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校則改定委員の恋は、まだ審議中

作者: HATENA 
掲載日:2026/09/03

 神谷晴人が生徒会室へ呼び出されたのは、校則に違反したからではなかった。


 校則を変えようとしたからだった。


 五月中旬の火曜日。六時間目が終わって十五分後、晴人は管理棟二階のいちばん端にある生徒会室の扉を叩いた。


「二年三組の神谷です」


「どうぞ」


 返ってきたのは、聞き覚えのない女子の声だった。


 扉を開けると、長机を二つ向かい合わせた部屋の奥で、一人の女子生徒が書類を読んでいた。白い半袖シャツの上に紺色の薄手のベストを着て、肩につかない長さの髪を耳へかけている。胸元の名札には、二年一組、佐伯瑠璃。


 同学年だった。廊下ですれ違ったことくらいはあるのかもしれないが、晴人には思い出せなかった。


「座ってください」


 瑠璃は向かいの椅子を示した。机の上には、晴人が先週提出した要望書が置かれている。


 青葉高校では、昇降口の脇に生徒会の意見箱がある。用紙へ学年と組と氏名を書けば、校内設備や学校行事、生徒心得について要望を出せる。晴人が投函したのは三度目だった。


「中庭の昼休み開放について、ですね」


「はい」


「四月十八日に一回目。回答後の四月三十日に二回目。今回は、二年二組と三組、合計七十一人への聞き取り結果を添付」


「よく覚えてますね」


「記録を読みました」


 覚えていたわけではないらしい。感心したぶんを返してほしかったが、口には出さなかった。


 瑠璃が要望書を晴人のほうへ回す。余白に細かな字で書き込みがあった。赤ではなく青いペンだったのが、せめてもの救いに見える。


「利用希望、五十四人。利用しない、十一人。どちらでもよい、六人。聞き取りの方法は昼休みに口頭で、複数回答はなし」


「二人で数えたので、人数は合ってます」


「協力者がいるんですか」


「同じクラスの野口です。途中から面白がってただけですけど」


「その野口くんが取った回答と、神谷くんが取った回答は分けてありますか」


「分ける必要あります?」


「質問した人によって、答えが変わる可能性があります」


「そこまでの調査じゃないですよ」


「その程度の調査を、改定の根拠として出したのは神谷くんです」


 声は穏やかだった。表情も特に険しくない。それなのに、晴人の要望書だけが急に薄くなったように感じた。


「足りないなら、取り直します」


「足りないところは、それだけではありません。雨天時の扱い、清掃、利用人数、周辺教室への影響。開放した場合に起きる問題が、ほとんど検討されていません」


「昼休みに、外で弁当を食べるだけですよ」


「同じことを三百六十人が考えても、ですか」


「全校生徒が一度に中庭で弁当を食べたがる学校なら、別の問題を心配したほうがいいと思います」


 瑠璃の目が、要望書から晴人へ上がった。


 言いすぎたかと思ったが、怒った様子はなかった。ほんの少しだけ、口元が動いたように見えた。


「全員が同時に利用するとは考えていません。規則は、同じ条件なら誰でも利用できる形にする必要がある、という話です」


「誰も使えないようにすれば、たしかに全員同じですけど」


「現在はそうなっています」


「だから変えてほしいんです」


「ですから、呼びました」


 話が元へ戻った。


 瑠璃は要望書の下から、ホチキス留めされた別の用紙を取り出した。一枚目の上部に、校則等見直し検討会、と印刷されている。


「今年度から、生徒心得と校内の利用規程を定期的に見直す検討会が設置されました。生徒会役員二名、各学年の一般生徒代表一名、担当教員二名で構成されます」


「そんなのがあったんですね」


「四月の生徒総会で説明しました」


「聞いていたと思います」


「覚えていない、と」


「そこまでは言ってません」


「では、説明できますか」


「覚えていません」


 瑠璃は一度だけ瞬きをした。今度こそ、笑いを我慢したように見えた。


「中庭の規定は、今年度最初の検討対象になりました。ただし、資料だけで改定の可否を決めることはできません。現在の中庭を確認し、限定的な試験利用を行う予定です」


「それなら、俺は結果を待っていればいいですか」


「いいえ。神谷くんを、今回の二年生の一般生徒代表として、実証調査班へ推薦します」


「どうして俺が」


「自分でも責任を負う、と要望書に書いてあります」


 瑠璃が、末尾を指で押さえた。


 たしかに晴人の字で、必要であれば利用者への周知や清掃にも協力する、と書いてある。二度目の回答が『管理上の問題があるため現状では困難』の一文だけだったことに腹を立て、勢いで付け加えた部分だった。


「必要になったので、お願いします」


「これは、協力という範囲ですか」


「現地調査、過去資料の確認、試験利用要領の作成、利用中の記録、終了後の報告書作成です」


「範囲が広いな」


「辞退することもできます。その場合、現在提出されている資料だけで審議します」


 言い方は公平だった。参加しなければ却下する、とは言っていない。


 ただ、雨の日のことさえ書いていない資料がどう評価されるかは、すでに教えられている。


「参加します」


「ありがとうございます」


「佐伯さんも調査班ですか」


「はい。私は生徒会側の記録担当です。利用を求める側と、規程を整える側の二名で記録することで、判断の偏りを減らします」


「初対面で、もう俺が偏ってる前提なんですね」


「私も含めて、偏りのない人はいません」


 即答だった。


 晴人は、机に置かれた資料をもう一度見た。細かい。面倒そうだ。少なくとも、適当な回答を一枚返して終わりにするつもりではないらしい。


「最初の検討会は、明日の放課後です」


「明日?」


「都合が悪いですか」


「いや。委員になるまでの猶予が短いと思って」


「まだ委員ではありません。参加の承認は、明日の会議で取ります」


「承認されないことも?」


「あります」


「その場合、今日の話は」


「参加候補者への事前説明です」


 何一つ先走らない人だった。


 晴人は渡された資料を鞄へ入れ、立ち上がった。扉へ向かいかけたところで、瑠璃に呼び止められる。


「神谷くん」


「はい」


「聞き取りをした七十一人のうち、雨の日でも利用したいと答えそうな人は、何人くらいいましたか」


「たぶん、ゼロです」


「では、その判断も資料に書いてください。『普通は使わない』ではなく、確かめられる形で」


「明日までに?」


「可能なら」


 晴人が返事をしないでいると、瑠璃はようやくはっきり笑った。


「自分で変えようとした規則ですから」


 その笑い方が思っていたより普通だったせいで、反論を一つ忘れた。


     *


 翌日の検討会で、晴人の参加は三分ほどで承認された。


 時間がかかったのは、その後だった。


 生徒会室の長机には、晴人と瑠璃のほか、生徒会長の宮下紗英、生活指導担当の竹内先生、一年と三年の一般生徒代表が座っていた。晴人が今回の二年代表を兼ねている。もう一人の担当教員は出張で欠席し、事前に意見を提出している。


 机の中央には、生徒心得の冊子が一冊ずつ配られていた。


「今回扱うのは、第十二条第二項」


 宮下が読み上げる。


「『昼休みにおける中庭への立ち入りは、通行の場合を除き禁止する』。神谷くんの要望は、これを昼休みに限って開放すること。ただし、検討会が直接校則を変更するわけじゃありません」


 宮下は三年生で、短く切った髪と、早口なのに聞き取りやすい声が印象的だった。机の端には、別の会議で使うらしい資料が二組積まれている。


「検討会で調査と試行をして、改定案をまとめる。生徒評議会と職員会議を経て、最終的には校長が承認する。今回は施設の利用方法が中心だから、試行までなら竹内先生と教頭先生の許可で始められます」


「まず、禁止した理由を調べる必要があります」


 瑠璃が言った。


「規定が追加されたのは四年前ですが、当時の検討記録が現在の生徒会資料にありません」


「生活指導部の倉庫にはあるはずだ」


 竹内先生が、生徒心得をめくりながら答えた。四十代半ばの数学教師で、晴人の授業を担当したことはない。


「ただし、中庭で問題があったのは覚えてる。食べ物のごみと、騒音。それから、昼休み明けの遅刻だな。禁止した当時の事情を無視して、今は大丈夫だろうでは通らない」


 晴人は、昨日追加した聞き取り結果を机に置いた。


「今の二年生で、禁止の理由を知っていたのは七十一人中四人でした。その四人も、危ないから、先生に見つかりにくいから、花壇を荒らした人がいたから、と答えが全部違います」


「だから規則をなくすのではなく、理由を知らせる必要があるとも考えられます」


 瑠璃が晴人の資料を受け取り、委員へ配った。


「わかってる。理由も知らされずに守れと言われても、誰も納得しないでしょう」


「言い方を変えれば、同じ意見です」


「昨日から、たまにそうなりますね」


 宮下が二人を見比べた。


「調査班としては、ちょうどいいんじゃない。早速だけど、今週中に過去資料と現地を確認。来週、試行できるかどうかの案を出して。確認項目は五つ。事故、ごみ、騒音、昼休み後の遅刻、利用人数」


「満足度も必要です」


 瑠璃が付け加えた。


「開放しても利用したい人がいなければ、規則を変える必要性が低くなります」


「賛成。六つね」


 宮下が記録用紙へ書き足した。


 晴人は並んだ項目を見た。


「ごみが一つ落ちていたら、その時点で中止ですか」


「今から基準を決めます」


 瑠璃が答える。


「苦情が一件でも来たら?」


「内容を確認します」


「遅刻したやつが、中庭のせいじゃないと言ったら?」


「利用記録と教室への到着時刻を照合します」


「思っていたより、ちゃんと調べるんですね」


「神谷くんは、何をすると思って参加したんですか」


「中庭で弁当を食べて、問題ありませんでした、と書くくらい」


「その報告書なら、一人で書けます」


「二人で食べる必要はない?」


「現時点では」


 瑠璃は手元の予定表に視線を落とした。晴人も何気なく同じ紙を見る。


 翌週の欄には、予備試行、という文字があった。


「現時点では、ということは」


「必要があれば、二人で利用します」


「それも調査ですか」


「ほかに何だと思うんですか」


「まだ何も」


 晴人が答えると、瑠璃は予定表の位置を少し直した。


 紙は最初から机の端に揃っていた。


     *


 会議の翌日、二人は中庭へ続く扉の前に立っていた。


 校舎は四角形に近い形で建っていて、中庭はその中央にある。東西の校舎を結ぶ渡り廊下だけは通行できるが、廊下から庭へ下りる二つの扉には、普段は鍵がかかっていた。


 ガラス越しに見えるのは、色の薄くなった煉瓦敷きと、四人掛けの木製テーブルが六台。中央に一本だけ大きな欅があり、枝の下へ円形のベンチが置かれている。花壇には初夏の花が咲いていたが、手入れをしているのは園芸委員で、中庭を利用しているわけではないらしい。


