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第一話

王都ヴァルハルドの朝は、いつも鐘の音から始まる。


 石畳の広場に響き渡る六つの鐘声が、眠れる都市の瞼をゆっくりと押し上げる。露店の商人たちが軒を広げ、聖堂の修道士たちが祈りの言葉を口にし、騎士学校の生徒たちが訓練場へと駆けていく。十年前に勇者が魔王を討ち滅ぼして以来、世界はこうした何気ない日常を取り戻した。魔族の脅威も、竜の咆哮も、今や語り草でしかない。


 ズバルト・ノウガは、その平和な朝を酒場の二階から眺めながら、ぬるくなったエールを一口すすった。


 通称〈勇者の盾〉。


 その名は王都の誰もが知っている。十年前、魔王を打ち倒した英雄一行の盾役として、幾千もの魔族の攻撃を一身に受け、仲間を守り続けた男だ。〈玄武〉のソウルを宿した彼には、いかなる刃も爪も傷をつけられなかったと語り継がれている。


 その英雄が今、ひとりで安酒を飲んでいた。


 五十がらみの顔には深い皺が刻まれ、かつて鋭かったはずの目は、長年の平和に少しばかり濁っている。鎧は脱いでいた。重い金属の塊を身に着け続けた十年間を経て、今の彼の日常着は分厚い麻の上衣と革のズボンだ。それでも体格だけは衰えていなかった。岩のような肩幅、太い首、分厚い両手。


 「来たか」


 タンクは振り返らずに言った。


 背後の扉が、静かに開いていた。気配はなかった。音もなかった。しかし十年間、死線をくぐり続けた体が、誰かがそこにいることを告げていた。


 「久しぶりだな」


 返事はなかった。


 タンクは椅子を回し、入口を向いた。逆光で、相手の顔はよく見えない。しかし体格からして、成人したばかりかそこらの若者だ。


 「手紙を寄越したのはお前か? 仲間の暗号で書かれていたが……お前、一行の誰かの縁者か何かか」


 まだ、返事はなかった。


 若者がゆっくりと部屋の中へ踏み込んできた。逆光が消え、顔が見えた。


 黒い目だった。


 十七か、十八か。日焼けした褐色の肌に、切れ長の黒い目。細身だが、歩き方に無駄がない。感情のない顔で、ただタンクを見ていた。


 「お前は——」


 タンクは眉をひそめた。どこかで見た顔だ。いや、見たのではない。何かを思い出しそうな、引っかかりがある。


 「俺の顔に、見覚えはないか」


 若者が、初めて口を開いた。


 声は低く、静かだった。


 「……ないな」


 「そうか」


 若者は言った。その目に、微かな何かが過ぎった。失望か、あるいは——



-----


 王都の外れにある騎士学校の正門前に、一人の少年が立っていた。


 年は十七。


 黒髪に黒目。肌は日焼けで少し褐色がかっている。体格は同年代と比べれば細身だが、それが逆に「力のなさ」を印象付ける。そして何より目立つのは、その瞳の静けさだ。同期入学の少年たちが緊張に顔を上気させ、親元を離れる寂しさに涙ぐむ者さえいる中、彼だけが何も感じていないかのような顔をしていた。


 正確に言えば、感じていないのではない。


 完璧に、隠しているのだ。


 少年の名は、アギト。苗字はない。出自の記録もない。孤児として辺境の村に拾われ、育ての父と呼べる人間も死に、今は独り王都に流れてきた——そういう書類を、アギトは自分で作った。


 嘘に嘘を重ねた、偽りの履歴書だ。


 「次。入学志願者、アギト」


 受付の文官が呼び上げる。アギトは一歩前へ出た。


 「ソウル鑑定を受けてください」


 騎士学校への入学には、二つの条件がある。一つは身体能力の試験。もう一つが、ソウルの有無の確認だ。


 ソウルとは——魔獣と魂で契約を結び、その力を己の内に宿すことで発現する、特殊な戦闘能力だ。騎士はソウルを持って一人前とされる。王国騎士団の規定にも明記されているほど、ソウルはこの国において戦力の基準点だ。


