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「冬のすみか」

遅番の日以外はその居酒屋に行くことになった。

はるかのところへは行こうと思いながら、踏ん切りがつかなかった。

行こうと思うまでの決断までにも時間がかかったが、そうしようと決めてからも時間が経っていた。

はるかからの連絡を待っているのかもしれない。

流れとしては、待ってて、と言っているのははるかだった。

でも、そのことにこだわっているわけではない、ただずるずると時間が流れているだけだ。

気持ち的には、はるかが長期の出張に出ていて、帰りを待っているかのようだった。


「冬のすみか」は母親と娘でやっている店だった。

料理は主に子供の方がやったいた。子といっても40歳は過ぎているのだろう、ほとんど厨房に入りきりだった。

この人目当てにというほどではなくても、そんな感じで通っている客もいた。

弘樹はほとんで黙って飲んでいた。トイレの手前に小さなテレビがあって、客が入るとだいたい消されていた。

カラオケがなくて、クラシックやジャズの有線が流れていた。入り口近くに座敷の席があってあとはカウンターがエル字形にあるだけだった。


酒を注文すれば「お母さん」70歳に近いのだろうか、そう呼ばれていたが準備をした。「ママ」と娘の方は呼ばれていたけれど、少し挨拶に出て、注文の料理のために奥へ行ってしまう。

火を使う台が奥にしかないせいだった。魚をさばいたりはカウンターの中でやっていた。

弘樹は空いていれば奥のカウンター席に座った。

酒はそのときの気分で飲んだ。ビールの時もあれば、冷酒、ワインを最初に飲んで、焼酎やウィスキーの水割りにすることもあった。

「何にします」と聞かれて、その時浮かんだものを注文した。

だいたいの傾向はあるのだろうが、分析したことはなかった。


そこはお通しというのが出てこないので、お勧めを頼んでおく。そうしないと最後まで何も出てこない。

コツは最初に頼んでおくこと、混んでくると忘れられることもある。

ハッキリ言って素人で、料理のうまい家庭の主婦的感じなので要注意。

こちらの方で、段取りしとかないといけないと気付いたのはだいぶ後だった。

何がいいかと言えば、これでやっていけるのと心配するほど安いことと、料理がうまいこと。欠点はすべてに遅いこと。時間が押してる人は無理。せっかちな人もNG.


みんなが何かを待っている状態なので、隣の人と話したりする。

年齢層はかなり上で、弘樹が一番若いぐらいかもしれない。

ママさんは誰にでもあだ名をつけてそれで通すからみんながその名で呼び合うことになった。

弘樹は「次郎吉」だった。

ご存知、鼠小僧だ。正体不明なところからの命名らしい。


「次郎吉さん」と隣の席の人に呼ばれた。


今日の隣は「殿」だった。

ありがちだが、南部・盛岡の藩士の末裔らしい。

飄々としているが、酔うとくどい、最後うまい具合に居眠りをする、

ほとんど日本酒を飲んでいる。

歴史と将棋が好きで、よく研究しているが独特の見方がある。時々ネコさんと座敷で将棋をしている。いい勝負のようだ。


情報が弘樹の頭の中をよぎっているのだろう、意識しているわけではない。声をかけられる前の段階から、たぶん隣の席に座った時に感じているはずのものだった。

今日は少し春めいた陽気になってきていたので弘樹は生ビールを頼んでいた。それを二口飲んで、ジョッキを置いたときだった。たぶん間合いを見計らっていたのかもしれない。


まあ、不意にそう言われて右横に首を傾けた。


「いやあ、昨日酒気帯び運転で捕まったんだ」

なんだか他人事みたいに、前に向かって呟いた。右手には冷酒のグラスを持っている。

だいたい毎日飲んでいる人は自分の酒量が決まっている。前後はするけど基本線はいつも同じだ。自分の酔い方を模倣していると言っていい。酒を飲むスタイルはどこかで決まっている、最初にしたセックスを模倣するみたいにだ。


まだ時間も早いし彼は正気だった。

ひどく酔っている人とは弘樹は喋らないことにしている。酔い方がわかるぐらい知っている人なら別だが、下手に関わると碌なことはない、と学習していた。話しかけられても答えず観察するだけでいい。檻の中の動物みたいにだ。

絶対手を触れてはいけません。


その人はその人の時間を過ごしているので、次の日覚えていないようなことに関わってはいられない。

たぶん自分もそんなふうに思われていることがあるのかもしれないな、と思う。

ひどく恥かしいが、それも自分がしでかしたことだ。


弘樹は両手を広げた。

ちょうど息を吐いたところだったので、言葉が出ないだけでそのことに意味はない。

続きをどうぞ、みたいな意思表示だろうか。

何か言うとしたら、へえ、そうなんですか、だろうか。


「都心で用があって飲んで電車で帰ってきた。知っての通り駅から遠いので車を駅の近くに置いていたんだ。もともとそれに乗って家へ帰るつもりだった。酒気帯びの罰金が重くなったのも知っている。でも三十年近くそうやってきたんだ、一、二度捕まったことはあるがスピード違反よりは少ない。車で仕事をしてればそれは税金みたいなものなんだよ。大きな事故なんか起こしたことはない。酔っていれば車の運転はしない、そこで寝ていくんだ。そうやってきたんだ」