「外から見るより広いな」


「利用可能な場所は、見た目ほど広くありません。花壇と避難経路を除外すると――」


 瑠璃は鍵を差し込みながら言った。


「今から測る?」


「そのために来ました」


 扉が開く。晴人が先に外へ出ようとすると、瑠璃が「あ」と声を上げた。


 晴人は上げた足を廊下へ戻した。


「まだ入るな、ですか」


「いいえ。段差があるので気をつけてください、と言おうとしました」


「立入禁止の場所へ最初に出るから、止められたのかと」


「今日は竹内先生の許可があります」


「許可があれば、ちゃんと入りますよ」


「意外です」


「俺を何だと思ってるんですか」


「規定を三回変えようとした人」


「破ったことは一度もないです」


 晴人は段差を越えた。靴底が煉瓦をざらりと擦った。


 初夏の空気は校舎の中より少し軽く、欅の葉が作る影だけが涼しかった。これだけの場所を、誰も使わないままにしている。そのことが、ガラス越しに眺めていたときより不自然に思えた。


 瑠璃も中庭へ下り、鞄から巻き尺とクリップボードを出した。


「用意がいいな」


「測るとわかっていたので」


「俺は何をすれば?」


「巻き尺の端を持ってください」


「俺が呼ばれた理由、それだけじゃないですよね」


「今のところ、一人では測れないからです」


 瑠璃は真顔で巻き尺を差し出した。


 晴人は端を受け取った。少なくとも、退屈はしない相手らしかった。


 二人で測ると、中庭は東西に二十九メートル、南北に二十二メートルあった。


 ただし、中央の欅と花壇、渡り廊下から延びる避難経路を除くと、自由に使える場所は半分ほどになる。六台あるテーブルのうち、一台は天板が反り、その脚元の煉瓦も沈んでいた。


 晴人が巻き尺を戻している間に、瑠璃は円形ベンチの前でしゃがみ込んだ。


「何かありました?」


「ここの金具が浮いています」


 彼女はベンチの下へ顔を入れ、指先で裏側を確かめている。紺色のベストの背に、欅の葉から落ちた光が揺れた。


「佐伯さんがそこまで見るんですね」


「見つけた人が確認するのが早いでしょう」


「生徒会って、机で書類を作るところだと思ってました」


「その書類を作るために見ています」


 瑠璃が顔を上げる。


「それに、神谷くんは私を何だと思っていたんですか」


「要望書を青い字で細かくする人」


「今日からは、ベンチの下も見る人に直してください」


「もっと短い印象にできません?」


「それは神谷くんが考えてください」


 晴人は彼女の隣へしゃがんだ。金具は錆びていたが、触れても動かない。念のため写真を撮り、破損箇所として記録する。


 瑠璃が立ち上がり、スカートの膝を手で払った。


「神谷くんは、どうして中庭を使いたいんですか」


「要望書に書きました」


「それは、学校に出す理由です。神谷くん自身は、どうして使いたいんですか」


 晴人は中庭を見回した。


 教室では、昼になると前後の机を寄せる生徒が多い。窓側の晴人の席も、野口たちが弁当を広げるために使う。晴人も一緒に食べる日が大半だったが、毎日同じ人数で同じ話をしたいわけではなかった。一人になりたい日、二、三人で静かに話したい日、買ったパンを急いで食べて図書室へ行きたい日。そのどれにも、ちょうどいい場所がない。


「空いてるから、ですかね」


「空いている場所なら、ほかにもあります」


「使っていい場所は、だいたい誰かが使ってます。使ってない場所は、使っちゃいけない。ここは机もあるし、昼なら日も当たる。なのに、理由を知ってる人がほとんどいないまま閉まってる。それが変だと思った」


「変だから、自分が使いたい」


「順番は逆かもしれません。使いたいと思ったから、変だと気づいた」


 瑠璃はクリップボードへ何も書かなかった。


「今のは記録しないんですか」


「要望者の個人的動機は、審査項目ではありません」


「聞いたのに」


「私が知りたかっただけです」


 言ったあとで、瑠璃は巻き尺を受け取るために手を出した。晴人が渡すと、彼女はきっちり同じ幅に巻き直し始めた。


「佐伯さんは?」


「何がですか」


「中庭を使いたいですか」


 巻き尺を動かす指が一度止まった。


「調査前に結論を決めないようにしています」


「それは委員の答えでしょう」


「私は委員として来ています」


「今の質問も、審査項目じゃないです」


「そうですね」


 瑠璃はそれ以上答えず、次のテーブルへ向かった。


 断られたはずなのに、瑠璃の中にはもう答えがあるように見えた。


     *


 過去の資料は、生活指導室の奥にある書庫で見つかった。


 翌日の放課後、竹内先生に鍵を開けてもらい、晴人と瑠璃は六年前から四年前までのファイルを長机へ運んだ。


 中庭が閉鎖されたのは四年前の五月。最初の通知には、外壁補修工事に伴い、当面の間、中庭への立ち入りを禁止する、とある。


「工事なら、もう終わってますよね」


「同じ年の八月に完了報告があります」


 瑠璃が別のファイルを開いた。工事後の安全点検も、九月には済んでいる。


「じゃあ、この時点で戻せた」


「その前の記録も見ます」


「まだあるんですか」


「都合のいいところで調査を終わらせないでください」


「先に喜んだだけです」


「喜ぶのは最後にしてください」


 結果として、瑠璃のほうが正しかった。


 工事の前年、中庭の利用について三件の記録が残っていた。食べ残しに集まった烏がごみを散らかしたこと。携帯用スピーカーで音楽を流し、北棟一階の図書室から苦情が出たこと。予鈴が聞こえず、午後の授業へ七人が遅刻したこと。


 工事終了後の会議録には、以前からの問題が解消されていないため、当面の間、利用制限を継続する、と書かれていた。


「ちゃんと理由があったな」


 晴人が言うと、瑠璃が顔を上げた。


「反論しないんですか」


「記録があるのに?」


「工事は終わっている、と主張するかと思いました」


「ごみも騒音も、工事が片づけてくれるわけじゃないでしょう」


 晴人は三件の記録を自分のノートへ写した。改定に不利な情報ではある。それでも、なかったことにして案が通ったところで、同じ問題が起きれば、今度こそ長く閉鎖される。


「理由があるなら、その理由が今も残ってるか調べる。残ってるなら、起きない使い方を考える。それでいいですか」


「はい」


 瑠璃の返事が、少しだけ柔らかかった。


「何ですか」


「何がですか」


「今、急に安心したみたいな顔をしました」


「していません」


「じゃあ、俺の見間違いで」


「記録には残さないでください」


「残す場所がないですよ」


 晴人がノートを閉じると、瑠璃は四年前の会議録をもう一度見た。


「ただ、『当面の間』が四年続いているのは問題です」


「そこは意見が合いましたね」


「見直す時期を決めなかった。禁止を続けるなら続けるで、現在の理由を確認し直すべきでした」


「佐伯さん、規則を残す側の人じゃないんですか」


「必要な規則を残す側です」


 瑠璃は会議録の該当箇所へ付箋を貼った。


「不要になったものまで残したら、必要な規則も信用されなくなります」


 晴人が意見箱へ紙を入れたとき、そこまで考えていたわけではなかった。ただ、扉の向こうに空いた場所があり、誰も理由を知らないのが気に入らなかっただけだ。


 晴人が腹を立てただけの話を、瑠璃はもっと先まで考えている。少し悔しいが、頼もしかった。


     *


 翌週の月曜から、二人は聞き取りと利用実態の調査を始めた。


 三日間、昼休みの最初の二十分を使い、教室以外で食事をしている生徒を数えた。初日は北階段に十四人、食堂前の廊下に九人、特別教室棟との渡り廊下に六人で、計二十九人。翌二日の合計は三十一人、三十三人だった。


 階段では、上り下りする生徒のために弁当を持ったまま身体を寄せる。廊下では、清掃用具入れの前に座った生徒が、当番が来るたび立ち上がる。空いている場所ではなく、ほかに選べる場所がないから使われていた。


 瑠璃は人数だけでなく、通行の妨げになった回数も記録した。晴人は、生徒が移動した先と、空いていても誰も座らない場所を記録した。


 調査を終える頃には、昼休みは残り十分ほどになる。二人はその場に近いベンチや空き教室で、急いで昼食を取った。


「一緒に食べた時間も、調査時間に入りますか」


 二日目、晴人が尋ねると、瑠璃は時計を止めた。


「今からは休憩です」


「じゃあ、記録しない?」


「パンを食べる速さまで記録してほしいんですか」


「それは嫌だな」


「では、早く食べてください。あと八分です」


 短くなっても、別々に戻ろうとは、どちらも言わなかった。


 聞き取りの最初は、中庭に面する北棟一階の図書室だった。


 図書委員に話を聞くと、窓を開ける季節は廊下の声でも気になることがあるという。一方で、中庭の欅が作る影は読書に向いているので、静かに使えるなら外で本を読みたいという意見も出た。