 ソウルなしで近衛騎士になった者は、過去百年で三人しかいない。


 「鑑定石に触れてください」


 文官が差し出したのは、半透明の白い水晶球だ。ソウルを持つ者がこれに触れれば、宿しているソウルの属性に応じた色が浮かび上がる。火のソウルなら赤。水なら青。風なら緑。


 アギトは鑑定石に手を乗せた。


 数秒、沈黙があった。


 鑑定石は——何も光らなかった。


 「……ソウルなし、と記録します」


 後ろに並んでいた何人かが小声でひそひそ話す声が漏れた。


 「ソウルなしで騎士学校?」「どうせ最初の淘汰試験で落ちるだろ」


 アギトはそれらを全く聞いていないかのように、書類を受け取って窓口を離れた。


 鑑定石が光らなかったのは、本当にソウルがないからではない。アギトが宿しているのは、竜のソウルだ。この世に存在が確認されていない、唯一無二の〈竜牙〉のソウル。鑑定石が反応できないほど、次元の違う力を孕んだソウル。


 育ての父から受け継いだ、アギトだけの力。


-----


 入学式は主広場の円形劇場で行われた。


 百二十名が石段に整列する中、アギトは後方の端に立った。目立ちたくないというよりも、全体を見渡せる位置が単純に好きだった。前に立つ学校長のバルデン・クレアス老人が声を張り上げ、騎士道の誉れについて語っている。よく通る声だった。


 「諸君は今日から、王国の盾たる騎士を目指す者となる」


 周囲の生徒たちが、一様に背筋を伸ばした。


 「なお、本年度の入学者の中には、ソウルを持たない者が一名いる」


 静寂が落ちた。視線が、後方の端へと集まった。アギトは前を向いたまま、特に何も感じなかった。正確には、感じないことに慣れていた。物心ついた頃から「ソウルなし」と言われ続けてきた。今さら百人ほどに見られたところで、何も変わらない。


 「ソウルの有無は評価に直接関わる。しかし本校では、実力さえあればいかなる者にも門戸を開く。精励を期待する」


 式が終わり、生徒たちが散り始める中、アギトが石段を下りようとしたとき、背後から声がかかった。


 「なあ、アギトだよな」


 振り返ると、背の高い少年が立っていた。茶色の癖毛に、緑の目。日焼けした顔立ちは屈託がなく、ざっくりとした笑顔を浮かべている。よく見ると服の袖口に小さな刺繍がある——剣と麦の穂が交差した紋章。辺境伯家の紋章だ。


 「……ライ」


 「やっぱり! 覚えてたか!」


 ライ・バルトス。辺境伯家の四男。五年前、国境近くの小さな街で一年ほど一緒に過ごした。アギトが旅の途中で立ち寄ったあの街で、最初は些細なことで口喧嘩をして、気づけば朝から晩まで連れ回されていた。


 「まさかここで会うとは思わなかったぞ。お前、騎士を目指してたのか」


 「ああ」


 「俺は近衛騎士になりたいんだ。家の跡は継げないし、自分の力で認められたくて。お前は?」


 「近衛を目指してる」


 「じゃあ同じだな! 一緒に頑張ろうぜ。ソウルなしでも、お前ならやれると思う。昔から妙に勘が鋭かったし」


 「よろしく頼む」


 アギトはそれだけ言って、石段を下り始めた。ライが「一緒に寮に戻ろうぜ!」と追いかけてくる。


 アギトは少しだけ歩みを緩めた。


 (ライ・バルトス。辺境伯家の第四男)


 心の中で、その名前を冷静に転がす。父親は王都にそれなりのコネクションを持つ。近衛への推薦状を持っている可能性がある。


 「使える」と、冷たい部分が評価した。


 だが——もう一つの部分が、それを嫌悪した。


 (黙れ)