彼は流暢に話すタイプではない、東北人の朴訥さというのだろうか。大柄で顔の長い、髷を結えば似合いそうな顔つきだった。

そこまで聞く間に弘樹のジョッキは空になっていた。少し考えたが、もう一杯注文した。

彼が何を言いたいのかはまだわからなかった。何かを言うまでにいろんなことを考える、あるいは条件を設定するようだった。だから弘樹は黙って聞いていた。


そこで、だからどうなんですか、みたいな言い方をする人には彼は話しかけないようだった。彼は自分の言いたいことがあって、それを黙って聞いていて、その反応を素直に言う人を望んでいる。素直に言う、ということに関しては素面の時だけと限定しておいた方がいいかもしれない。酔うと、ある程度は皆そうだけれど、自説を曲げなくなる。

ただ、感情に触れる話をしているわけでないので口論はしても喧嘩になることはない。議論好きといえるのだろうか。


彼は弘樹が話を聞いていることがわかって、酒のピッチが速くなった。


酔うというのは、一種の状態だから最初お酒がうまいとか感じても酔っているわけではない。グラス一杯で酔う人がいる。この人は感度がいいのだから他の人の基準にとらわれてはいけないのだと思う。グラス一杯をゆっくり飲めばいいのだけれど、なかなかそうはいかない。


利き酒というのは、そんなに飲まないというより、口に含むだけのようだ。酔ってしまったら味覚も鈍るのだろう。

でも味覚を犠牲にしてでも酔いたいのだった。ピッチというのはそういう意味だ。酔いを感じるまでは、あるいは一定の状態まではピッチが速い。ビールをいつも飲んでいる人が冷酒をそのペースで飲むと、つぶれてしまう。アルコールの血中濃度の問題なのだ。


殿はその話をしていた。

「血中濃度の基準が下がって、今まではセーフだったのがアウトになったんだ。だから次の日でも引っかかる例が増えた。営業車は朝の点検が義務付けられているから夜の飲酒も早く切り上げなくてはならない。車に関しては禁酒法の時代に向かっていると言っていい。タバコも同じだ」


ここまで弘樹は一言も話していない。

ようやく、注文の品物が来た。スズキのカルパッチョ。


「酒税が変わったせいなのだろうが洋酒がひどく安くなった。ふつうはそちらの需要が増えるはずだが飲む人がほとんどいなくなった。どうしてなんだろう」

殿はほとんどひとり言のようになっていた。


ネコさん登場。

みんなに挨拶して殿の隣に座る。


ネコさんはたぶん金子さんだろうけど、最初に店に入ってきたときからネコさんで通っていたらしい。近くの工業団地にある会社の部長さんでギャンブル好き。ちょっと高い声で、座を仕切るのは名人。なんでこの人が一人でこの店に来るかが不思議だったが、単身赴任のため弘樹と同じような理由で毎日やってきていた。

必ず何かの話題や、品物を持ってきてカウンターにいる人たちを巻き込んで会話をする。それが心から楽しそうなので感染する。今日はコインで削るくじを買ってきたと言って、みんなに配っている。当たった人には半分プレゼント。これはどんなからくりがあるのだろうか。まあ、みんなへのお土産としておこう。もらった人が喜ぶことは間違いがない。でも実際はもらってるわけではない、後で回収するわけだから。


「いつものセットで」

この人は好みがうるさいのかもしれない。贅沢とは違うのだけれど。

いつものセットは焼酎の水割りにカットレモンを入れ、さらに時々絞っている。

弘樹の皿を見て私もこれと同じもの、と注文していた。


そう言えば殿は干したコマイをつまんでた。彼は酒の前に軽く食事をするらしく、料理らしいものは頼まなかった、せいぜい刺身かな。あるいは一軒目にどこかに寄ってくるのかもしれない。


殿は駅から離れてはいるが、敷地にアパートを建てそちらだけで暮らしは立っているようだ。詳しくは聞かないが最近勤めを辞めたようだった。


「殿が、酒気帯び運転で捕まったそうですよ」

ひと段落騒ぎが収まったころ、弘樹はネコさんに話を振った。


殿が続きを話したそうだったからだが、一応は情報を与えておいた方がいい。

ネコさんは「ふうん」と興味を示しながら殿の顔を見る。

殿はどこまで話したかな、と確かめるようにしてから頷いた。

「酒気帯びの基準がきびしくなって、以前なら違反でないものまで取り締まるようになった。それ自体が問題で、アルコールの血中濃度を一律的に取り締まるということだ。酔っているという状態とは関係なくなったんだ」