 清掃を担当する一年四組では、担任の許可を取り、昼休みの終わりに五分だけ時間をもらった。


「中庭が開いた場合、清掃が増えることについてどう思いますか」


 瑠璃が教卓の前で尋ねる。


 困る、という声が何人かから上がった。当番を利用者にも分ければいい、持ち帰りにすればいい、そもそもごみ箱を置けばいい。答えはまとまらなかった。


 最後列の男子が手を挙げた。


「今でも渡り廊下の掃除は俺らなんで、庭が開いたら結局こっちに来ると思います」


 瑠璃は頷いた。


「ありがとうございます。その点も、利用者側で負担する方法を検討します」


 教室を出たあと、晴人は廊下で足を止めた。


「今の、ちゃんと不利な意見ですよね」


「そうですね」


「よく、ありがとうございますって言えますね」


「聞きたくない答えなら、最初から質問しません」


「俺だったら、ごみは持ち帰る予定です、って先に言ってしまいそうです」


「神谷くんは、聞く前から、ほしい答えが決まっていることがあります」


「佐伯さんは違う?」


「私は、答えを聞いて、必要なら案を変えます」


 言われて、晴人は昨日までの自分の質問を思い返した。中庭を使いたいか。ごみを持ち帰れるか。静かにできるか。欲しかった答えの形は、質問する前から決まっていた。


「それ、先週言ってくれればよかったのに」


「先週言って、神谷くんは納得しましたか」


「しなかったと思います」


「では、今日でよかったんです」


 瑠璃は次の聞き取り先を書いた紙を取り出した。


 順番まで決められている。晴人はその横から紙を覗き込み、最後にある施設管理員、柴崎、という名前を指した。


「この人は?」


「中庭の植栽と、校内設備の小規模な補修を担当しています。四年前から勤務されています」


「最初に聞けば、資料を全部探さなくても済んだんじゃないですか」


「人の記憶と記録の両方を確認するためです」


「順番にも理由がある」


「だいたいは」


「ないときも?」


 瑠璃は紙を折り、歩き出した。


「今は次へ行くほうが早いです」


 答えないときもあるらしい。


 柴崎は、用務員室の前で園芸用の支柱を束ねていた。日に焼けた腕を止め、二人の質問を最後まで聞いてから、中庭の鍵は今も毎朝確認していると教えてくれた。


「開けること自体は難しくないよ。その一台を対象外にして、煉瓦が沈んだ周囲へ入らないようにすればいい」


「清掃の負担はどうですか」


 瑠璃が尋ねる。


「使い方次第だな。閉める前は、ごみ箱を置いたのがよくなかった」


「ごみ箱が?」


 晴人は聞き返した。


「外のごみ箱なら、誰かが片づけてくれると思うだろ。弁当の残りまで入る。烏は賢いからね。持って入ったものを持って出るほうが、散らかりにくい」


 晴人はノートへ書き込んだ。


「中庭が開くの、反対ですか」


「私が決めることじゃない。ただ、使う人がいる場所を手入れするほうが、誰も入らない場所を手入れするより張り合いはあるよ」


 柴崎は支柱を抱え直した。


「あの欅の下、昼はいい風が通るから」


 その言葉に、瑠璃が中庭のある方角を見た。


 ほんの一秒ほどだったが、晴人は見逃さなかった。


 聞き取りを終えて渡り廊下へ戻ると、昼休み終了五分前の予鈴が鳴った。校舎の中では十分な音量だった。


「中庭には、これが聞こえないんですよね」


「屋外用のスピーカーは、閉鎖と同じ時期に故障したままです」


「直す予算は?」


「今年度分にはありません」


「時計を置くか、利用終了を早くするしかないか」


「携帯電話を持っていない生徒もいます。誰にでもわかる方法が必要です」


 二人は同時に廊下の壁時計を見た。


 考えることは、まだいくつもあった。


 けれど、最初に生徒会室へ呼ばれたときほど、それを面倒だとは思わなかった。


     *


 聞き取りと現地調査をもとに、瑠璃が作った試験利用要領は十三項目あった。


 木曜の放課後、生徒会室で最初の案を渡された晴人は、一枚目を読み終えたところで顔を上げた。


「これ、入口に貼るんですか」


「その予定です」


 晴人は二枚目までめくり、残りの紙を指で挟んだ。


「中庭に入る前に昼休みが終わりますよ」


「三分もあれば読めます」


「使えるのは二十五分ですよ。読むだけで三分?」


「読まずに入って問題が起きたら、残りの日も使えなくなります」


「『利用者は、他者の学習環境及び校内生活の平穏を害する音量を発してはならない』」


 晴人は三項目目を読み上げた。


「普通の声で話してください、じゃ駄目ですか」


「普通の基準は人によって違います」


「平穏を害する基準も違います」


 瑠璃はペン先を止め、手元の原稿を読み返した。


「……では、代案を出してください」


「走らない。散らかさない。大声を出さない。チャイムの十分前には戻る」


「四つ目は予鈴が聞こえない問題への対策ですね」


「はい」


「誰が時刻を知らせますか」


「試験中は、俺か佐伯さん。二人とも休みなら、その日は開けない」


「毎日開ける規則に変えたいのに、私たちがいない日は使えないままですか」


 晴人は口を閉じた。


 自分が言おうとしたことを、先に瑠璃から言われた。


「今のは、佐伯さんの側から出る意見なんですね」


「どちら側という話ではありません。誰か一人が毎日頑張らなければ維持できない方法は、続きません」


「佐伯さんなら、自分が毎日やると言うかと思った」


「言おうとはしました」


「やっぱり」


「でも、現地調査で神谷くんに同じことを言われそうだと思いました」


 瑠璃が、少し不満そうに原稿へ線を引く。


 晴人は笑った。


「何ですか」


「いや。俺がいないところでも、俺の意見が役に立ってるなと思って」


「都合のいい受け取り方ですね」


「違いました?」


「……間違いとは言いません」


 二人は十三項目を一つずつ崩した。


 掲示する内容は、利用時間、利用可能区域、飲食は着席して行うこと、ごみの持ち帰り、走る・物を投げる・大きな音を出す行為の禁止――以上の五項目に減らした。雨天時の閉鎖や、事故が起きた場合の連絡方法は、調査班が持つ運用資料へ移す。


 終了時刻については、竹内先生から古い卓上ベルを借り、十二時四十八分に鳴らすことにした。試験期間中は二人が交代で担当し、正式開放時には屋外用時計を設置するか、日直の仕事に組み込めるかを検討する。


「十三項目にも、意味はあったんだな」


「最初からそう言っています」


「入口に全部貼る意味はなかったけど」


 瑠璃は修正した紙を揃えた。


「自分で作った案だから、正しいと思い込みすぎました」


「そんなに簡単に認めるんですか」


「認めないほうがよかったですか」


「いや。次に言い合うとき、こっちも間違いを認めないといけなくなるなと思って」


「それは、今からでもお願いします」


 瑠璃の返事が早く、晴人はまた笑った。


 調査を始めて一週間。彼女が冗談を言うときも、笑うときもあることには、もう驚かなくなっていた。


     *


 一般生徒を入れる前に、調査班の二人で予備試行をすることになった。


 竹内先生の安全確認と教頭の許可が下りた翌日の金曜日、晴人と瑠璃は昼休み開始のチャイムから、中庭へ入るまでの時間を測った。


 二年三組から晴人が着くまで一分四十七秒。二年一組から瑠璃が着くまで一分三十九秒。鍵を開け、掲示を表へ出すのに二十六秒。


「走らなくても、二分ちょっとですね」


 瑠璃は時計を止め、記録した。


「昼飯、持ってきた?」


「はい。実際に飲食した場合の汚れと、ごみの量を確認します」


「そこまで理由をつけなくても、食べていいんでしょう」


「調査中ですから」


 瑠璃は欅の下のテーブルを選び、南側の席へ座った。


 晴人も向かいへ腰を下ろす。四人掛けのテーブルに二人だけなのに、教室で机を挟むより距離が近く感じられた。


 晴人は購買で買った焼きそばパンと紙パックの牛乳を出した。瑠璃は紺色の布に包んだ弁当箱と、水筒を並べる。弁当の蓋を開けると、卵焼き、焼いた鮭、いんげんの胡麻和えが、仕切りの中に収まっていた。


「見本みたいな弁当ですね」


「母が作りました」


「毎日?」


「生徒会で遅くなる日は、私が夕食を作るので、その代わりです」


「料理もできるんだ」


「生活に必要な程度です。神谷くんは毎日パンですか」


「朝、弁当を作る時間があれば寝ます」


「生活を改定したほうがよさそうですね」


「今回の対象外です」


 言ってから、二人とも少し笑った。


 欅の葉が風に擦れ、遠くで体育の授業を片づける声が聞こえた。校舎に四方を囲まれているのに、教室の中とは空気の動き方が違う。


 瑠璃は卵焼きを食べたあと、クリップボードへ何か記録した。


「食べながら書くんですか」


「風向きと、周囲の音です」


「卵焼きの感想じゃなくて?」


「必要ですか」


「俺には」


「甘い味です」


「そこを記録してどうするんです」


「聞いたのは神谷くんです」


 瑠璃が、やっと箸を止めて笑った。


 その顔を正面から見たのは、生徒会室で一瞬見たとき以来だった。委員として向き合っていたときより、同級生として近く見えた。


 当たり前のことなのに、晴人は少しだけ視線の置き場に困った。


「中庭、使いたかったでしょう」


 晴人は牛乳のストローを挿しながら言った。


「まだその質問を続けるんですか」


「柴崎さんが、いい風が通るって言ったとき、見てました」


「どこをですか」


「中庭のほう。今も、入ってから一度も嫌そうな顔をしてない」


 瑠璃は水筒の蓋へ麦茶を注いだ。


「嫌なら、開放案を担当しません」


「担当を決めたのは会長じゃないんですか」


「希望は聞かれました」


「じゃあ、使いたかった」


「開放できるか、調べたかったんです」


「似てるけど、同じじゃない?」


 瑠璃は麦茶を一口飲んだ。


「私は、中庭が開いていた頃を知っています。附属中へ入ったばかりの頃まで、何度か使いました」


「四年前なら、中学?」


「この学校の附属中にいました。校舎は別ですけど、図書室を使う行事があって。そういうときだけ、ここでお弁当を食べたんです」


 初めて聞く話だった。


「好きだった?」


「はい」


 瑠璃は今度は迷わなかった。


「それなら、要望書を出せばよかったのに」


「生徒会の立場で、私が使いたいから変えたい、とは言えません」


「生徒会に入ると、使いたいって言えなくなるんですか」


「言えないわけではありません。ただ、私が使いたいという気持ちと、全員に必要かどうかは分けて考えたいんです」


 晴人には、少し分けすぎているように思えた。清掃担当の教室で、「困る」と答えた生徒にまで礼を言えたのは、たぶんそのせいだ。


「じゃあ、今日は調査だから食べてる?」


「はい」


「楽しくはない?」


 瑠璃が箸を置いた。


「その二つは、両立します」


「それ、記録していいですか」


「審査項目ではありません」


「残念」


 晴人は焼きそばパンの袋を畳んだ。


 自分も同じだった。ここへ来たのは調査のためで、瑠璃と向かい合って話しているのも必要な作業の一部だ。


 それとは別に、昼休みが始まってから何度も時計を見ていたのに、早く戻りたいとは一度も思わなかった。


 十二時四十八分、晴人が卓上ベルを鳴らした。


 乾いた音が中庭へ響く。大きすぎず、六台のテーブルには十分届く。


 二人でごみが落ちていないことを確認し、掲示をしまい、扉に鍵をかける。教室へ戻るまで一分五十一秒。午後の授業には余裕で間に合った。


 五時間目が始まる前、野口が晴人の机へ寄ってきた。


「お前、昼休みどこにいた?」


「中庭」


「開いたのか」


「まだ。予備試行」


「誰と?」


「生徒会の佐伯さん」


 野口は、晴人の机に手をついたまま数秒黙った。


「鍵のかかった中庭で、女子と二人で弁当食ったの?」


「扉は開いてた。俺たちが中にいるんだから」


「そこじゃない」


「調査だよ」


「二人で弁当を食べる必要がある調査?」


「実際に飲食した場合の汚れと、ごみの量を確認するため」


 瑠璃の言葉をそのまま使うと、野口はますます疑わしそうな顔になった。


「長く説明するほど怪しくなるぞ」


「怪しいことは何もない」


「じゃあ、明日もやるのか」


「明日はやらない。次は月曜」


「予定は決まってるんだな」


 予鈴が鳴り、野口は笑いながら自分の席へ戻った。


 晴人は次の授業の教科書を出した。


 月曜は一般生徒を入れる試験初日だ。瑠璃と二人で食べるわけではない。


 誰にも聞かれていないのに、頭の中でそう付け加えた。


     *


 試験利用は、月曜から金曜までの五日間に決まった。


 予備試行の記録と五日間の実施案を提出し、竹内先生の安全確認と教頭の許可を得た。


 最初の二日間は、事前に申し込んだ生徒だけ。一日の定員は十八人。問題がなければ、水曜から当日の利用も認める。竹内先生が教員側の確認を担当するが、中庭に常駐はしない。晴人と瑠璃が入口と庭内に一人ずつ立ち、人数と時刻、問題の有無を記録する。


