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転職



前にバイトしていた書店の店長から社員にならないかと言われていた。彼は今は本社に行っていた。給料が大幅に増えるわけではないが、身分的に安定するし、時間も今よりは規則的になる。それに仕事に対しても不安はなかった。勧められるままに学生時代に本社の研修も受けていたし内部資格も持っていた。

反対に言えば、だからなのかもしれない。


「働く気になったら声をかけてくれ」と言われていた。

はるかのことが、こんなでなければ思いだすこともなかったのだが、その晩、急に思い立った。

次の日の朝、榎田さん、というのが前の店長の名前だったが、その名刺を引っ張り出して電話をした。居ても立っても居られない、という言葉があるがそんな感じだった。勢いをつけたかったのだ。

一度、本社の方へ来てくれということになって、面談の日が決まった。

はるかはたぶん喜ぶだろう。多くのことは時間的な余裕がなかったことに起因している。実は解っていたことだが、その生活に決着をつけなくてはいけないとうすうす感づいてはいたんだ。

居心地がよかったわけではなかったのだが、踏ん切りがつかなかったんだ。四日に一度の休みと午後からの出勤で給料が同程度という条件が自分にあっていそうな気がした。時間的自由が自分にあるような気がしていたんだ。それに社会的なしがらみにあまり縛られない環境がだ。

だがそれが原因ではるかと齟齬が生じている、全部の理由ではないけど。

なんとかしなくいけないんだ。

学校を卒業して四年、その間自分は何をしてきたんだろう。

本を読んだり、文章を書いたりして何かモノになったのだろうか。社会的な評価は望んでいなかったけど、自分の中で何か達成できたことがあったのだろうか。この生活を続けていく意味がどこにあるのだろう。

陸上の選手なら練習してタイムを詰めていけばいいし、野球の投手なら同じところに投げる技術を身につければいい。そんな感じで何かが自分に身に付いたのだろうか。やはり自分に自信がないし、疲れているのがわかった。

とにかく何か自分の中のものを動かしてみるしかない、というのがこのひと月の結論になった。


弘樹は堂々巡りのような仕様もない思いにとりつかれていた。ある場所を探していて、地図もあるのに全然見つからないという場合だ。結局、その地図がインチキだった、と結論付ける。正確でない地図は意味がない。解ったことは、その場所は存在するが、どことは特定できないということだった。

架空の場所、ではなくてかつてあって今はない場所。あるいは、かつてあって、今は別のものになっている場所。たとえば、前はやっていた寿司屋がつぶれて、ラ-メン屋になっている場合だ。かつそのラーメン屋の位置も定かではない。

なんだかそんなことを考えていたら、少し腹もすいてきた。駅前の立ち食いそば屋にでも行ってみよう。長老とよく行ったな、と不意に思った。みんな何しているんだろう。

そういえば、はるかが海保に会ったとか言っていた。仕事は金融関係とからしいけど、どうだかな。まともなシンクタンクならいいんだけど。

長老や会長がいなくなって、こけしも卒業して「超研」は機能しなくなった。まとまりがなくなって、自然消滅してしまった。ばらばらな小さな単位になってしまったんだ。

弘樹とはるかはその小さな単位だった。二人でいつも一緒にいて充足していた。ジョガーは修行の旅に出て行った。海保は怪しげな団体のオブザーバーだったし、卑弥呼はしばらくして会長と結婚したようだった。もう会うことはなくなっていた。

そのあと野球部がほそぼそと「新超研」を続けていた。

弘樹はある程度まじめに勉強して、教授から研究室に残るように期待されたけれどその制度や研究に挫折したのかもしれない。今考えればそんなに頑なにならなくてもよかったんだと思う。まだ自信があったのだけど、目が出なかった。おだてられて伸びるタイプだったんだと思う。とんだアマちゃんだ。

現在、弘樹が陥っている袋小路はだいたいそんなことだったんじゃないだろうか。とある意味、客観的に見られるようになってきていた。いいものを持っていたんだが、生かせなかったな、と感じていた。

もちろん人生はそれだけではないし、遅いこともないとはわかっていたけど。でも何か辛いことだった。それはワールドカップで大活躍してみたかったと同じレベルの願望であったんだ。だから反対に言えば、ようやくスタート地点に立ったと言えなくはない。

ちょっと奥手だな、と自嘲するしかなかった。


「本社」は六本木にあった。もともとそこが発祥の地であったらしい。今は大きな商業施設になっているビルの中にある。エレベーターで言われたとおりの階に降りると、正面に受付があって、制服の女性がにこっとした。

