碌でもない部下を持つと、上司も苦労するな」と満足げに頷いた。それから何やら話しだしたが、弘樹は聞いていなかった。立ったままの店長が、その拳を振り上げはしないか気になった。そんなことは実際おきはしないのだが、白日夢のようなシーンが浮かんでいた。

たっぷり嫌味は言いつくしたようで西田は立ちあがり帰りかけた。

「お気をつけて」と店長が、後ろから声をかけた。西田は、ちょっと足を停め振り返りそうになったが、そのまままっすぐ歩いていった。

「明るい夜ばかりではないよ」

よく聞き取れなかったが、店長がそう呟いたような気がした。

それで、この事件は片が付いたのだった。


10月も半ばになって、すっかり涼しくなり北の方から紅葉の便りが聞こえてくるようになった。もう離婚の話を切り出すしか、弘樹にできることはないと覚悟を決めた。

「会って、離婚の話をしたいんだ」とメールを打った。

しばらく返事がなかった。なにやらおかしな感じだった。返事が来る確信があった。メールは届いているはずだった。そこで、初めてはるかの消息を尋ねてみる気になった。

会社に直接電話をしてみた。受付の案内嬢は、しばらくお待ちくださいといって、音楽が流れた。

「こちら編集です」

せかせかした感じの男の声が突然聞こえてきた。弘樹はとっさに、00書店ですが、と応えた。どう思われても構わないと心に決めて、

「斎藤はるかさんは居られますか」と尋ねた。

「どんなご用件ですか」

取りあえずという習慣的な感じで訊いてきた。

「以前あった問い合わせの件でお電話したのですが」

「出張中です」

ちょっと粘ってみた。

「いつお帰りですか」

「海外の研修だから当分戻ってこないかな」

その男は興味なさそうに答えた。弘樹は礼を言って電話を切った。あの深夜の電話のあと、すぐはるかは立ったような気がした。


はるかの両親はそれぞれ結婚し、別の家庭を持つことになって、はるかは母親のところにほとんど行かなくなった。遠慮しているのかもしれない。仲が悪いということではなかった。それぞれ自立した、ということなのかもしれなかった。

弘樹は母親に会うことにした。

電話をすると、落ち着いた人を安心させる声が聞こえた。弘樹はあまり好みはないのだけれど、唯一女の人の甲高い声が苦手だった。鈴のような声も好みとはいえなかった。はるかもそうだけど、その母親の声も好きだった。

自分から電話をしたことはあまりなかった。はるかに代わって話したことは何度かある。でも、驚いたようではなかった。そういう感じを与えるだけなのかもしれなかったが、最初にあった時から深い静かな印象は変わらなかった。しゃがれた声とは違う、独特な声質だった。どこか子守歌に似ているのかもしれない。

質問攻めにするようなことはなかった。たぶん多くのことを聞きたいのだと思うけれど、じっと相手が話すまで待っているタイプだった。自分がずいぶん素直になっていくのがわかる。最初にあった日のままだった。ひどく懐かしくて、純粋にあのときははるかを愛していたな、と思えてくる。こころの中で大事にしているものがあって、それを思い出すと身体が震えてくるようだった。

はるかに会いたいと感じた。会って抱き締めたかった。もう永遠に手の届かないところに行ってしまったのだろうか。そうなんだ、それを納得しなくてはいけないんだ、と頭の中でこだまが答える。

「では、そのときに」

約束の日時と場所をとりつけた。涙が出そうだった。


指定された郊外の駅は、弘樹が通勤している電車の途中駅だった。私鉄の連絡駅でいつもどこかを工事しているような街だった。何度か降りたことはあるが、いつも方向を間違えそうになる。それで待ち合わせは改札を出て正面に見える、オープンカフェにしてもらった。

奥の席ではあるが、入り口がのぞける位置に座った。遅れないよう出てきたので約束の時間までにはだいぶ時間があった。何を話そうとしているかは、あまり考えていなかった。離婚のことだって言い出すかどうかは分からなかった。ただ会ってポツポツと話してみたかったのかもしれない。はるかに会うなら離婚の話しかなかった。でも母親なら、なにやらはるかに関連した話ができそうな気がした。そうしたかったのだ。

プライドなんだろうか、そうでもない気がしていた。

店長はあのとき、明らかに話を終わらすために土下座をしたんだ。ひどく屈辱的で耐えきれなさそうではあったけど、店長は我慢したのだと思う。そういうのは自制心というのだろう。あそこで切れたら思うつぼだ。それに引きかえ桜井は怒りや恐怖を制御できなかった。挑発して楽しんでいるのだな、と今考えればわかる。だから店長はそれに乗ったふりをして終わりにしたんだ。


感情を表現することがひどく苦手だった。反抗期さえ、それはひどくわがままにはなったが、親と衝突することなくやり過ごしてしまった。優等生というタイプではなく、内向的で壊れそうな心を押しかくしていたのかもしれない。

恥ずかしがり屋で、ちょっと斜に構えてはいても周りに打ち解けないことはなかった。そう思っていただけなのだろうか。みんなと遊んでいてもどこか一線を画すようなところがあったかもしれない。ただ仲間外れにされたり、けんかしたりした記憶はなかった。先頭を切って何かをするようなこともなかった。