 満足度は五段階の一問だけにし、出口脇の二次元コードか、同じ場所に置いた紙の回答用紙で匿名回答を集めることにした。


 月曜の十二時二十分。昼休み開始のチャイムと同時に、晴人は三階の教室を出た。


 階段を下り、渡り廊下の入口へ着く。瑠璃はすでに鍵を開け、立入禁止の札を裏返していた。反対側には二人で作った試験利用中の掲示がある。


「早いですね」


「一組は、先生が四分早く授業を終えました」


「こっちは三十秒延びた」


「開始条件が公平ではありませんね」


「授業を一斉に終わらせるところから変えます?」


「今回の範囲を広げないでください」


 瑠璃は鍵を晴人へ渡し、自分は記録表を持って中庭へ下りた。


 申し込みは十四人だった。ところが、十二時二十五分になっても、来たのは五人だけだった。


 二年生の女子が二人、図書委員の男子が一人、一年生が二人。使える五台のテーブルはほとんど空いたまま、欅の葉だけが風に動いている。


「需要なし、で終わりませんよね」


 晴人は入口から瑠璃へ声をかけた。


「まだ五分です。遅れて来る人もいるかもしれません」


「遅れたら、食べる時間がなくなる」


「それも本人の選択です」


 十二時二十八分、もう一人来た。申し込み名簿にない三年生だった。


「今日から使えるって聞いたんだけど」


「本日と明日は、事前申込者のみです」


 瑠璃が答える。


 三年生は掲示を見た。


「これ、そう書いてある?」


 晴人も横から読んだ。


 『試験利用期間のうち第一日及び第二日は、事前に利用者として登録された者に限り、入場を認める』


「書いてはあります」


「じゃあ、今日は無理か」


「申し訳ありません。水曜日からは、空きがあれば利用できます」


 瑠璃が説明し、三年生は素直に引き返した。


 晴人は掲示を見たまま言った。


「読まれてないですね」


「読めば、意味はわかります」


「読む気になる前に負けてる」


「昨日、神谷くんも確認しました」


「内容は確認しました。でも、読む気になる文章かまでは考えてなかった」


 瑠璃も掲示を見上げた。


「では、明日までに直します」


「今、直しません?」


「印刷し直す時間はありません」


 晴人は掲示を留めているクリップから、予備の紙を一枚抜いた。胸ポケットのペンで、『月・火は申込者のみ。水曜から空席があれば入れます』と書き、文章の下へ貼った。


「これでいい」


「字が少し右上がりです」


「内容に関係あります?」


「ありません。明日は私が書きます」


「負けたくないだけでしょう」


「読まれるものを作るためです」


 瑠璃は否定しなかった。


 初日の利用者は、結局七人だった。ごみ、騒音、遅刻はゼロ。事故もない。満足度は七人全員から回答があり、五段階評価で平均四・六。


 数字だけを見れば成功だった。


 ただし、一年生の二人は同じテーブルの端に並び、空いた席へ鞄を置いたまま食べていた。あとから来た図書委員の男子は、一人で別のテーブルを使った。五台のテーブルと円形ベンチに七人しかいないので問題にはならない。それでも、定員十八人という数字と、実際に十八人が座れるかどうかは別だった。


 放課後、生徒会室で記録をまとめながら、瑠璃がその点を指摘した。


「荷物を席へ置くことを禁止します」


「空いてたら、置いてもよくないですか」


「『混んだら移動する』だと、あとから来た人が頼まなければなりません」


「頼めばいいでしょう」


「頼める人ばかりではありません」


 晴人は昼の光景を思い返した。一人で来た図書委員の男子は、空いているテーブルを選べた。それが一台しかなかったら、一年生へ鞄をどけてほしいと言えただろうか。


「荷物用の籠を置く?」


「新しい備品は、すぐには用意できません」


「テーブルの下に置く。雨の日は開けないから、床も濡れてない」


「通路へはみ出さないようにすれば、できますね」


 瑠璃が、利用要領へ一行を書き足した。


 晴人はその手元を眺めた。


「規則が増えましたね」


「必要だからです」


「十三項目へ戻らない?」


「戻しません。掲示は『混雑時、荷物は座席に置かないでください』だけにします」


「読みやすい」


「昨日の意見を採用しました」


 瑠璃は平然と言ったが、文字は晴人のものよりまっすぐだった。


     *


 二日目の掲示には、瑠璃が大きく書いた短い案内が貼られた。


 利用者は十一人。瑠璃の字が効いたのか、前日に来なかった申込者も三人現れた。


 晴人は入口で名簿を確認しながら、自分の昼食をまだ買っていないことに気づいた。朝、購買へ行けば間に合うと思い、そのまま忘れていた。


「神谷くん、交代します」


 十二時三十分、瑠璃が中庭から戻ってきた。


「記録は?」


「私が見ておきます。神谷くんは、今のうちに食べてください」


「買ってない」


「お弁当を?」


「何も」


 瑠璃は一度、中庭を振り返った。利用者は全員座り、騒がしい集団もいない。


「購買は、まだ残っているでしょうか」


「今からだと、たぶん菓子パンくらい」


「三分で行けますか」


「走れば」


「廊下は走らないでください」


「中庭の規則じゃない」


「校内全体の規則です」


 晴人が諦めて壁へ寄ると、瑠璃は中庭に置いていた鞄を持ってきた。


「鮭と梅、どちらがいいですか」


 差し出されたのは、ラップに包んだ小さなおにぎりだった。


「二つ持ってきてるんですか」


「昨日、母がご飯の量を間違えました」


「一つもらっていい?」


「そのために聞きました」


「じゃあ、鮭」


 瑠璃は鮭のほうを渡し、自分は梅を取った。


 二人で入口の脇へ並び、立ったまま食べる。調査班が座席を使うと、利用可能な人数が減るという理由で、試験利用中は二人ともテーブルへ座らないことにしていた。


「昨日より、よくまとまってますね」


 晴人が言うと、瑠璃は名簿へ時間を書き込んだ。


「朝、握り直しました」


「余ったから持ってきたんじゃなかった?」


「ご飯が余ったのは本当です」


「鮭と梅を入れたのは、今朝?」


「具のないおにぎりを渡すわけにはいかないでしょう」


 瑠璃は中庭を見たまま答えた。


 晴人も、それ以上は聞かなかった。


 鮭は端まで入っていた。


     *


 水曜日からは、事前の申し込みがなくても利用できるようになった。


 初日が七人、二日目が十一人。そこへ、改定要望の聞き取りに答えた生徒たちが加わり、三日目は十七人になった。


 入口へ来た野口は、名簿を確認する晴人と、奥で利用者へ席を案内する瑠璃を見て、声を潜めた。


「思ったより本格的だな」


「何だと思ってたんだよ」


「お前が中庭で昼飯を食いたくて、生徒会の女子を巻き込んだ」


「最初はだいたい合ってるけど、言い方が悪い」


「今は違う?」


 晴人はすぐに答えなかった。


 瑠璃は一年生三人へ、空席を指している。そのうち一人が首を横へ振ると、無理に勧めず、欅の円形ベンチまで一緒に歩いた。全員を同じ場所へ座らせるのではなく、選べる場所を同じだけ見せる。そのために、瑠璃は何度も庭を往復していた。


「今は、ちゃんと開けたい」


「へえ」


「何だよ」


「別に」


 野口は名簿へ名前を書き、中庭へ入った。


 十二時四十分を過ぎると、入口へ来る生徒はいなくなった。晴人は瑠璃と交代し、庭内を見回った。


 円形ベンチの端で、瑠璃が小さなサンドイッチを食べている。晴人が近づくと、彼女は少し詰めて場所を空けた。


「座っていい?」


「監視範囲を見渡せるので」


「それ以外の理由は?」


「予備試行の日に、聞いたでしょう」


「調査と楽しさは両立する」


「覚えていたんですね」


 晴人は彼女の隣へ座った。


 肩が触れるほどではない。ただ、向かい合ったときより、同じ方向を見ていることが意識に残った。


「おにぎり、ありがとう」


「どういたしまして」


「明日は忘れない」


「明日は私も持ってきません」


「どうして?」


「毎日余るほど、母は量を間違えません」


「そっちか」


 瑠璃が声を立てずに笑う。


 晴人も笑い、利用者のいる中庭を見た。


 四年前から閉まっていた場所に、人の声がある。大きすぎない話し声と、弁当箱の蓋を閉める音。誰かが立つと椅子が煉瓦を擦り、別の誰かが通れるように鞄を足元へ下ろす。


 思い描いていたのは、たしかにこういう光景だった。


 ただ、その隣に瑠璃が座っているところまでは、要望書に書いていなかった。


     *


 四日目には、別の問題が見えた。利用者は前日と同じ十七人だった。


 昼休みの前半には、校内新聞の一年生が写真を撮りに来た。記事の掲載は宮下が許可しており、利用者にも、顔が写らない角度で撮影することを説明する。欅の下に人が集まった一枚は、翌朝の配信に使われることになった。


「明日は、今日より増えるかもしれませんね」


 晴人が言うと、瑠璃は入口の広さを見た。


「最終日に人数が増えた場合も、確認しておきましょう」


 同じ部活動の二年生五人が、一台のテーブルと円形ベンチの半分を使った。違反ではない。荷物は足元に置き、声も大きくなかった。ただ、会話の輪が二つの場所にまたがったせいで、空いている席へほかの生徒が入りづらくなっていた。


 あとから来た一年生の女子は、入口で空席を数えたあと、名簿へ名前を書かずに戻ろうとした。


「まだ空いてますよ」


 晴人が声をかけると、女子は中庭を見た。


「でも、あそこ、同じ人たちですよね」


「席は別だから、座っていい」


「今日はいいです」


 女子は小さく頭を下げ、廊下へ戻った。


 晴人が瑠璃を見ると、彼女も気づいていた。五人の集団へ近づき、円形ベンチに置かれた水筒を示す。


「すみません。こちらの席、使ってもいいですか」


「佐伯さんが?」


「はい。一人分だけ」


 瑠璃は返事を待ってから、輪の端へ座った。五人は少し驚いたものの、すぐに身体を詰めた。瑠璃は記録表を膝へ置き、普通に弁当箱を開ける。


 晴人には真似できないやり方だった。


 しばらくすると、別の一人利用の生徒も、同じ円形ベンチの反対側へ座った。


 利用時間が終わり、二人で机の下を確認したあと、晴人は聞いた。


「よく、あそこへ入れましたね」


「空席でしたから」


「そういうの、平気なんですか」


「少し気まずかったです」


「平気そうに見えた」


「委員として必要だったので」


「また委員の理由だ」


 瑠璃は円形ベンチを見た。


「一人だったら、座らなかったと思います」


「俺が見てたから?」


 瑠璃が晴人を見る。


 今の聞き方は、少し違ったかもしれない。言い直そうとしたところで、彼女が頷いた。


「何かあれば、神谷くんが来ると思ったので」


「行きますよ。それは」


「はい。そう思いました」


 瑠璃は記録表を閉じた。


 頼られたことが嬉しいと、その場で言うのは難しかった。晴人は代わりに、円形ベンチを指した。


「明日は、あそこを一人利用優先にします?」


「一人だけを優先すると、二人で使いたい生徒が困ります」


「じゃあ、グループで二か所にまたがるのを禁止」


「三人が、離れた空席しかない場合は?」


「厳しいな」


 瑠璃は記録表へ目を落とした。


「誰か一人に問題があるわけではありません。誰も違反していなくても、使いにくい人は出ます」


「わかってます。だから考えてる」


 二人は鍵を閉めたあとも、渡り廊下に残った。


 最終的に、先に加えた六項目目を、『混雑時は荷物を足元に置き、空席をほかの利用者と共有してください』と書き換えた。命令だけではなく、四人掛けの席を何人で使っているかがわかる簡単な図もつける。