要件を告げると、部屋に案内された。

弘樹の勤めている会社は自社ビルで、ワンフロアが先が見渡せないほど広く、天井までの壁はなかった。雑然として空気は濁っていたが開放的ではあった。ここはその逆だった。キレイに仕切られ、エアコンが聞こえない音を立てていた。重厚で凝った照明になっていたが、どこか落ち着かなかった。

しばらくして、榎田が思っていた所とは違うドアから現れた。ソファは低く、デスクに慣れている弘樹は姿勢が保てなかった。挨拶のあと、さっそく用意した書類を確認して契約ということになった。連れてきた女子社員が内容についてきびきびと説明していた。幾つぐらいの人だろう、自分より少し上だろうな、と思っていた。言われたままの書類にサインをして面談は終わった。女子社員は引き揚げ榎田はお茶に口をつけた。ひどく円滑でビジネスライクだった。

弘樹に不満はなかった。榎田は上司として信頼できる人間だった。とうぜん仕事には厳しいが、それは自分を含めてだったし、見晴らしがよくて細かいことをつつくタイプではなかった。いつも頭が一つ抜け出していて、指揮官という感じがした。いつも店長と呼んでいたので、そう言いそうになる。今は名刺によれば企画課の第二課長ということらしい。

「しばらく店舗の方で店長見習をしてもらう。三か月ほどでたぶん新規店の店長をやってもらうことになるから、しっかり準備してもらいたい」

榎田にそう言われて、「本社」を引き揚げてきた。

来週からは書店員になるというわけだった。


辞めると決めてからの職場はどことなく違和感があった。改めて考えるとここは姥捨て山のような部署だ。それなりの機能は果たしているのだけれど、それに従事している人に覇気がなかった。すこし内情がわかってくると、リハビリセンターのような気がしてくる。校閲課というわけで課長はいても他のポストはなくて、社員も嘱託もアルバイトさえ同じローテーションで動いていた。それに時々課長もだった。

最初の課長は交通事故で2年ほど職場を離れていた。その次の人は3カ月しかいなかった。その後釜はひどく神経質で鉛筆をいつも削っていた。それから今の課長なのだけれど、この人はひどく気を使う人だった。弘樹にもそのまんまのお世辞をを言ったりして、どこか変な感じだった。いつも愛想笑いをして、「あー、そう」というのが口癖だった。

弘樹が辞めたいのですが、と切り出した時もやはり最初「あー、そう」と言った。それからローテーション表を眺めていた。たぶん自分が休みの取りたい日に入っている弘樹の出勤予定を見ていたのだと思う。4年勤めた部下が辞めるときそのぐらいのことしか考えないだろうということは予想がついていた。

「急で困るんだよね、何とかならないの」

何か不都合があったようだった。

「済みません、お願いします」

弘樹も余計なことは言わなかった。もう決まっていることだった。

「あ、そう」

今度の「あ」は、語尾が伸びなかった。

それで退社が決まった。嘱託員の人事は課長の職権だったから、何の問題も手続きもいらなかった。今週の出勤をこなし、賃金をもらっておさらばだった。よく飲みに誘ってくれた松本さんも急に異動していた。お別れ会をやるような同僚もいなかった。

そう考えると閉ざされていたんだな、と感慨が起こる。

弘樹は何のリハビリをしていたのだろうか。


帰りの地下鉄の中で、ひどく憂鬱になった。今そんなことを訴えれば、すぐうつ病だ、と断じられてしまう。ストレス障害は確かにあるのだろう。そのためには時間が必要であることは誰でも知っていることではないだろうか。失恋でも交通事故でも後遺症はある。何とか克服していくしかないのだろう。それがリハビリの意味であるかもしれない。でもハッキリとは自分が何に悩んでいるのかも弘樹にはよく分からない。

絶望なんだ。と言うとまた大げさではあるけど、そういうことなんだと思う。生きること、というより自分を含め人間に絶望している。人間であることが嫌なんだ、嫌いなんだ。

「人間失格」という言葉があったけど、失格してるのは人間なんだ。

では、どうすればいいのか。

それを考えると胸がキュンとしてくる。ときめいているんではなくて、縮んでくるんだ。

止まりそうになるのはびっくりしたときで、この場合不安で倒れそうになる。

なにかに頼らないでいることができない気がしてくる。なんとか中毒にならなくては、いられない心境なのだ。その不安から逃れるために、アルコールであったり、ギャンブルに走る。セックスでもいいのかもしれない。また仕事や研究であったりもするのだろう。没頭している間はその不安から逃れられる。もちろんそれではダメだから、避けてはいるんだけれど。

