はじまり
はじまり
どうしてこんなことになったのか、弘樹は闇の中を手探りするように記憶を確かめていた。しかしどこかで途切れてしまって辿ることができない。何度も思い出そうとするのだけれど、底なし沼に、ずぶっと足を入れるような不確かさのまま潜り込んでしまう。もしかしたら地球の裏側で起こった微かな揺らぎが、すべてを狂わせてしまうような、そんな聞こえない波紋がどんどん大きくなっていって、空から隕石が降ってくるような大きな衝撃が空を覆い生きている物を破滅させていくのだ。
空が暗くなり、閉じ込められた彼は、まどろみの中で叫ぶ。その叫びは暗闇を切り裂いていた。そしてその叫びで自分がいつの間にか寝込んでいたのに、弘樹は気づいた。
無意識に隣を探るが、はるかはいない。そうだ、はるかは出て行ってしまったんだ。
木霊のように、出て行ってしまったんだ、という言葉が震えたまま辺りに響いている。耳がじんじんいって、空っぽの頭蓋骨のなかで木魚を叩いている。
それでも寝ていたというわけか、と彼は自嘲的に考える。
言いあいをしているときでも、明日仕事早いからと、さっさと寝てしまうのは弘樹だった。ベッドの端に詰め寄られても眠りはきた。一つの流儀であるとはわかっていた。正しくないのはわかっていたが、身体が言うことをきかなかった。疲れているというのとは少し違う。怠惰で投げやりな気分だった。本当は懺悔をしたいのかもしれない。ただ救われるはずもないし、気休めにもならない。
前から自分がひどく損なわれていると感じていた。
だから人と関わりを持ってはいけなかったのだ。凌辱され屈服し投げ捨てられたムクロのように思っていた。それとは反対に卑劣で破廉恥な加害者の気持ちもあって、両者に裂かれ空虚に漂っていた。
怖くないか、という人がいた。怪訝な顔をしている弘樹に指を自分の首の前で横切らせてみせた。その人に言わせると、寝ている間に女房に殺されるかもしれないと感じることがあるそうだ。寝首を掻かれる、というのはよくあることだったのだろうか。遭難したときなど寝てしまうと命が危ないとも聞くが、これだって体力のある人が起きていられるだけであって、脳が寒さで停止してくれば、意識で抗えることではないのだろう。精神力の問題ではないんだ、きっと。それでそのときは別のことを考えていて気にもとめなかったけど、今思うと確かに怖い話ではあった。何が、といえば、寝てしまうことだ。
よく眠れるわねと、はるかはキツい調子で言った。
そしてそのとき目が覚めると、はるかはいなかった。
最低限の荷物をスーツケースに詰めて、
旅行でも行くように彼女は消えてしまったことや、
きれい好きの彼女が少し慌てたように部屋を出ていったのが、
部屋を見て回っていて弘樹にはわかった。
彼女の躊躇や、
それでいて決然とした様子が
彼が寝ている部屋の外で起きていたことが手に取るように彼にはわかった。
そして彼女は声をかけることもなく部屋を後にしたのだった。
彼女はなんでも独りでできるから、そのことで心配することはなかった。
ここが東京でなければ心配しただろうが、あるいはまた、そうであれば、その前に彼女はそういう行動をまず起こさなかったのだろう。
彼女は仕事で使ったことのあるホテルにタクシーで向かったに違いない。
母親のところとか、友だちの家には行かない気がした。
そんなことで心配させたくはなかった、と彼女ならきっと言うだろう。
彼女はそういう性格だった。
弘樹だって、あんなことがなければ、そこまで心を鈍感にする必要もなかったんだ。
何度かの夜が来て、何度めの朝を迎えた。
今日は何日だろう。
彼はいつものように仕事をして、だれにもその事を話さなかった。
ただ弘樹の何度めかのメールの返事は、
「心配しないで、それに探さないで。時間がほしいの」
と打たれていただけだった。
たぶん彼女の仕事場に行けば、見つけることは出来るのだろう。ただ、彼がそうしなかっただけだった。
日常は絶え間なく時を刻んで、人は知らずにどこかに運ばれていった。
夏の昼下がりのように時間が流れ、小さな岩だけが取り残されている。
その岩を他人事のように弘樹は眺めていた。
どうしてこんなことになったんだろう。
巡り巡ってまた同じ質問に戻ってしまう。
学校の卒業が決まると二人はすぐ結婚した。
親戚間の簡単な披露があり、形だけの卒業旅行を兼ねた新婚旅行に出かけた。
なにか二人でけりをつけたという感じだった。
ラブラブという感じのところは通り過ぎてしまっていた。