 アギトは目を伏せた。育ての父の声が、記憶の底から響いた。


 ——人をよく見なさい。


-----


 翌朝から、本格的な訓練が始まった。


 教官は元近衛騎士だという中年の男で、名をガルド・セインという。左目に深い古傷があり、物言いは端的で容赦がない。


 「ソウルなし」


 訓練場に並んだ生徒たちを見回して、ガルド教官は開口一番そう言った。視線はアギトに向いていた。


 「構えてみろ」


 アギトは木剣を持ち、構えた。辺境を転々と旅しながら独学で身に付けた、癖の多い構えだ。重心の置き方だけは正確で、剣先が微動だにしない。


 ガルド教官はアギトの周囲を一周した。


 「剣術の心得はあるか」


 「独学で、少しばかり」


 「ふん」


 それだけ言って、次の生徒へ移った。特別扱いも侮辱もない。


 訓練が始まった。素振り、足さばき、間合いの取り方。アギトは「できるが、できすぎない」ラインを正確に見極めて動いた。完璧にやれば目立つ。しかし明らかに下手では近衛の推薦枠に近づけない。


 七割の力で動く。それが今のアギトの基準だ。


 しかし——七割では、ソウルなしという壁をそう簡単には越えられなかった。


 「スピードが足りない」


 ガルド教官が通り際に言った。相手役の生徒の剣を受けながら、アギトは内心で舌打ちした。速度を上げれば〈竜牙〉の片鱗が出る。抑えれば、普通の十七歳の体の限界が露わになる。


 その綱渡りを、毎日続けた。


-----


 三日目。


 剣術の組み手訓練で、アギトは初めて床に叩きつけられた。


 相手は火のソウルを持つ大柄な少年——クレスという名で、入学前からすでに実戦経験があるという。ソウルを使わずとも体格と膂力で押してくるタイプで、アギトの細身の体ではまともに受ければ吹き飛ぶ。


 「おい、大丈夫か」


 ライが駆け寄ってきた。


 「問題ない」


 アギトは立ち上がった。膝が痛い。しかし表情は変えない。


 「無理するなよ。クレスはソウル持ちだぞ。力の差があるんだから——」


 「もう一本」


 アギトはクレスを見た。クレスは少しだけ意外そうな顔をして、それから肩をすくめた。


 「好きにしろ」


 今度は受けなかった。かわした。クレスの一撃を最小限の動きで流し、体を半歩ずらして——しかしそこで踏み込みが甘かった。カウンターが遅れ、またクレスの体当たりで弾き飛ばされた。


 「……また立つのか」


 ライが苦い顔で言った。


 「ああ」


 三本目。今度はかわした後、一歩踏み込む。木剣がクレスの脇腹を掠めた。完全な一本ではないが、ガルド教官が「そこまで」と声をかけた。


 「ソウルなし。今の動き、もう一度やってみろ」


 アギトは繰り返した。教官がアギトの足さばきを指で示しながら、何かを確認するように頷いた。


 「速度の問題ではないな。踏み込みの角度だ。お前の体格ならここを変えれば——」


 教官が直接足の位置を直した。アギトはその感触を体に刻んだ。


 「やり直せ」


 クレスと向かい合う。同じ動き、角度だけ変える。クレスの一撃をかわし、踏み込み——今度は木剣がクレスの肩に、はっきりと当たった。


 「一本」


 ガルド教官が告げた。クレスが驚いた顔をした。ライが「おお」と声を上げた。


 アギトは何も言わなかった。


 ただ、正しい角度を体に覚えさせるために、もう一度構えた。


-----


 五日目。


 ソウル運用の講義があった。アギトにとって最も気を遣う授業だ。


 「ソウルなしの者は見学でいい」


 講師がそう言いかけたのを、アギトは遮った。


 「参加させてください」


 講師が眉を上げた。


 「ソウルがなければ——」


 「ソウルなしでも、他者のソウル運用を観察することで戦術の理解が深まると、騎士団史の記録にあります。過去にソウルなしで近衛になった者の手記にも同様の記述がありました」


 昨夜、図書室で読んでいた内容だ。


 講師はしばらくアギトを見てから「好きにしろ」と言った。


 授業中、アギトはソウルを使えない立場で、他の生徒たちのソウル発動の瞬間を観察し続けた。体の重心がどう変わるか。発動の直前に何が起きるか。ソウルに頼った動きの、死角はどこか。