ただ実際頭の中では、人類が滅亡しても弘樹は困らなかった。そうすればひどく自分が冷血漢に見える。敢えて殺人者になろうとは思わない、だとすれば弘樹が守っているのは法律ということになりかねない。小市民だからだ。暴力もひどく苦手だった。

ただ日本が滅んでも構わなかった。それは多くの滅んだ民族の怨念であるかもしれない。それより隕石が地球に衝突したりして地球そのものが破壊してしまうかもしれない。

本当のところは弘樹には何もやりたいことがないんだ。存在の理由ということではなくて、人生の意義が見つからなかった。何をやっても面白くない、ということではなくてそこそこ面白いけれど、ちょっとした隙間を虚無の風が流れていくんだ。その底は深くて、乗り出せば怖くて覗きこめそうにもなかった。だから弘樹ができることがあれば、それはその淵を探索してみることなのかもしれない。けれどその踏ん切りもつかなかった。

それこそ今、反対の方向にハンドルを切ったのかもしれない。シジフォスの例えのようにだろうか、無益で希望のない労働の方にだ。

書店の朝は早くない。駅の構内のような場所をのぞけば、10時ごろ開店するところが多い。どちらかと言えば夜型と言っていいのかもしれない。深夜までやっている店が増えてきていた。書店にとっての競合がコンビニと図書館であるからだった。

通勤ラッシュの車両とは反対の電車に弘樹は乗り込んだ。始発だから座って通勤できた。書店とは言うが、雑誌というくくりで言われる本が売り上げの半分近くを占めていた。明らかに書籍の販売業は斜陽だった。ただなくなりはしないだろう。今廃業しているのはよく町の本屋さんと言われている、小規模の店だった。

繁華街の図書館のような大規模な店舗と、郊外店のようなロードサイドの売り場100坪ほどの形態が主流になってきている。この郊外店が弘樹の職場になった。

営業時間は10時から夜11時まで。店長か社員が最後レジの精算をして退店することになる。夜間金庫が近くにあればその日のうちに、なければ午前中に銀行に行って本部に送金する。多くの店で店長と一人の社員という体制になる。あとはパート、アルバイト。種々の作業は彼らがやることになる。検品、陳列。販売等マニュアルがあるのでそれに従って行われる。

社員は店長の補佐だから、強いて言えば副店長、よく銀行などでいう代理という職名に似てるかもしれない。こちらは全体の売り場管理、仕入れ・販売分析、人事と多くをこなさなくてはならない。M支店の店長は、四〇代なのだろうかベテランだ。本社採用の人であれば三〇歳前後が店長の年齢だったから、中途採用ということだろう。会社は例外を除けばすべて直営店だった。

弘樹は榎田の下で働いてきたから、マニュアルは徹底的に叩き込まれた。ありがとうございました、の声が小さいと特訓までやった。それに本社の研修は図書館司書のような内容を含んでいるからかなり頭でっかちになる。現場と乖離するところもがあるかもしれなかった。この店長から学べるところがあるという榎田の判断だろう。

店長は杉山という名だった。挨拶がすんで、指示を待っていると、出勤してきた女の人に「ロッカーとか店内ルール説明しておいて」と頼んだ。弘樹はその渡辺という人から説明を受けた。年は少し上だろうな。

「店長って怖いの」と事務室の奥に入ると弘樹は訊いた。

杉山は話している時は笑顔だけれど、黙って何かしてるとキツい感じがする。

「そんなことないですよ、仕事没頭してるときありますけど」と、渡辺はにこにこして答えた。

たぶんパートの人なんだろうなと思っていた。

「渡辺さんは長いんですか」

「この店、開店の時からだから六年になります」

一般的に二、三年で店長、社員は移動するから店採用のパートの人の方が長くなってくる。今日は社員は欠勤だった。シフト表を見ればわかる。店長の下、二番目に書かれた桜井のところが空欄になっていた。

ロッカーは備品などが置かれた棚の隣にあった。新調の制服を支給されていたので、それに着替えることになる。前のとは色が違う、少しデザインも違うのだろう。

「共有ですので私物は置かないようにしてください、というより上着をかけるだけと考えてください。貴重品は身につけておくこと。携帯はマナーモードで、勤務時間内の通話は厳禁です」