四年近い付き合いと五年の結婚生活、長過ぎた春と、過密な勤務。
子供ができなかったこと、
あるいは作らなかったことが、納得はしたことではあったが、弘樹には微妙な鬱屈を与えていた。
じっさい与えていたのだろうか。
言い訳にすぎないんじゃないのか。
ただ、変化を求めていただけではないのか、それでそんなふうになっていったのではないのだろうか。
はるかも忙しかった。
朝だけは一緒に食べるという約束も段々間遠になっていった。
何故かといえば、弘樹の仕事が夜遅くてはるかの出勤時間に起きてこられないからだった。昼ちかくに起きだして、用意してくれた食事を温めて食べた。
すれ違い夫婦、ただそれがそれほど不自然と感じなかったのが間違いだったのだろう。はるかは感じてたかもしれないが、自分から言い出しはしなかった。
だから仕方のないことだと諦めるよりほかに方法はなかった。
お互い仕事を持っているんだから、それが二人の結論だった。
あとは休みを調整するしかなかったが、それも社内の責任とともに難しくなっていった。弘樹は日曜に休める職種ではなかったからだ。
弘樹は自分を責めたが、それは真実そう信じているからとは自分でも考えられなかった。
本当はそうではないのではないか、と疑っていた。
はるかを直接責めることは、最初から考えられなかった。
だから自分が、という気にはなるんだが、実際どのくらい身に染みていたかとなると心もとない。
自分が悪い悪いと言いながら、全然反省していない厚顔の者にさえ思えてきてしまうのだ。
現実的には、悪いと謝るのさえ苦手な性格ではあったのだけれど。
考えることより問題は、態度であったり、行為であるはずだった。
いざその段階になると抜けていくものがある。
それは若いとか未熟とかいわれるものなのだろうか。
性格の中のそんな部分が行動の中で顔を出すのだ。
ひどく高名な人が生活の中で、子供じみた妄執にとらわれるのはよく聞く話ではあった。
別に弘樹は高名でもなく、子供じみた考えにとらわれているわけでもなかった。彼は自分に自信があったから、傲慢になることがあったのかもしれない。
卑屈になるよりはましであるとしても、生活をともにする身にとってはきついものなのかもしれない。
強情で融通が利かない。
実を言えば、それは両者に当てはまってしまうものなのだ。
だからどこかで妥協しなければならないのだけれど、
簡単にできない場合があった。
それがいつもケンカの原因になるのだろう。
当時はっきりとわかっていたわけではなく、
今、冷静に振り返ってみると、
そういうことなのかもしれないと半分納得するに過ぎないのだけれど、
当時はそういうふうに考えることさえできなかった。
意地の張り合いのようになってしまうし、
折れることができなければ口を利かない、というようなことにエスカレートしていった。
はるかは曲がったことが嫌いで頑固だった。
それはそれを非難しているわけではなく、はるかはそういう性質だったのだ。
弘樹は弘樹である種、信念の人だったから、譲れない一線があった。
お互いそれは尊重しているはずなのに、生活の積み重ねの中で衝突が起こるのだった。
それは本当に些細なことで、
例えばどちらがコーヒーを入れるのか、といったことでも争いの原因になった。
弘樹は家事は分担しようと口では言うくせに、
実際は全然手伝ってくれない、と彼女は非難してくる。
そうすれば、いやそんなことはないよ、と言わざるを得ない。
そうだね、
と引き取る度量なり、ノウハウがあれば、
また違った展開になったかもしれないが、彼にはそれができなかった。
洋装の服に着替えたけど、
髷を結ってるみたいな考えと行動のギャップの中に彼はいた。
明治時代の知識人みたいに。
料理は弘樹も作るし、シチューなんか、かなり上手にできたりするけど、
少しお金かかりすぎ、とか
跡片づけちゃんとしてとか、彼女に言われてしまう。
でも食器どこに置くかわからないんだから、
この前全然違うとこ置いたでしょ,って怒ってたじゃない。
そうなると考えと行動の間の問題ではなく、生活のスタイルの差異になってしまう。
お互いの親との生活様式をどこかで模倣していることに気づくのだった。
あるいは自分の子供のころの記憶を踏襲しようと無意識に行動してしまうのか。
はるかが左手に箸を持つのに気づいたのはいつのことだったのだろう。
初めは隠されていたわけではないのだろうが、その事に気づかなかったし、
