第1話 誰もいないはずだった
「また夜逃げだってさ。今月で三人目らしい」
「あんなドブの底、まともな神経してたら三日も持たないって」
ギルド本部の廊下で資料を開きながら、私はその噂話を耳にしていた。
配属先の名は《腐れ沼迷宮》。
月間損失、八十四万二千ゴールド。利益、ゼロ。当月来訪者、ゼロ。
机の上の最終報告書、その特記意見欄には、たった一行だけこう書かれていた。
『閉鎖推奨』
「──お前に決まった」
背後からの声に振り返ると、上司が冷淡な目で私を見下ろしていた。机の上に新しい辞令の紙が置かれる。
「理由を伺っても?」
「誰かが行かなければならない。それだけだ」
周囲の職員たちが、同情と、わずかな嘲笑を含んだ視線を向けてくる。押し付けられた厄介払い。事実上の追放であることは明白だった。
だが、私は反発しなかった。現場を見ないまま他人の言葉だけで物事を判断する、というやり方が、昔から好きじゃなかったからだ。
「わかりました」
ただ一言そう答えて、私は荷物をまとめた。
――数日後、辿り着いた《腐れ沼迷宮》は、言葉通りの死に体だった。
かつて栄えた駐屯所は半ば朽ち果て、屋根は崩れ落ちている。
目の前に広がるのは、ねっとりとしたドブ色の沼地。風が吹くたびに、鼻を突く発酵したような悪臭が漂う。
鳥の声も、虫の羽音すら聞こえない。圧倒的な、静寂。
沼の周囲を見渡しても、生き物の気配どころか、人の足跡一つありはしない。
本当に、ここには『誰もいない』。
「さて……」
私は崩れかけの管理小屋に入り、机の埃を払って古い管理端末を起動した。ブゥゥンと重苦しい音が響き、埃を被った画面に青白い光が灯る。
私は画面に表示される、ダンジョンの内部ログを上から順番にスクロールしていった。
当月入山者数:0
――問題なし。
魔力流動量:正常
――問題なし。
維持費:842,000
――予想通り。
私は淡々と視線を滑らせていく。すべては資料の通り、終わっている現場の数字だ。
だが、次の行に差し掛かった瞬間、私の指が、ぴたりと止まった。
画面の最下層。そこには、システムが直接弾き出した、あり得ない『数字』が刻まれていた。
現在迷宮内滞在人数:421名
「……あ?」
思わず声が漏れた。
私は端末から離れ、窓の外の沼地をもう一度、大きく見回した。
誰もいない。
風に揺れる枯れ草と、ドブ色の泥水だけだ。
ギルドの受付も、警備の兵士も、誰一人としてここには入っていない。
人の気配など、文字通りの『ゼロ』だ。
私はもう一度、端末の画面に視線を戻した。
青白い光の中で、その数字は変わらない。
【421】
故障の類ではない。この端末は、内部の生命体が放つ固有魔力を直接カウントする仕組みだ。
世界中がここは「誰もいないゴミ箱」だと笑い、帳簿を閉じた。
耳が痛くなるほどの、静寂。
だが、この目の前の数字だけは、世界が絶対に見ていない【歪んだ現実】を突きつけている。
背筋を、冷たい汗がゆっくりと伝っていく。
私はもう一度、窓の外を見た。
泥。
枯草。
静寂。
やはり、誰もいない。
それでも端末は、冷徹に表示し続けていた。
【現在迷宮内滞在人数:421名】
「……誰がいる?」
(第1話 完)