 これは演技ではなかった。


 本当に必要な情報だった。


 〈竜牙〉を使わずに戦うとき——近衛試験の本番まで牙を隠し続けるとき——アギトには、純粋な観察眼と体術しかない。その精度を上げることは、仮面を守ることに直結する。


 授業後、ライが走り寄ってきた。


 「お前、図書室で手記まで読んでたのか。いつ寝てるんだ」


 「十分に」


 「嘘つくな、昨日も消灯後に燭台の光が漏れてたぞ」


 アギトは答えなかった。ライは少しの間黙ってから「すごいな」と言った。


 「俺ならとっくに諦めてる。ソウルなしでここまでやるって、普通じゃないよ」


 「普通じゃなければ、どうだというんだ」


 「いや、そうじゃなくて——」ライは頭を掻いた。「尊敬してるって言いたいんだよ。うまく言えないけど」


 アギトはライを見た。


 屈託のない緑の目が、こちらを向いている。計算がない。下心がない。ただそのまま、思ったことを言っている。


 (困った男だ)


 アギトは視線を前に戻した。


 「行くぞ。次の訓練が始まる」


-----


 七日目の夜。


 宿舎の消灯が告げられ、部屋の面々が眠りにつく。ライは早い。横になって三分と経たないうちに寝息が聞こえた。


 アギトは暗闇の中で目を開けたまま、天井を見ていた。


 今夜だ。


 一週間、待った。入学初日を起点に、毎夜少しずつ動いていた。情報屋から得た居所の確認。学院の外出記録に残らない経路の確保。タンクが宿を変えていないかの確認。アリバイとなる消灯後の「在室」をルームメイトに印象付けること——レイが「消灯後も燭台の光が漏れていた」と言ったのは、アギトが意図的に作っていた記録だ。


 深夜零時。


 全員の寝息が揃ったのを確認して、アギトは音もなく起き上がった。


 窓を開ける。三階からの高さを確認し、手をかけて体を外へ出す。石壁の凹凸を指先で掴み、音を立てずに降りる。地面に着いた瞬間、膝でショックを吸収し、そのまま夜の学院の外壁沿いに走り出した。


 王都の夜は、暗い。


 商業区の灯りが落ち、巡回の警備隊だけが松明を持って歩いている。アギトはその動きを事前に把握していた。巡回の周期、交代の時間、死角になる路地。一週間で調べ上げた地図が、頭の中にある。


 警備隊の死角を縫うように走り、第七区の裏通りへ入った。


 目的の建物が見えてくる。


 二階に明かりがついていた。


-----


 ズバルト・ノウガは、その夜も酒を飲んでいた。


 タンクの死への恐怖が王都を揺さぶっている——などということは知らない。それは未来の話だ。今の彼にあるのは、手元のエールと、今日届いた一枚の手紙だけだ。


 仲間内だけで使っていた暗号文字で書かれた、短い文。


 「会いたい奴がいる」


 差出人の名はなかった。しかし筆跡に見覚えがあった。遠征中に何度も目にした、あの癖のある文字の崩し方。英雄一行の誰かが——懐かしくなって、連絡してきたのだろうか。


 扉が、静かに開いた。


 気配はなかった。音もなかった。しかし十年間、死線をくぐり続けた体が告げた——誰かがいる。


 「来たか」


 タンクは振り返らずに言った。


 返事はなかった。


 「久しぶりだな。手紙を寄越したのはお前か?」


 椅子を回し、入口を向いた。逆光の中に、細身の若者が立っている。成人したばかりかそこらの、線の細い体。


 「……誰だ、お前」


 若者がゆっくりと部屋へ踏み込んできた。逆光が消え、顔が見えた。


 黒い目だった。


 感情のない、深い黒。その目の奥に何があるのか——タンクには、読めなかった。


 「俺の顔に、見覚えはないか」


 静かな声だった。


 「……ないな」


 「そうか」


 若者の目に、微かな何かが過ぎった。失望ではない。もっと深い、乾いた感情だ。


 「十年前。竜を討ちに行った。辺境の山のふもとで」


 タンクの眉が動いた。


 「お前の仲間が、子供を人質に取った。そうして竜を仕留めた」


 「……ああ」


 覚えている。竜の住処に子供がいた。人間の子供だ。どこかから流れてきた捨て子を、竜が拾って育てていたらしかった。仲間の一人がそれを利用した。竜は身動きが取れなくなった。