「これで六項目」


 晴人が言うと、瑠璃は新しい掲示を鞄へしまった。


「必要な六つです」


「今のところは」


「増やしたくなさそうですね」


「佐伯さんが十三まで戻しそうだから」


「もう戻しません」


「信用していい?」


「神谷くんが勝手に三つまで減らさないなら」


「それなら、お互いに見張る必要がありますね」


 瑠璃は扉の鍵を引いて確認した。


「必要がなくても、相談してください」


 晴人は返事をするまでに、一拍遅れた。


 規則の話だとわかっている。それでも、必要がなくても、という部分だけが妙に残った。


     *


 最終日の金曜日、試験利用は失敗した。


 原因は一つではなかった。


 朝、校内新聞の短い記事が配信された。『四年ぶりの中庭、試験開放中』という見出しの下に、木曜の利用者が欅の下で昼食を取る写真が載っていた。


 記事の掲載は、前日に生徒会を通して許可している。晴人も瑠璃も、試験の周知になると考えた。事前の聞き取りでは中庭を使いたい生徒が多かったのに、実際の利用は最大十七人。最後の日に、もう少し人数が増えた場合を確認したいという意図もあった。


 増えたのは、もう少しではなかった。


 昼休み開始から三分で、入口に二十人近くが並んだ。


 瑠璃は十八枚用意した青い入場札を一人ずつに渡し、晴人が中で座席へ誘導する。木曜まで使っていた名簿では入口が詰まるため、前日のうちに青い札へ切り替える案を竹内先生へ報告し、許可を得ていた。


 十二時二十六分、十八枚目の札がなくなった。


 その時点で、利用可能な五台のテーブルには二席の空きがあり、円形ベンチにも三人は座れた。札は調査班二人と、通路確保の余裕を引いた数にしてある。


「今日はここまでです」


 入口で瑠璃が告げる。


 並んでいた男子二人が、中の空席を指した。


「まだ座れますよね」


「安全に確認できる人数を十八人と決めています。申し訳ありません」


「立って食べるならいいですか」


「飲食は着席して行う規則です」


 二人が引き返しかけたところで、晴人は入口へ向かった。


「円形ベンチ、まだ空いてる。二人なら大丈夫です」


 瑠璃が振り返る。


「神谷くん、札がありません」


「実際の席はある。通路も空いてる」


「今日は十八人で試す許可です」


「調査班を人数に入れてるからでしょう。俺は立って見てるし、佐伯さんも入口にいる」


 待っている二人の前で長く話すことではないと思った。


 晴人は瑠璃の返事を待たず、二人へ円形ベンチを示した。


「あそこを使ってください。青い札はないので、帰るとき入口で人数を伝えて」


「ありがとうございます」


 二人が中へ入る。


 瑠璃は晴人を見たが、さらに三人が入口へ来たため、何も言わず対応へ戻った。


 最初の二人が入ったのを見ていた三人は、空いているなら自分たちも、と言った。瑠璃は定員を説明したが、一人だけなら、立つだけなら、食べ終えた人と交代するなら、と話が続く。


 晴人が中庭へ戻ると、木曜まで静かだった場所が、教室と同じくらいの音量になっていた。人数だけではない。初めて使う生徒が多く、席を探す声、写真を撮る声、友人を呼ぶ声が重なっている。


 円形ベンチでは、札を持たない二人の横へ別の三人が立っていた。入口で断られ、渡り廊下側から声をかけているらしい。


「中へは入らないで」


 晴人が近づくと、そのうち一人が足元を見た。


「ここ、もう中ですか」


 舗装された通行区域と滞在区域の境には、低い黄色のテープを貼っている。けれど、人が重なると見えない。


「その線より内側は、利用者だけ」


「あ、すみません」


 三人が下がる。その拍子に、一人が持っていたパンの包みが風にあおられた。


 透明な袋は花壇へ落ち、植え込みの奥へ転がる。持ち主が反射的に追いかけ、靴の片方が花壇の土へ入った。


「待って。そこは入らないで」


 晴人が止め、自分で袋を拾った。


 その間に、別のテーブルで笑い声が上がる。図書室の窓が一度閉まり、すぐに開いて、図書委員が顔を出した。


「少し静かにしてもらえますか」


「すみません」


 晴人と瑠璃の声が重なった。


 十二時四十八分、瑠璃が卓上ベルを鳴らした。


 人の声に埋もれ、一度では全体に届かなかった。二度目を鳴らし、晴人が声を上げて終了を知らせる。入口は帰る生徒と、廊下を通る生徒で一時的に詰まった。


 最後の二人が出たのは、十二時五十四分だった。二人にはその場で氏名とクラスを確認し、午後、担任の遅刻記録と照合した。


 午後の授業へ遅れた生徒が二人。図書室からの騒音の申し出が一件。花壇への立ち入りが一件。植え込みから拾った包装が一枚。


 さらに、机の下には空の紙コップが残っていた。


 瑠璃がそれを拾い上げたとき、晴人は何も言えなかった。


     *


 放課後の検討会で、竹内先生は今後の追加試行を当面停止すると決めた。


「閉鎖へ戻すと決めたわけじゃない。今日の問題を整理して、同じ条件では繰り返さない案を出してくれ」


 叱る口調ではなかった。そのことが、かえって重かった。


 宮下は、金曜の記事を許可した生徒会側にも予測不足があったと記録した。竹内先生は、試行人数の根拠と入口の動線を十分確認しなかった教員側の責任も書き加えた。


 晴人と瑠璃は、月曜までにそれぞれ試行分析書を作ることになった。


 会議が終わり、ほかの委員が出ていったあとも、二人は生徒会室に残った。


 瑠璃は金曜の記録表を机へ広げた。


「入場者は二十人。中へ入らず境界付近に滞在した生徒が三人。中庭内の最大利用者数は二十人。入口周辺まで含め、同時に集まった利用希望者は二十三人です」


「紙コップは一つ。包装は本人が拾おうとした。『ごみ二件』だけだと意味が違うから、そこも書いて」


「『包装一枚は風で飛散し、所有者が回収を試みた』。これでいいですか」


「うん」


 瑠璃のペンが止まった。


「都合の悪いことも、記録には残すんですね」


「隠せなんて言ってない」


「でも、十八人を超えて入れました」


「席が空いてたからだよ」


「そこではなくて。相談しないで条件を変えたことを言っています」


「あの場で二人を待たせて、話し合えって?」


「会議をしろとは言ってません」


 瑠璃は一度口を閉じ、記録表の端を指で押さえた。


「……最初に決めた人数を、勝手に変えないでほしかったんです」


「目の前に空席があるのに、数字だけで断るのが正しいのか」


「だからといって二人だけ入れたら、あとから来た人に説明できません。どうして自分たちは駄目なのかって」


「説明してる間、佐伯さんは入口を離れられなかった。でも、入れた二人が何かしたわけじゃない」


「その二人だけの話をしているんじゃありません」


「じゃあ、何の話だよ」


 声から、いつもの軽さが消えた。


 瑠璃がわずかに眉を寄せた。それでも、話を逸らさなかった。


「同じ条件なら、同じように扱えるかという話です。神谷くんがその場で大丈夫だと思った人だけを入れるなら――」


「現場を見ない規則なら、変えても使えない」


「そうじゃなくて。現場を見ることと、一人で決めることは違います。それでは、規則を変える意味がありません」


 瑠璃は静かな声のまま、記録表を揃えた。


「私も、入口で説明しすぎました。掲示の場所も、人の流れもよくなかった。そこは自分の分析書に書きます」


「俺のせいだけじゃないって言いたい?」


「誰か一人のせいにしないために、分析するんです」


「原因を分けたら、来週から俺とやらなくても済む?」


 瑠璃の指が止まり、晴人も口を閉じた。


「そのために分けるんじゃありません。分けなければ、直せないからです」


 瑠璃はそれだけ言い、書類を鞄へ入れた。


「月曜、分析書を提出します。必要な連絡は、共有の連絡先へ送ります」


 それまで毎日、次に会う時刻を決めて別れていた。


 今日は決めなかった。


「わかった」


 晴人は先に生徒会室を出た。


 廊下の突き当たりから、中庭の欅が見えた。扉には、立入禁止の札が表を向いている。


 最初に見たときと同じ光景のはずだった。


 今は、前よりずっと閉じて見えた。


     *


 月曜の昼休み、晴人は二週間ぶりに自分の教室でパンを食べた。


 窓側の机を三つ寄せ、野口たち四人が座る。話題は週末のサッカーと、次の数学の小テストだった。どちらも普段どおりで、晴人も適当に相槌を打った。


 教室が嫌いなわけではない。


 ただ、四人で三つの机を使うため、隣の女子が自分の机を少し廊下側へずらしている。後ろの席では、六人の輪に入らない男子が、机を動かさず一人で弁当を食べていた。


 以前なら、空いている席と、空いていない席しか見ていなかった。


 今は、その席へ誰なら座れるのかが目に入る。


「晴人、聞いてる?」


 野口に呼ばれ、晴人は顔を上げた。


「数学、範囲どこまでだって?」


「そこじゃない。中庭、どうなった」


「止まった」


「見ればわかる。次、やらないのか」


「分析書を出して、それから決める」


「佐伯さんと?」


「別々に書く」


 野口は焼きそばを挟んだパンを持ったまま、晴人を見た。


「けんかした?」


「意見が合わなかった」


「それを、普通はけんかって言う」


「仕事の話だよ」


「じゃあ、仕事じゃない話は?」


 晴人は答えず、牛乳を飲んだ。


 仕事ではない話を、ほとんどしていないことに気づいた。


 瑠璃の弁当の卵焼きが甘いこと。母親と夕食作りを分担していること。中学生のとき、中庭で弁当を食べたこと。それくらいだ。


 それでも、一緒にいなかった今日の昼休みは、いつもより長かった。


 チャイムが鳴る前、晴人は教室を出た。


 木曜に声をかけたあと、中庭へ入らず帰った一年生を探すためだった。以前の試験利用で提出された申込用紙に、氏名と組が残っている。教室の前で呼び出すと、女子は最初こそ緊張したが、晴人が分析のためだと説明すると、廊下の隅で話してくれた。