「でも、酔ってるかどうかはかなり主観的じゃないのかね」と、ネコさんは独特の調子で口を挟んだ。

当然、彼は酒を飲んで車を運転などしない。

ただ、非難しているわけではなかった、話が好きなんだ。


「まあ、お上の都合ということでしょう。実は私がおかしいと感じてるのはそのことではないんですよ」

と、殿はその議論を微妙に避けた。勝ち目がなさそうだからだろう、どこかで線を引かなくてはならない。

「私が気がついたとき、もうパトカーは後ろに付いていたんですよ」

殿は辺りを見回すような感じで、一呼吸入れた。自分の言葉の効果を測ってるみたいにだ。


「それから徐ろに赤色ランプを点灯させて、前の車停まりなさい、とやったんだ」

「一斉じゃなかったんですか」

これは弘樹が発した言葉だった。てっきり飲酒の検問に引っかかったと思っていた。これは、予告され定期的にやられていた。

「それなら、解っているので時間や場所を避ければいい話なんだ。そうじゃなかったんで驚いているわけさ」

「そんなにふらふらしていたのかね」

至極もっともな感じでネコさんが訊いた。

「そんなはずはない、自分では、酔っている自覚もない状態なんだから」

「そうすると、どういうことなんだろうか」

「そこが不思議なとこなんですよ」と殿は空を見上げた。


「初めから目をつけられていたんですかね」と、弘樹はしびれを切らす感じで呟いた。

殿はちょっと左手をあげて、話を続けた。

「こちらが停車すると、前にパトカ―を停めて警官が一人降りてきた。もう一人は車に残ったようだった。窓を開けさせて、お忙しいところ済みませんが、どちらへ行かれますか、と訊いてきた。答える義務もないけど、まあ家へとあまり口を開けないで言ったんだ。呼気に酒が交じるだろうということは自覚していた。そうすると警官はどうも酒の匂いがするんですが、お酒飲まれましたかと尋ねてきた。少し口ごもると、何か合図をして助手席からもう一人のおまわりが降りてきた」

そこで、殿は遠くを見るようにしてグラスを乾した。


「それからは段取り通りという感じで、最後に書類にサインをして放免された。ただ車の運転は出来ないので、駐車場まで送ってくれたよ。路肩に置いておくわけにもいかないからね。サービス満点だ」

「で、罰金はいくらなんだね」とネコさんさんが訊いていた。

「30万」

「大した金額だな」


それで、話は終わってしまった。殿は自分でその話に興味を失ったみたいだった。そこからネコさんが何か言って、二人でぼそぼそ話しだした。


弘樹はそれには加わらないで別のことを考えていた。

最近いつも同じことだ。

思いついてメールをしてみた。しばらくぶりかもしれない。

――いま、家の近くで飲んでいるんだ。何してるの?


なんとなく人懐かしくなっていたのかもしれない。返事は期待していなかった。

たぶんもう仕事は終わりかけで帰る支度をしてるころかなと思っていた。そのまま帰れば三十分もかからないで戻ってくるだろう。

メールの着信音が鳴った。はるかからだった。


――いつものところ?

これが会話といえるかは判らないけれど、少なくともはるかが出ていってから初めての質問だった。

今までは拒否の言葉しか聞いていなかったから、ひどく新鮮だった。


――そう、「冬のすみか」。相変わらずだよ。


それからしばらく携帯電話は鳴らなかった。

ポケットから出して、空の灰皿に置いた。

キープしてあった麦焼酎を水割りで飲んで、自分の中の定量が終わった。

帰らなくてはいけない。

会計をして外に出たとき、メールの着信があった。


――涼しくなったね。。


はるかが出て行ったのは、8月の終りだったから、もう一月が経とうとしていた。

弘樹は発信のボタンを押した。

今まではるかは一度も出ようとはしていなかった。

着信拒否にはなっていないようだった。

コール音が鳴っている。


「はい」と、はるかの声が聞こえた。


道をゆっくり歩いていた。

学生のころ住んでいたアパートとは目白通りを挟んで反対側になる。

少し思い出が多すぎるな、と感じていた。

はるかと初めて食事に行ったレストランの先を左に折れた所の賃貸マンションに住んでいた。

いつか郊外に住宅を買うのだろうか。

はるかはそういうところには無頓着だった。

彼女は違うものを求めていた。

それは弘樹が求めているものと似ていたのだろうか。


「やあ、元気なの」

あまり気負わずに話せそうな気がした。


「順調よ、仕事もうまくいっている」


ベンチを見つけてそこに腰を下ろした。暗くもなく照明が眩しいということもなかった。

適度な夜景、風も心地よかった。


「そう、安心したよ」

本当にそう思った。心配はしていなかったけど、気にかからなかったわけではなかった。


「わたしたち、もう終りなのかしら」

明日は雨かしら、みたいな感じではるかは言った。

弘樹は通りの車を眺めていた。

ヘッドランプが光り、陰が流れていく。運転手の横顔が見える。三台ぐらい眺めていた。


「そんな簡単に終わりにはできないよ」


「そうなの」


「そうさ、話もしないで消えてしまうなんて、ぼくたちにできるわけがない」


「考えてみるわ」

と、はるかは言って静かに電話は切れた。

ツーツーと信号音が鳴って、弘樹は七回ぐらい聞いてから電話を耳から離した。

それから立ち上がりゆっくり住まいに向かった。

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