 そうして竜を仕留めた。


 英雄の仕事だった。正しいことをした。竜を一頭減らした。それだけだ。


 「そのとき、お前はなんと言った」


 若者が一歩近づいた。


 「なんと言ったか覚えているか」


 タンクは思い出そうとした。あの遠征は——十年以上前のことだ。細かいことまでは——


 「何かしたかは関係ない。こいつは竜だ。こいつを打ち取れば俺は英雄だ」


 若者の声が、静かに言った。


 まるで、その場にいたかのように。


 タンクの背筋に、冷たいものが走った。


 「お前、まさか——あのときの——」


 若者が右腕を、前に出した。


-----


 アギトは、静かに息を吐いた。


 体の芯に意識を落とす。人の部分の、さらに奥——別の何かが眠っている場所。ゆっくりと、それを呼び起こす。


 肘から先が、重くなる。


 皮膚の下から鱗が押し上がる。指が節くれだって伸びる。爪が黒く固化し、長く鋭く——


 〈竜牙〉のソウル。


 タンクが立ち上がろうとした。体の中心にある〈鉄壁〉を呼び起こそうとした。その目に、今さらながらの恐怖と、戸惑いがあった。


 「待て、俺は——」


 「覚えていないのか」


 アギトは言った。声は平坦だ。感情を込めない。込めてはいけない。


 「父が殺されるとき、俺はそこにいた。お前たちが笑うのを見ていた」


 「お前の父が、竜だったとしても——それは——」


 「関係ない、と言うんだろう」


 タンクが何か言おうとした。弁明か、あるいは謝罪か、あるいはまた嘲笑か——どれでも同じだ。


 アギトには、聞く気がなかった。


 十年間、ずっと聞いてきた。英雄たちが語り継がれる物語を。父の死が、正しい討伐として称えられる声を。その度に、アギトは聞いていた。聞きながら、牙を砥いでいた。


 今は——動く番だ。


 「父さん」


 アギトは声に出さずに、唇だけを動かした。


 「借りるよ」


 竜の腕が、動いた。


-----


 明け方。


 アギトは学院の外壁を登り、音もなく窓から部屋へ戻った。着替えを済ませ、寝台に横になる。ライの寝息は変わらない。部屋の誰も、目を覚ましていない。


 外はまだ暗かった。朝の鐘が鳴るまで、まだ一刻ほどある。


 アギトは天井を見た。


 腹の中に、何かが燻っている。怒りではない。悲しみでもない。もっと複雑で、もっと静かな、何か。


 (父さん)


 育ての父の顔が浮かぶ。竜の姿ではなく、人の姿を好んで使っていた老人の顔。皺だらけの、しかし優しい目をした顔。


 ——属性は人を分ける簡単な手段だが、時にはその本質を見失うことがある。


 「わかってる」


 暗闇に向かって、声に出さずに口を動かした。


 わかっている。父の言いたかったことは。


 だからこそ——だからこそアギトは、あいつらを許せない。


 タンクは〈竜〉という理由だけで父を殺した。本質など見ようとしなかった。英雄という称号に、自分の行為を正当化させて。


 それは、父の教えへの冒涜だ。


 アギトは目を閉じた。


-----


 朝の鐘とともに、アギトは起き上がった。


 「よう。今日も早いな」


 ライがもぞもぞと寝台から這い出てくる。寝癖のついた茶色の癖毛。その顔に、昨夜のことは何も映っていない。何も知らない顔だ。


 「ああ」


 アギトは答えながら、上衣のボタンを留めた。引き出しを開け、一番奥に手を入れる。指先に触れるのは、折り畳まれた一枚の紙。


 書かれているのは五つの名前。


 グラウス・ヴァルセリア。


 ズバルト・ノウガ(タンク)。


 カレン(シーフ)。


 テミス(魔法使い)。


 ノア(僧侶)