説明し慣れているのかもしれない、淀みなく説明は続いた。ほとんどはマニュアルに書かれていることだったが、店によって違う部分は少しあった。ロッカーは男女別、従業員五人に一台見当になる。だから大体三,四台並ぶことになる。労働基準があるので、ここが休憩室にもなる。椅子があって灰皿が置いてある。これは店長の裁量だった。禁煙にすると外で吸うことになる。と、そこでも不都合が起こる場合がある。それなら換気してロッカー室でと考えるのだろう。弘樹もしばらく吸っていたことがあるから、わからないではなかった。


二,三日して、早番の帰りに居酒屋に顔を出してみた。遅番の日は週に二日ほどで昼からの出勤だった。それでも終電には余裕で間に合うから、ほとんど毎日タクシー帰りの夜勤とは違った。

ガラス戸を引くと半分ぐらい席は埋まっていた。イスの後ろをかき分けるように進み、所定の位置に座った。

「いらっしゃいませ、あら、お久しぶり」

ママはニコニコして声をかけた。こぼれるような笑顔というのだろうか。

「ああ、仕事変ったんだ」

「あら、お昼間狙い?」

あだ名が次郎吉だからだ。

「まあ、そんなとこさ」

「何になさいます」

注文をお母さんに伝えると、奥に引っ込んだ。

ビールをいつもの感じで飲んでいた。隣は八木ちゃん。弘樹は仕事の話とか会社のことを話さないけれど、多くの人はそのことがメインで、反対にそれ以外興味のない人がいる。それはいいんだけど、人にそのことを話さなくてもいいような気がする。仕事の話は会社ですればいい、と考えているのは弘樹が日本のやり方をよく知らないからなのだろう。

会社の連中と酒場に来て、仕事、というより噂話とか不満を発散させている人たちを見るとげんなりする。八木ちゃんは逆だ。できるだけ仕事から遠ざかろうとしている。たいていはスポーツ紙を読んでいてそれを話題にすることが好きだ。プロ野球の話とかサッカー、ゴルフなんでもいいみたいだ。とても穿った見方をする。彼は彼なりに報道を分析して、独自の観点から評価を下しているのだ。へえ、そうなんだ、ということもあるし、それはないだろうということもある。彼は今、スポーツ紙に没頭しているのでとても静かだ。時々サワーを啜っている。

弘樹はふつうとても無口だ。電車に乗っている時、喋らないように自分から話すことがあまりない。気が向けば止まらないで話すこともあるのだけど。

彼は、今もしはるかに手紙を書くとしたらどんなものになるだろうかと考えていた。


ごぶさたしています。お変わりないですか。

元気にお仕事、励んでいられると思います。


ぼくの居場所はもうなくなってしまったのだろうか。

最近そんなふうに感じています。

きみが望むのなら、離婚の手続きをとった方がいいような気がします。


もうぼくの手から離れてしまったのではないだろうか。

そうでないと言い切れる自信がぼくにはもうないのです。


別れ、というのは母の時に経験しましたが、ひどく辛いものです。

でもまだ二人は若いし、やり直すこともできます。それにいい思い出も持っています。それを壊してしまうようなことはしたくないのです。


このままにしておくことはよくないと思います。



弘樹は電話で長く話すことも苦手だった。要件をすっきり言ってしまえばそれで用は足りた。ただ、感情に訴えなければ、というような働きは理解していた。はるかに遠慮していることはないのだが、今一つ、はるかがどう感じているのかがピンときていなかった。

愛しているけど別れます、というようなことは弘樹にはよく分からなかった。それはよく言われた、「行動が思考を表している」ということを信奉しているせいなのかもしれない。どちらの愛を選ぶか二者択一のケースがあって、選んだ方に愛があったということだった。

そのように人は人生を選ぶのではないだろうか。そして選んだことに責任を持たなくてはならないし、結果を引き受けなくてはならない。それがひどく簡単な弘樹の人生哲学だった。

それで弘樹は結婚を選択したのだろうか。

これはひどく言い訳めいてくるが、弘樹にはその意識がなかった。ある意味はるかにもなかったのではないだろうか。恋愛感情の結果、同居しただけだったのではないのか。お互い一緒にいる時間が長くて、楽しい幸せな時を過ごした。それは結婚を維持していく原動力にはならなかったのだろうか。

考えただけで、当分は出されない手紙だった。

戻ってきてくれ、と土下座してでもその意思を出せば、何かが変わるのかもしれない。なにかを感じてくれるのだろうか。



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