「それまで空いていた日は入れたんです。でも、木曜は同じグループの人が多かったので」


「席が一つ空いてても?」


「待ってる人がいたし、二年生が多かったから。入っていいって言われても、ずっと見られそうで」


「入口で名前を書かせたのも、入りにくかった?」


「ちょっと。何かあったら、名前を呼ばれるのかなって」


 晴人は礼を言い、その場でノートへ書いた。


 名簿と長い説明は、使いたかった女子を入口で引き返させていた。定員と空席が食い違ったままなら、晴人のように、その場で例外を作りたくもなる。


     *


 晴人は放課後までに、分析書を四ページ書いた。


 一、定員と実際の使用可能席数が一致していなかった。


 二、入場札の受け渡しと説明を同じ場所で行い、入口を塞いだ。


 三、滞在区域と通行区域の境界が、人が集まると見えなかった。


 四、調査班に、その場で利用条件を変更する権限はなかった。


 最後の一行を書くのに、最も時間がかかった。


 晴人は現場を見て判断した。席があり、通路も空いていた。二人を入れたこと自体が事故につながったわけでもない。


 それでも、瑠璃へ相談しなかったことと、あとから来た生徒へ同じ説明ができなくなったことは、別の問題だった。


 自分が正しそうな瞬間だけを選べば、そこは書かなくても済む。


 晴人は消さずに残した。


 提出のため生徒会室へ行くと、宮下が一人で資料を綴じていた。


「佐伯は?」


「北棟。最後の測定をしてくるって」


「一人で?」


「うん。竹内先生には伝えてある」


 宮下は晴人の分析書を受け取り、最初のページだけ見た。


「神谷くんも、続ける案を書いたんだ」


「止めるための分析じゃないでしょう」


「佐伯も同じこと言ってたよ。昼に図書室と一年四組へ謝りに行って、先生にも頼んでた。試験をやめるかどうかは、分析してから決めてほしいって」


「一人で行ったんですか」


「うん。私も行くって言ったけど、自分で聞いたほうが本音が出るからって」


 晴人は、清掃担当の教室で瑠璃が言ったことを思い出した。


 答えを聞いて、必要なら案を変える。


 自分と話さなくても、彼女は同じように動いていた。


「分析書、あとで差し替えてもいいですか」


「期限までは。ただし、書いたことを都合よく減らすのはなし」


「増やします」


 晴人は生徒会室を出た。


 北棟へ向かう途中、廊下の壁時計は四時二十分を指していた。


 中庭の扉は閉まっていたが、渡り廊下のガラス越しに瑠璃の姿が見えた。中ではなく、廊下側にしゃがみ、入口の幅を巻き尺で測っている。


「佐伯さん」


 呼ぶと、瑠璃が顔を上げた。


 金曜の別れ際と同じように、少し硬い表情だった。


「分析書は?」


「出しました。佐伯さんは?」


「これを測ったら、出します」


「手伝う」


「一人でも測れます」


「片方を押さえたほうが正確です」


 最初の現地調査で瑠璃に言われたことだった。


 彼女は少し迷ってから、巻き尺の端を渡した。


 二人で入口の幅、扉を全開にしたときの通行可能部分、掲示を置いた場合に残る広さを測る。数字を読み上げ、記録し、三か所目を測り終えるまで、金曜の話はしなかった。


 巻き尺をしまったあと、晴人が先に口を開いた。


「悪かった」


 瑠璃が手を止めた。


「何についてですか」


「人数を勝手に変えたこと。あの二人を入れるのが正しいと思って、相談を飛ばした。あとに来る人へ同じ説明ができなくなることも、説明するのが佐伯さんだってことも考えてなかった」


 瑠璃は黙って聞いていた。


「それと、原因を分けるのを、逃げるみたいに言った。佐伯さんが分けたから、俺も自分の悪かったところがわかった」


「分析書に書きましたか」


「書いた」


「そうですか」


 瑠璃は巻き尺を鞄へ入れた。


「私も、すみませんでした。説明すればわかってもらえると思って、人が増えたときに入口がどうなるかまで考えていませんでした」


「佐伯さんだけの問題じゃない」


「神谷くんだけの問題でもありません」


「別々に直す?」


 晴人が尋ねた。


「分析書は別々です」


「そのあとの案。俺は、佐伯さんと作り直したい」


 瑠璃が晴人を見る。


「一人で勝手に変えないためにも、二人でやる必要がある。それに、佐伯さんの規則を読める長さに直す人も要る」


「最後の一言は余計です」


「でも必要でしょう」


「……必要です」


 瑠璃は小さく息を吐いた。


「私も、神谷くんと作り直したいです。現場で困る人を、書類だけでは見つけられないので」


「じゃあ、また二人で」


「はい」


 その返事を聞いただけで、閉じた扉が金曜ほど重く見えなくなった。


     *


 翌日から、二人は空き教室で再試行案の模擬検証を始めた。


 中庭は使えないので、机を五台並べ、椅子を二十八脚置く。入口役、利用者役、廊下を通る生徒役を交代しながら、どこで人が止まるかを確かめた。


「二十八席あるなら、定員も二十八人。座れない人は入れない」


 晴人が言うと、瑠璃は利用者役として鞄を椅子へ置いた。


「私は二席使います」


 晴人は、鞄の置かれた椅子を指した。


「混んできたら、どけて」


「まだ二十人です」


「今じゃなくて。あとから来た人が――」


「来たら移動します」


「その人が頼めなかったら?」


「月曜、神谷くんが聞いた話ですね」


「俺の嫌なところを覚えてるな」


 瑠璃は鞄を足元へ下ろした。今度は椅子を一脚持ち、設定上の区域外へ置いた。


「ここに座ります」


「舗装の外だから駄目」


 瑠璃は椅子を戻さず、その場に立った。


「では、立っているだけなら?」


 晴人は即答しかけて、やめた。


「……長くいるなら駄目」


「何分からが長時間ですか」


「佐伯さん、楽しんでません?」


 瑠璃は椅子の背に両手を置いた。


「何分ですか」


「俺でも、そこまでは言わない」


「では、想定を超える利用者です」


 瑠璃は澄ました顔で椅子を戻した。


 最初に十三項目を出したときより、明らかに楽しそうだった。


 二人で決めた変更は、入場札をなくし、使える席そのものを二十八席に限定すること。入口には、空席あり、満席、閉鎖中、の三枚だけを表示する。掲示は六項目のままにし、理由や詳細は二次元コードの先と、入口脇の閲覧用ファイルで読めるようにする。


 滞在区域と通行区域の境界は、床の細い線ではなく、低い植木鉢を間隔を空けて並べる。避難経路を塞がず、人が重なっても見える。


 終了時刻は、入口の大きな時計と卓上ベルで知らせる。ベルは十二時四十七分と五十分の二回。最初は片づけの合図、二度目は退出の時刻にする。


「監視役は?」


 瑠璃が尋ねた。


「再試行の三日間は俺たち。正式開放したら、生徒会の日直が入口に立つ。札を替えて、ベルを二回鳴らして、最後に見回って鍵を閉める」


 瑠璃は机の上の運用案を引き寄せ、「日直」の横に丸をつけた。


「日直の負担が増えます。それに、使った人も、誰かが見ると思って自分の周りを見ないかもしれません」


 晴人はその運用案の余白へ、「利用者――自分の席」と書き足した。


「使った人は、自分の席を見る。最後に日直が全体を見る」


「最後に出た一人に、全部押しつけるんですか」


「違う。日直はもともと鍵を閉めるから、その前に全体を見る。誰か一人に固定せず、当番表に入れる。俺たちだけの仕事にはしない」


 瑠璃は考え、頷いた。


「試してみましょう」


 さらに、閉鎖する場合は理由と再開予定日を掲示すること、一か月後に必ず利用状況を見直すことも加えた。


「『当面の間』は禁止ですね」


「禁止するのではなく、期限を書くことを義務にします」


「言い方が佐伯さんらしい」


「禁止を増やさないためです」


 二人で顔を見合わせ、同時に笑った。


 作業を終えたのは、下校時刻の二十分前だった。


 机と椅子を元へ戻し、晴人が黒板を消す。瑠璃は窓を閉め、最後に、空席あり、と書いた札を手に取った。


「これ、私が作ります」


「また文章を増やさない?」


「四文字です」


「念のため」


「神谷くんの右上がりの字より、見やすくします」


「まだ気にしてたんだ」


「必要な改善です」


 瑠璃は札を鞄へ入れた。


「明日、昼休みに色を確認してください」


「一緒に食べながら?」


 言ってから、晴人は少しだけ身構えた。


 中庭は停止中だ。昼食を一緒にすることは、調査には必要ない。


 瑠璃は教室の扉へ手をかけたまま振り返った。


「どこで食べますか」


「図書室前のベンチなら、色も見える」


「わかりました。十二時二十五分に」


 理由は薄かったが、約束にはなった。


 廊下へ出て、晴人は一人で笑った。


     *


 翌日の昼休み、瑠璃が持ってきた『空席あり』の札は、濃い緑色の地に白い文字で作られていた。


「見やすい」


「昨日、家族にも確認しました」


「本格的だな」


「神谷くんに、色の組み合わせが見えにくい人もいると言われたので」


 図書室前のベンチに座り、晴人は札を陽の当たる場所と影へ交互に出した。どちらでも文字は読める。『満席』の札は黄色、『閉鎖中』は赤だが、色だけでなく文字と形も変えてある。