今でもそれが間違えだなんて、思っていないが、ひょんなときに気になるのだった。
要はそれははるかの属性みたいなもので、それを含めて彼は彼女が好きなわけなんだけど、
生活の端々で違う顔のはるかを発見するということだったんだ。
彼女は仕事でひどくストレスを感じていたのかもしれない。
頑張りすぎているように思えた。彼女の勝気さが、プラスに出ることは多いけど、その反動が彼との日常に現れているのだろうか。
弘樹の仕事は、新聞社の校閲部で嘱託身分だったから、競争とかの埒外にいたし、それは彼の望みだった。
それでも時間が経てば仕事の内容は増えていった。
所属してわかったことだが、スポーツ紙を作るのに社員三人で回していた。
あとは、フリーランスの記者とか、弘樹のような嘱託社員。
通信社の記事を引っ張ったり、本紙からまわされたり、独自の取材とかをやってる暇がなかった。
どこでも台所は大変ということなのだろうか。それともこの会社だけなのだろうか。
賄い料理のようなお得なおいしさは何もなかった。
遅番の帰りは深夜の3時を回るし、シフトも不規則だった。
でも、その仕事を彼は気に行っていた。だから続いているんだと思う。
新聞を作って行くという、ざわめきと緊張感がそこにはあった。
それに締切りを終えた後の解放感は何ともいえなかった。
東京の地方紙だったけど、それでも多くの読者に支えられているのはわかっていた。
はるかは希望通り、中堅の出版社に就職した。
マスコミ関係も志願したみたいだけれど、こちらは入社が叶わなかった。
出版社の方は存外高い評価を受けたようだった。
だから彼女は張り切っていた。すぐ女性雑誌の方に所属して、取材を始めた。
最初は手伝いということだけど。
だいたい三年はシステムを学ぶためにいろんな部署に飛ばされる。
新聞社なら、整理部というのに必ず回される。地方版のレイアウトから記事の選択までほとんど自分でやらされる。もちろん上司が目を光らしているんだけど。
それから地方の支局へ配属される。
三年は戻れない。そこから先は能力次第かな。もちろん希望もあるけど。
直接の原因はわかっている。
はるかが無断で外泊したことだ。
彼女はうまく嘘がつけなかった。
いままで嘘をつく機会があまりなかったのだろうが、
何をしていたのかの質問の答えが不自然だった。
どうしてなんだろう。
やはりここでも彼女は、けりをつけようとしているのだろうか。
隠すつもりもないけど、話すつもりもないんだ。
だから弘樹もそれ以上追及することができなかった。
彼女もまだ自分がどうしたいのかわかっていないんだ。
どうなるのか自分で試してるのかもしれない。
それで何度かの些細な言い合いの後、彼女が家を出て行ったんだ。
弘樹もどうしたらいいのかわからなかった。
でも実際は淋しいけど、少し解放感を覚えたのも事実だった。息苦しくて一緒にいるのが辛かったから。
たぶん、はるかもそう感じているんじゃないだろうか。
淋しいけど、少しすっきり。
もちろん、というほど確固たるものではないんだけど、
籍は入れていた。
はるかは言い出さなかったが、
母親が籍ちゃんとしてくださいね、と言った。
その時までどちらでもいい気がしていたし、
なんだか書類の作業が大変だな、というような意識しかなかった。
子供でもできたら入れるかな、程度の認識だったんだ。
そうなってくると彼の無頼さだとか、
通俗性のなさが徒になってくるようだった。
創造的な仕事には向いているとしても、一般的な生活とはいえなかった。
というよりどこまでも猶予されているに過ぎないのだ。
弘樹はその事を自覚していたけれど、直す必要を認めていなかった。
もし必要ならどこかからそれを強制してくるはずだった。
そのとき考えればいい問題だし、今がそのときであるとは思っていなかった。
はるかだって、女性であることによる違いはあるとしても、それほど変わってはいないんだろうと思っていた。
事実そうだったんだが、時間が変わることを必要としていることもあった。
彼女にとっては今がそのときである可能性はある。
学生時代の気楽さから社会の第一線に出ていったような緊張感を彼女は持っただろうし、それに適応するためにも自分を変えていかなくてはならなかった。
それの方が普通だし、彼の方が不適応なのかもしれない。
でも、そんなに違ってはいなかったんだ。
そこだけが原因ではない。
人間飽きることもあれば、決まった日常に退屈することもある。