ゆっくり辺りを見回している、はるかの母親を見つけた。弘樹は立ちあがって手をあげた。それに気づいて彼女は顔をほころばせた。初めて会ったのは、弘樹が二十歳になる誕生日の日だった。あれから数えれば、六年が立っているわけだった。弘樹は自分だけがずいぶん年を取ってしまったように感じていた。何かひとかどの人物になれる気がしていたのが、先が全然見えてこなかった。徒に自分が朽ちていっているように感じられた。既にもう自分が抜け殻のように思えていたんだ。人が見れば、ひどく生気がないような人間に見えるに違いない。

はるかの母親は早紀といった。彼女は近づいてくると、手首だけ挙げて、弘樹の前の椅子に座った。池袋のマンションは引き払って今は東横沿線に住んでいた。資産家の後妻になったようだ。今いくつなのだろう。十歳は若く見えるようだった。明るい、温かそうな服を着ていた。

「元気なの」というのが第一声だった。

座ってすぐ、挨拶もなく顔をあげながらだった。たぶんどうしてるの、という意味なんだと思う。

「ええ、なんとかやってますよ」

ほほ笑みながら答えた。そんなにひどい顔をしているわけではないだろう。早紀は、顔つやがよく充実しているように見えた。少し太ったのかもしれない、その方がいい感じだった。

「結婚生活はどうですか」と、少し茶化すように訊いた。

「家事手伝いというの、古い家だから片付けばかりしているわ」

二人して笑った。そんなに屈託はなかった。

「はるかがいなくて大変でしょ」

どう答えたらいいんだろう。

「ええ」といいながら、今日はご機嫌伺いだなと覚悟した。

込み入った話は弘樹がするべきではないんだなと納得した。

はるかはオーストラリアに行く前に、早紀のところに現れたようだった。

「急に決まったようなの。はるかが決めかねていたようだけど、主婦としたら当然よね」

すこし伏し目がちにしていたが、そのとき顔をあげた。

どうなの、という表情をしていた。弘樹は何も言わなかった。これはいつも通りの反応だった。口を少しすぼめたかも知れない。早紀はそれをどう判断したか、話を続けた。また頼んだ紅茶の白いカップを見ている。

「あの子は、自分でなんでも背負いこむの、それで自分で判断して曲げないの。頑固なのは父親似ね。決して非難してるわけじゃないのよ」

そして意を決したようにカップを取り上げ、一口飲んだ。この仕草ははるかに似ている。BGMの弦楽器がかすかに聞こえた。まわりはガチャガチャして静かな環境ではない。街の雑踏のようだった。ただ大きな声を出していないのは周りの席に人がいないからだった。入り口の近くのオープンになったスペースは人が一杯だった。

「はるかには少し負い目があるの。離婚の決断は変えられなかったけれど、はるかが苦しむのがわかっていたから。もちろんはるかは賛成してくれたし、ちょっと不安定になっていた私を支えてもくれたわ。でも、はるかの家庭はなくなってしまったの。二人で暮らしてもそれは家庭ではなかったわ。同居人ね。はるかがあなたと付き合い始めたと聞いてほっとしたの」

早紀は何を言おうとしているのだろう。弘樹は彼女の肩越しにフロアを眺めていた。向かいのカウンターの女性と目があって、慌てて首を戻して額を指で掻いた。

「ひどく印象的でした。都会の人たちの生活をのぞくようで、不思議な感覚だったな。食べたことのない料理も出てきたし」

「たくさん食べてもらって、うれしかったわ。二人でいれば料理らしい料理も作らずに過ごしてしまうから。来てくれるのは楽しみだった」

「そうですか、私の方には遠慮があったかな」

「そういうところがはるかの好みなんでしょ。なれなれしい人は苦手みたいだから」

いったい全体、はるかは弘樹に何を望んでいたのだろう。そして今それがなくなっているのがわかる。

ご免なさい、と急に謝りたくなってしまう。あなたのお嬢さんをぼくは助けることができなかった。はかなげに立って、実際はしっかりとした足取りではるかは進んでいるのだろうか。実際は逆なのか。どこかで交錯して、曖昧に笑うはるかが思い浮かぶ。

もうあなたは必要でなくなったの、と額に烙印を押されたようだ。そうだったのか、愛想を尽かされたというわけか。今更ながら不在の意味が持ちあがってくる。

お互い未練を断とうと、もがいているのかもしれない。

はるかは何か自分について言ってましたか、と喉まで出かかって口には出せない。

私が聞きたいわよ、ときっと早紀は答えるだろう。

決まったことしかはるかは口にしなかった。若くあるからこそ、自分のスタイルを強調するのかもしれない。怖かった親がやさしく見えてくるのはやはり年のせいなのだろうか。急に逝った母が気弱に思えたのはいつからだったろう。

はるかは一本気で、前を向いたらそこしか見えない。彼女はきっと何かをつかむのだろう。そこのバネになっているとしたら、自分も役割を果たしたのかもしれない。


弘樹の青春は苦い思い出になるのかもしれなかった。




ふたりの時  完



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