「俺の仕事、もうないですね」


「まだあります。入口から見えるか確認してください」


「ここから十分見える」


「では、終わりです」


 瑠璃は札を脇へ置き、弁当箱を開けた。


 晴人も、今朝は忘れずに買ったパンを出す。


 色の確認は三分で終わった。昼休みは、あと二十分以上ある。


「これから、どうします?」


「食べます」


「調査は?」


「終了しました」


「じゃあ、今は?」


 瑠璃は箸でいんげんをつまみ、晴人を見た。


「昼食です」


「俺と食べる必要はないですよ」


「神谷くんは、帰りたいんですか」


「帰りたくない」


「では、問題ありません」


 あまりに普通に言われ、晴人のほうが黙った。


 瑠璃は何事もなかったように食事を続ける。耳が少し赤いようにも見えたが、六月の廊下は風が通らず、晴人の頬も暑かった。


 瑠璃が水筒を鞄へ戻すと、鞄の口から文庫本の角がのぞいた。


「それ、昼休みに読むんですか」


「食べ終わって時間があれば。推理小説です」


「犯人を当てるのが好き?」


「いいえ。最後に、最初の場面の意味が変わるものが好きなんです」


「駅前の古本屋にも、推理小説が結構ありますよ」


「神谷くん、よく行くんですか」


「休みの日に。古本屋を見たり、川沿いを自転車で走ったり。目的なく出ることが多い」


「計画を立てないんですね」


「休みの日まで決めたくない」


「私は、行く場所だけ決めて、時間は決めません」


「意外です」


「ベンチの下を見る人ですから」


 最初に晴人がつけた長い印象を、瑠璃は覚えていた。


「それ、自分で採用したんだ」


「神谷くんがまだ短くしてくれないので」


「今なら、もう少しありますよ」


「何ですか」


 晴人は言いかけて、パンの袋を畳んだ。


 不利な意見にも礼を言える人。一人で入りづらい場所へ、必要なら自分から座れる人。ご飯が余った翌朝に、わざわざ具を二種類入れてくる人。


「今度、まとめて言います」


「また期限を決めないつもりですか」


「忘れません」


「では、待ちます」


 瑠璃は水筒へ手を伸ばした。


     *


 再試行の許可を求める会議は、その日の放課後に開かれた。


 最初に、晴人と瑠璃が別々の分析書を説明した。内容には、重なる部分も、違う部分もある。


 晴人は、定員を超えて二人を入れた判断について、空席があるという一時的な状況だけを見て、あとから来る生徒へ同じ判断を適用できるか考えなかったと話した。


 瑠璃は、利用条件を守らせることに意識が向き、入口で説明を続けた結果、人の流れそのものを止めたと話した。


 宮下は二人の説明を聞いたあと、共同修正案をめくった。


「最初の案より、管理する人の仕事が減ってるね」


「はい。入口で一人ずつ許可する方式をやめます」


 瑠璃が答える。


「空席があるかは、入口の札で知らせます。席がなければ満席です。調査班が誰を入れるか決める必要はありません」


「立って使いたい人が来たら?」


 一年代表の委員が尋ねた。


「飲食以外で、短時間なら通行区域から見学できます。ただし、滞在区域へ入るには席が必要です」


 晴人が答えた。


「その理由は?」


「人数を数えるためじゃなくて、混雑しても避難経路を残すためです。席の数を固定すれば、入れる上限もその場で変わりません」


 竹内先生は、運用案の最後を指した。


「一か月後の見直し日を、最初から表示するのか」


「はい。開放を続ける場合も、条件を変える場合も、理由を記録します」


 瑠璃が答えた。


「また閉鎖する必要が出た場合は、理由と、次に見直す日を掲示します。『当面の間』だけで終わらせません」


 竹内先生はしばらく資料を読み、宮下と目を合わせた。


「教頭の許可も取れた。三日間だ。木曜から翌週月曜まで。金曜の問題を小さく見せるための再試行にはするな。閉める必要があれば、二人で判断して閉めろ」


「はい」


 二人の返事が重なった。


 会議後、宮下は資料を抱えて先に出ていった。竹内先生も職員室へ戻り、生徒会室には晴人と瑠璃だけが残った。


「通った」


 晴人が言うと、瑠璃は息を吐き、椅子の背へ少しだけ身体を預けた。


「喜ぶのは最後です」


「最初の資料調査でも言われました」


「覚えていたんですね」


「でも、今は少しくらいいいでしょう」


 晴人が右手を上げると、瑠璃はその手を見た。


「何ですか」


「二度目の開始」


 意味が通じるまで一秒かかり、瑠璃も手を上げた。


 軽く合わせた掌が、乾いた音を立てる。


 すぐ離れるつもりだったのに、手を離すタイミングが半拍ずれた。指先が一度触れ直し、瑠璃が先に手を下ろした。


「明日は、朝から準備します」


「話を戻すのが早いな」


「今のことを、長く話しますか」


 そう聞かれると、晴人にもできなかった。


「準備、八時?」


「八時です」


「わかった」


 鞄を持って廊下へ出る。


 階段を下りる間も、晴人の右手には、触れたときの温度が少し残っていた。


     *


 再試行初日の木曜日、二人は朝から中庭へ植木鉢を運んだ。


 柴崎が用意した背の低い鉢を、通行区域と滞在区域の境へ一メートル半ずつ空けて並べる。人は通れるが、境界は遠くからでもわかる。


 五台のテーブルに二十席。欅の円形ベンチに八席。座れる場所には、番号ではなく小さな緑の印をつけた。壊れたテーブルと、煉瓦が沈んだ場所にはロープを張る。


 入口から見える壁には、大きな時計を掛けた。下には六項目の掲示と、次回見直し日。扉の外側には、瑠璃が作った三枚の札のうち、『空席あり』が出ている。


「これで、色はどうですか」


 少し離れたところから瑠璃が尋ねる。


「見やすい」


「昨日も聞きました」


「今日は中庭の光で見てる」


「ほかには?」


「文字もまっすぐ」


「そこは確認項目ではありません」


 瑠璃は満足したように札を掛け直した。


 昼休みが始まると、前回の記事を見た生徒がまた集まった。


 入口で名前を書かせず、説明もしない。空席ありの札を見て入り、六項目だけを読んでもらう。晴人は中庭の中央、瑠璃は渡り廊下側に立って流れを記録した。


 十二時二十五分に十六人。三十分に二十四人。三十五分に二十七人。


 二十八人目が入って最後の席へ座ると、晴人が入口の札を『満席』に替えた。


 その後に来た二年生二人は、中を覗いたあと、札を見て引き返した。説明を求められることも、不満を言われることもなかった。


 十二時四十分、一人が食べ終えて出た。椅子を戻し、足元を一度振り返ってから入口を通る。晴人が札を『空席あり』へ戻すと、その様子を廊下で待っていた生徒が、入れ替わりに中へ入った。最後の一席が埋まり、晴人は札を再び『満席』へ替えた。


「声をかけなくても、入れ替わってますね」


 晴人が瑠璃の隣へ行くと、彼女は利用人数の欄へ二十九人目を書き足した。


「最初からこうすればよかった」


「規則を決めたから、こうできたんです」


「そこは譲らないんだ」


「神谷くんも、もう全部なくせとは言わないでしょう」


「最初から、全部なくせとは言ってません」


「そうでしたね。……でも、前よりは近づきました」


 瑠璃の声に、少し嬉しそうな響きがあった。


 十二時四十七分、一度目のベルを鳴らす。利用者が食事を終え、机の下を見始めた。円形ベンチの隙間に、紙ナプキンが挟まっているのが見つかった。落とした本人はわからなかったが、気づいた生徒が拾い、近くの二人も足元を確認する。


 二度目のベルまでに、全員が中庭を出た。


 遅刻、事故、苦情はゼロ。残ったごみもない。


「喜んでいい?」


 鍵を閉めたあと、晴人が聞いた。


「一日目です」


「少しだけ」


「……少しだけなら」


 瑠璃は右手を上げた。


 前日のように掌を合わせる。その手を下ろしたあと、二人とも一度笑った。


     *


 二日目の金曜日は、朝から雨だった。


 昼前には弱くなったものの、煉瓦は濡れ、欅の下にも細かな雫が落ちている。二人は相談し、十二時前に『閉鎖中』の札を出した。


 その下には、理由と再開予定を書いた。


 降雨による路面の濡れ。午後に状態を確認し、問題がなければ月曜に再開。


 昼休みになると、十人ほどが扉まで来た。札を読み、ガラス越しに中を見て、そのまま戻っていく。


「使いたかったな」


 晴人は扉の脇で言った。


「私もです」


 瑠璃は最初から、そう答えた。


 二人の役目は、閉鎖の掲示が廊下から読めることを確認した時点で終わっていた。


 晴人は教室へ戻ろうとした。すると、瑠璃は図書室前のベンチへ座り、鞄から弁当箱を出した。


「食べないんですか」


「ここで?」


「昨日と同じ時間に昼食を取る約束はしていませんが、予定を変えるとも言っていません」


「中庭が閉まってるから、調査はないですよ」


「知っています」


 瑠璃はベンチの隣を空けた。


 晴人は一度だけ中庭を見てから、その場所へ座った。


 窓へ当たる雨音を聞きながら、パンの袋を開ける。予備試行の日のように向かい合ってはいない。再試行前に座ったときより、二人の間隔が狭かった。


「佐伯さん、最初に中庭を使ったときも雨でした?」


「晴れていました。秋だったので、欅の葉が黄色くなっていて」


「よく覚えてるな」


「四回使いました。最初は小学六年の学校見学、二回目は冬の入学説明会、三回目は――」


 瑠璃は途中で止まった。


「何ですか」


「全部説明すると、長くなります」


「今日は調査がないから、時間ありますよ」


 瑠璃は晴人を見て、それから少し笑った。


「附属中の新入生行事です。四回目は、入学した年の四月に図書室の読書会で」


「青葉に入りたかった?」


「図書室と、中庭が好きだったので。けれど、入学して一か月もしないうちに閉まってしまいました」


「それでも、生徒会に入った」


「閉めたのは、今の生徒会ではありません」


「恨んだりしなかった?」


「少しは。ですが、知らない事情があるかもしれないとも思いました」


「実際、あった」


「はい」


 瑠璃は卵焼きを半分に切った。


「中学のとき、委員によって注意する相手が違うことがありました。仲のいい人は見逃すのに、おとなしい人には『規則だから』と強く言う。私は、それが嫌だったんです」


「だから、同じ条件なら同じように」


「そうです。ただ、同じように扱えば、それだけで公平だと思っていました」


 瑠璃は雨の向こうの中庭を見た。


「金曜日は、十八人という数字を守ることしか考えていませんでした。入口で何か言いたそうにしていた人も、説明を聞くうちに諦めた人も、見ていませんでした」


「俺は、目の前の二人しか見てなかった。あとに並ぶ人を見てなかった」


「次は、両方を見ます」


「俺も」


 瑠璃が弁当箱から、切った卵焼きの片方を箸で取り、蓋へ置いた。


「食べますか」


「いいの?」


「感想を聞きたいだけです」


「調査?」


「違います」


 晴人は卵焼きを受け取った。甘い。予備試行の日に、瑠璃が言ったとおりの味だった。


「うまい」


「それだけですか」


「甘いほうが好きです」


「そうですか」


 瑠璃は弁当箱へ視線を落とした。満足したように見えた。


「また入れてきてください」


「それは、お願いですか」


「個人的な」


「検討します」


 すぐに承諾されなかったのに、晴人は断られたとは思わなかった。


 雨で閉まった中庭の前で、二人は予鈴が鳴るまで話した。


     *


 再試行最終日の月曜日は、二十八席が満席になり、途中の入れ替わりを含めて二十九人が利用した。


 昼休みの途中、園芸委員が水やりのために来た。利用者とは別の通行区域を使い、花壇へ入る。掲示には、園芸・整備目的の立ち入りは滞在人数に含めず、指定された動線を利用する、とある。


 金曜の閉鎖表示と同じで、例外を認める条件も見える形にしたため、利用者は戸惑わなかった。


 十二時三十六分、図書室から一度だけ、声を抑えてほしいという申し出があった。


 瑠璃は中庭の中央へ行き、全体へ短く伝えた。


「北側の窓に音が届いています。話すのをやめる必要はありませんが、少しだけ声を落としてください」


 誰か一人を注意するのではなく、全員へ同じように頼む。利用者は顔を見合わせ、話し声が一段小さくなった。


 晴人は図書室側で音を確認し、瑠璃へ親指を立てた。


 瑠璃も小さく頷く。


 十二時四十七分、一度目のベルが鳴る。


 利用者がそれぞれ机の下とベンチの周りを確認する。二度目のベルが鳴る前に最後の一人が扉を出ると、日直役の晴人が庭内を見回った。


 晴人と瑠璃だけが、中庭に残った。


「終了です」


 瑠璃が記録表へ時刻を書く。


「再試行、これで終了?」


「はい」


「じゃあ、今度こそ喜んでいい?」


 瑠璃は記録表を閉じた。


「まだ最終審査があります」


「少しくらい」


 晴人が右手を上げる。


 瑠璃も上げたが、今度は掌を合わせず、晴人の手首を軽く押し下げた。


「今日は、先に片づけます」


「そこまでしなくても」


「喜ぶと長くなりそうなので」


「一回しかやってないでしょう」


 笑いながら、二人で掲示を外した。


 鍵を閉める前、瑠璃が中庭を振り返った。


「神谷くん」


「はい」


「開放できたら、ここで昼食を取りますか」


「取る。佐伯さんは?」


「私も」


「じゃあ、席が空いてたら一緒に」


 瑠璃は少しだけ間を置いた。


「はい。空いていたら」


     *


 最終審査に出す報告書は、二人で一つにまとめた。


 最初の五日間と、再試行三日間。利用者は延べ百三十人。事故はゼロ。午後の授業への遅刻は、最初の試験最終日に二人。騒音に関する申し出は二件で、うち一件はその場で声量を下げたあと、再度の申し出はなかった。残されたごみは紙コップ一個。再試行では、退出時の確認によって紙ナプキン一枚を回収した。