弘樹は隠れて、と言うほどのことではないんだが、すべてを告げないまま飲みに行くことが増えた。
遅番の時は無理だが、早番の時はよく、同僚や先輩と飲みに行った。
よく、それも仕事のうちなんだ、と言う人もいるが、そこまでは居直れなかった。
どこかで、後ろめたい感じを抱きながら、店のドアを開けた。
でも、飲み始めてしまえばその解放感に酔いしれた。
なじみになった店の子と歌を歌ったり、下手なダンスをした。
楽しくて、つい時間を過ごした。
帰れば、もうはるかは寝息を立てていた。
そんなことが度々になってもはるかは何も言わなかった。
信頼、と言われれば信頼されていたんだろう。
飲んで遅くなったと言えば、気をつけてねと言うだけだった。
彼女は他に考えなくてはいけないことが山ほどあったんだ。
定期的に性交渉はあった。
それなりに充実していたと思う。
空かしたお腹を満たすように、お互いの欲望を満足させていたんだ。
それが、彼女にとっての愛だったのだろうか。
ひどく馴染んで、大好物をゆっくり味わうようにセックスをした。
充たされていたはずだった。
それでも、弘樹は外に足を運んだ。
酒に音楽、女たちの嬌声が心をくすぐり、香水が心を迷わせた。
自然とそうなったのだろうか、酔いも手伝い一夜を共にした女もいた。
それは好奇心だったのだと思う。
はるかと知り合ってから初めての女性だったが、なぜ彼女と、というようなものはなかった。
ほんの気まぐれ、乗り越えられる障壁は低かった。
ただ、行かなかった。
勃起はしていたが、うまくいかなかった。
感じなかったんだ。
ひとしきり動いていたが、それにも飽きてシャワーを浴びた。
これでも、やはり浮気なんだろうね。
そのままホテルを出てきた。
弘樹ははるかの前でそんなことはおくびにも出さなかった。
追及されたらどうだったのだろう。
たぶん彼はしらを切るような気がした。
あんなこと起こらなかったんだ。
そう思っている自分がいて、また嫌な気がした。
でも、はるかは、だから誠実であるのかもしれない。
自分の行動の責任を取ろうとしているし、たぶん説明もするのだろう。
その方が人間らしいやり方なんだろう。
自分がひどく嫌な奴に思えてきた。
それが自分の性格なんだ、と居直るように彼は考えた。
はるかは弘樹にとって完璧な女のように思えていた。
どんな女よりも素敵だった。
今でもそう思い、崇拝しているかもしれないが、彼女も生身の女だった。
欠点も、粗も見えてくる、
というより欠点を見せない態度に欠点を見た。
完璧であろうとすることに、耐えられなくなってくるのかもしれない。
どこか、息苦しいのだ。
自分ってなんだったんだろう。
はるかにとって弘樹は何だったんだろう。
彼にとって彼女は。
生活に飽きてきているのかもしれない。
今がどんな幸せか、弘樹は実感していないのだ。
そしてそれが、ひどく脆いものであることに気づいていなかった。
そのことで手痛いしっぺ返しを受けることも。
彼は底なし沼の淵を巡っていた。一風吹けば、足を滑らして転落するだろう。
弘樹は自分がひどく疲れているのを感じていた。
なぜ、こんなに気だるくて無気力なんだろう。
それは今まで感じたことのない重苦しさだった。
どうしてこんなに辛いのだろう。
重力に押しつぶされていまうような圧迫感と、内部から起ちあがってくる嫌悪感がお腹のあたりで蠢いていた。
そのくせ背中は悪寒のようにひどく冷えて震えてくるのだった。
甘えていると自覚しても、はるかの温もりが欲しかった。
そう思ったとたん、いやいやと否定してくる感情があった。
それは強い否定というわけではなく、手を振って尻込みするようなものだった。
いったん少し遠慮しておこうみたいな、どっちつかずな態度だった。
けっきょく、と何度か呟いたように元に戻ってきてしまう。
自分はいったい何をしたいんだ。
そうなると余計にまた徒労感が襲ってくるのだった。疲れてもう動けなかった。
頭をうなだれて、目を閉じた。
万事休す。
もうどうしようもない。少なくとも今日はもうダメだ。
酒でも飲んで寝てしまうのが一番いい方法なんだ。
この気分を持ち抱えていることはできない。
倒れてしまうんだ。
そんなことを何度も思いながら弘樹は寝入ったようだった。
朝起きると、気持は持ち直していた。
なんだか力が湧いてきて、自分に自信がでてきた。
少なくても何か処理はできそうな気がした。
現実的に何ができるのか、考える余地が生まれたのだった。
少なくともそう思い込もうとしていた。