 アギトは折り畳んだ紙を広げ、細い線を一本引いた。


 二番目の名前の上に。


 紙を折り直し、引き出しの奥に戻した。


 「行こうぜ、朝飯」


 ライが立ち上がりながら言う。


 「ああ」


 アギトは何事もないように立ち上がり、部屋を出た。廊下は朝の空気が満ちていて、冷えていた。他の部屋の扉が開き、生徒たちが流れ出してくる。どこかで誰かが笑っている。


 日常だ。


 ヴァルハルドの、ただの朝だ。


-----


 朝食の後、アギトは図書室へ向かった。


 午後の講義が始まるまでの時間に、騎士団史の続きを読んでおきたかった。近衛の配置体系、王族の行動記録——公開資料から拾えるものは全て拾う。


 図書室の扉を開けると、先客がいた。


 少女だった。


 黒い外套を頭から被り、顔の上半分を影に沈めている。銀色の髪だけが外套の端からこぼれていた。窓際の席で分厚い本を開いているが、ページをめくる手が止まっている。何かを考えているようだった。


 アギトが入ってきたことに気づいたのか、少女がこちらを見た。


 目が合った。


 「……入学式にいた人ね」


 落ち着いた、低い声だった。


 「そうだ」


 「ソウルなしの」


 「そうだ」


 少女は少しの間アギトを見てから、手元の本に視線を戻した。


 アギトは彼女を一瞥して、棚へ向かった。外套で身分を隠しているのは一目でわかった。この学校には身元を明かしたくない理由がある生徒が少なからずいる。アギト自身もそうだ。


 課題図書を棚から引き抜き、その隣にあった騎士団史の第三巻をついでに手に取った。窓から離れた席に腰を下ろし、ページを開く。


 しばらくして、少女の声がした。


 「騎士団史? 課題ではないはずだけど」


 視線を上げると、少女がこちらを見ていた。距離は四、五席分ほどある。本を読みながら、横目でアギトの手元を確認していたらしい。


 「興味がある」


 「何に?」


 「配置体系と、歴代の近衛騎士の選抜基準」


 少女はわずかに眉を上げた。


 「近衛騎士になりたいの?」


 「ああ」


 「ソウルなしで?」


 「そうだ」


 少女は少し考えるような顔をした。責めているわけではなさそうだった。どちらかというと、純粋に考え込んでいる様子だ。


 「……難しい道ね」


 「そうだな」


 「なのに目指すの」


 「ああ、目指す」


 少女はまた少し黙った。それからこちらへ向き直り「フィアと呼んで」と言った。


 「アギトだ」


 「知ってる」


 それきり、二人とも読書に戻った。


 静かな午後だった。日が傾いて図書室に橙色の光が差し込んでくると、フィアは本を閉じて席を立った。


 「また来るかもしれない」


 独り言のような声だった。アギトは本から目を上げなかった。


 「ああ」


 少女が出ていく気配がした。


 アギトは手元の騎士団史のページを、静かにめくった。


 近衛騎士の任命式と、王族警護の基本規定。かつての勇者——現王グラウス・ヴァルセリアが即位した後の記録が、細かく丁寧に書かれている。


 次の標的は——〈シーフ〉、カレン。


 王都西区、赤い看板の染物屋。まだ居所は変わっていないはずだ。


 焦る必要はない。


 復讐とは、計画だ。


 感情では動かない。


 ——人をよく見なさい。


 育ての父の声が、また脳裏を掠めた。


 アギトは、それに答えなかった。


 答えられなかった。


 図書室の橙が、少しずつ暮れ色に変わっていく。どこかで夕の鐘が鳴った。


 英雄〈タンク〉を殺した者の正体は、まだ誰も知らない。


 少年の名はアギト。


 ソウルなし、と記録されている。


 しかしその胸の奥に——世界でただひとつの、竜の魂が、静かに息を潜めていた。

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