 満足度は、回答百一件で五段階平均四・五。


 数字のよい部分だけではなく、初回の失敗と、まだ起こり得る問題も書いた。


 晴人が利用場面と改善の経緯をまとめ、瑠璃が条文と運用要領へ直す。どちらかが書いた部分を、もう一人が読み、直した。


「『利用者の自主性に任せる』では、誰が何をするかわかりません」


 瑠璃が晴人の文章へ線を引く。


「じゃあ、『利用者は退出時に周囲を確認する』」


「それなら、行動がわかります」


「こっちは、『必要があると認められる場合、利用を停止できる』。必要を認めるのは誰?」


「施設管理を担当する教職員です。ただし、緊急時は生徒会役員も入口を閉鎖できます」


「閉めたあと、先生へ報告」


「はい。理由と再開予定の掲示も必要です」


 互いの文章から、曖昧すぎるところと、細かすぎるところを削っていく。


 作業を始めた頃は、自分の文を直されるたびに説明が必要だった。今は、相手がどこで止まるか、読む前から少しわかる。


「神谷くん、ここ」


 瑠璃の指が、最後の一文で止まった。


 『本要領は、実施一か月後に見直し、その後も各学期末に継続の必要性及び運用上の問題を確認する』


「何か足りない?」


「いいえ。残しておきたいと思って」


「『当面の間』にしないため?」


「はい」


 瑠璃はその一文に線を引かず、ページを閉じた。


「完成です」


 晴人は時計を見た。下校時刻まで、あと十五分ある。


「早く終わりましたね」


「終わるの、嫌そうですね」


 自分でも、そう聞こえた。


「報告書は終わってほしいです。三回読んだし」


「では、何が嫌なんですか」


 瑠璃は真っすぐ聞いた。


 晴人は答えを探した。理由なら、いくつもあった。


 中庭が開くまで、まだ審査がある。再試行の結果についても、明日の発表練習についても、話すことは残っている。


 それを全部終えたあとにも、瑠璃と会う理由が欲しい。


「今は、まだ言いません」


「また今度ですか」


「今度は、ちゃんと言います」


 瑠璃は少し考え、完成した報告書を晴人の前へ戻した。


「では、調査班の仕事が終わるまで待ちます」


「期限を決めるんだ」


「待つだけでは、四年になるかもしれませんから」


「それは困る」


「私も困ります」


 瑠璃はそれ以上説明しなかった。


 晴人も、今は聞かなかった。


     *


 最終審査は、翌週の水曜日に行われた。


 検討会の委員に加え、生徒評議会の議長、生活指導部の教員、教頭が出席した。晴人と瑠璃は生徒会室の前に並び、同じ報告書を一部ずつ持った。


 最初の説明は、瑠璃が担当した。


 禁止された経緯。現在も残っているごみ、騒音、遅刻の懸念。試験条件と、初回の失敗。条件を変えた再試行の結果。


 失敗を話すときも、声の調子は変わらなかった。けれど、それを規則に従わなかった利用者のせいにも、晴人一人の独断のせいにもしなかった。


「最初の案は、利用者へ説明すれば正しく運用できると考えすぎていました。再試行では、説明を増やすのではなく、席数や入口表示、動線を見直して、利用者が迷いにくい形へ変えました」


 次に晴人が、現場での変化を説明した。


「閉鎖をやめれば自由になる、とは考えていません。最初の試験で、誰がどう決めるかがはっきりしていないと、声の大きい人や、その場で頼める人が有利になるとわかりました」


 少し前までなら、瑠璃が言いそうな内容だった。


「ただ、禁止を続ければ問題がなくなるわけでもありません。昼休みに廊下や階段で食べる生徒は、調査した三日間で一日平均三十一人いました。場所を閉じることで、混雑をほかへ移している部分もあります」


 質問は、三十分続いた。


「満席なら、全員が公平に使えるとは言えないのではないか」


 生徒評議会の議長が尋ねた。


 瑠璃が答える。


「全員に同時利用を保証することはできません。私たちが目標としたのは、利用条件を全員が同じように知ることと、荷物や集団による座席の占有を減らすことです。利用者を調査班が選ぶ方式は、公平ではないと判断して廃止しました」


 管理する生徒が卒業したあとも続けられるか、騒音が再発したらどうするかも問われた。


 晴人と瑠璃は、札の更新、ベル、見回りと施錠を生徒会の日直業務に組み込み、騒音が続けば理由と再開予定を示して一時閉鎖すると答えた。調査班の二人が固定で立たなくても続く形は、再試行で確認している。


 教頭が、報告書の最後を見た。


「二人は、開放に賛成なんだね」


「はい」


 瑠璃が答えた。


 晴人も頷く。


「最初から開放したいという結論があった。そのために、都合のよい調査になった可能性は?」


 晴人は瑠璃を見た。


 瑠璃もこちらを見る。


「あります」


 晴人が答えると、何人かが意外そうな顔をした。


「だから、利用に反対する図書室と清掃担当の意見を先に聞きました。初回の失敗も、条件を変えた記録も残しています。俺一人なら、自分に都合のいい例外を作ったと思います」


「私は逆に、問題を起こさないことばかり考えて条件を増やし、結局、使いにくい規則にしていたと思います」


 瑠璃が言った。


「意見が違う二人で調べたからといって、偏りがなくなったとは言えません。ただ、一人で決めるより、見つけられた問題は多かったと思います」


 晴人は、表紙に並んだ二人の名前を見た。


 審査の結果、検討会は全会一致で、条件付きの改定案を生徒評議会へ送ることを決めた。


 改定案は、その週の金曜に生徒評議会で可決された。翌週の職員会議でも承認され、校長の決裁を経て、七月一日から正式に実施されることになった。


 生徒心得第十二条第二項は、次の文章へ変わった。


 『昼休みの中庭利用は、別に定める中庭利用要領に従う』


 利用要領には、時間、区域、六つの規則、閉鎖時の表示、見直し日が記された。


 四年間続いた『当面の間』は、そこで終わった。


     *


 六月三十日の放課後。晴人と瑠璃は、古い立入禁止の札を外した。


 正式開放は翌日からだが、柴崎が新しい掲示板を取りつけるため、放課後の中庭へ入る許可が出ていた。


 金具を外し、色の薄くなった札を壁から下ろす。晴人が持つと、見た目より軽かった。


「これで、調査班の仕事は全部終わりですね」


 瑠璃が言った。


「一か月後の見直しは?」


「生徒会で行います。神谷くんにも利用者として意見を聞くかもしれません」


「調査班として会うことはない?」


「はい」


 瑠璃は新しい掲示の端を、壁の線へ揃えた。


 最初の生徒会室で、何一つ先走らなかった人だ。終わった仕事を、終わっていないことにはしない。


 晴人も、調査を口実にするのはやめようと思った。


「佐伯さん」


「はい」


「調査班の仕事が終わったら言うって話、覚えてる?」


 瑠璃の手が、掲示の端で止まった。


「待っていました」


 逃げる余地のない答えだった。


 晴人は古い札を地面へ立てかけた。


「俺、佐伯さんと一緒にいるのが好きです。昼休みだけじゃなくて、放課後も、休みの日も会いたい」


 言葉にすると、自分が思っていたより単純だった。


「佐伯さんが好きです。付き合ってください」


 瑠璃はすぐには答えなかった。


 晴人を見て、それから、二人で取りつけた新しい掲示を見た。風が欅の葉を動かし、影が彼女の頬を通った。


「理由を、きちんと言いましたね」


「待たせたから」


「はい。待ちました」


 瑠璃は晴人へ向き直った。


「私も、神谷くんが好きです。意見が違っても、理由を聞いてくれるところも。間違えたとき、なかったことにしないところも」


 声はいつものように落ち着いていたが、頬は少し赤かった。


「付き合いたいです」


 晴人は、返事を待つあいだ止めていた息を吐いた。


「即決なんですね」


「前から決めていました」


「いつから?」


「それは、今度まとめて言います」


 自分が使った言葉を返され、晴人は笑った。


「じゃあ、日曜。駅前の古本屋へ行きませんか。そのあと、昼飯」


「はい。行きます」


「時間は?」


「行く場所だけ決めて、時間は決めないのが好きです」


「覚えてた?」


「神谷くんと話したことなので」


 瑠璃も笑った。


 柴崎が工具を持って戻ってくるまで、二人は新しい掲示の前で待った。手はつながなかったが、さっきより近くに立っていた。


     *


 七月一日、昼休み。


 中庭の入口には、開始を待つ生徒が十人ほど集まっていた。


 鍵を開けたのは生徒会の日直で、瑠璃ではない。『空席あり』の札が出ると、生徒たちは掲示を見て、順番に中へ入った。日直は入口脇に残り、空席の有無を見ながら札を管理している。


 晴人と瑠璃は列の最後に並んだ。


「調査班なのに、先に入らなくていいんですか」


 晴人が聞くと、瑠璃は首を横へ振った。


「今日は利用者です」


「席、二つ空いてるかな」


「空いていなければ待ちましょう」


 中へ入ると、欅の円形ベンチに隣り合った二席が残っていた。


 瑠璃は一席へ座り、鞄を足元へ置く。晴人も隣へ座った。


 彼女が弁当箱を開ける。いちばん手前には、甘い卵焼きが二切れ入っていた。


「一つ、もらっていい?」


「今日は、そのつもりで入れました」


 瑠璃は片方を弁当箱の蓋へ載せた。


 晴人も、購買で買ってきた紙パックの麦茶を一本渡す。予備試行の日、瑠璃が水筒から注いでいたのを覚えていた。


「これ、私に?」


「一緒に食べるから」


「ありがとうございます」


 中庭には、いくつもの話し声があった。大きくなりすぎれば、誰かが少し声を落とす。席が空けば、次の生徒が入ってくる。入口の掲示には、利用条件と、その理由と、一か月後の日付が書かれている。


「明日も、ここで食べる?」


 晴人が尋ねる。


「はい。晴れていて、席が空いていたら」


「空いてなかったら?」


「別の場所で、一緒に食べます」


 瑠璃はそう答え、麦茶のパックにストローを挿した。


 十二時四十七分のベルが鳴るまで、二人はもう記録を取らなかった。

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