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ep.98

なんてことのない平穏な一日の昼下がり。

部屋の暖かさが食後の眠気をこれでもかと増長させていたせいか、あるいは十年以上見てきた景色の一部が失われているからか、私は珍しく派手にやらかした。


パリーン!!!


「おい、大丈夫か!?」


部屋に甲高い音が響き渡って、心配したラズさんがあわててこちらに駆け寄ってくるのが視界の端に映った。ドアにぶつけた左肩がじくじくと痛むのさえ、どこか遠い場所で起きているかのような気がした。

視界には、昔、ラズさんと出かけた北の町で譲ってもらったマグカップが、一部面影を残して砕け散ってしまった姿が映っている。

師匠のものとお揃いで、まるで特注品かの様に私たちにぴったりの逸品だった。辛い三年の冬はこのマグカップで暖を取った。

思い出の品だった。


「......」


ショックで言葉が出ないのは初めての経験だった。




(あー......)


弟子が昼にカップを割ってしまってからというもの、なかなか見るに堪えない程意気消沈してしまっていて、あと少しで日が暮れるというのに、俺はどうしたものかと頭を捻っていた。

弟子があのカップを大切にしていたことは知っていた。何かを飲むときはたいていあれを使っていたし、何より、いざ俺のものと並んで置かれていると、年季の入りかたが段違いなのだ。恐らくは俺がいない期間も使い続けていたのだろうが、いろいろな背景を考えると、ただ使い心地が良かっただけとはとても言えないので弟子の気持ちも良く分かる。

あの弟子が砕け散った破片を素手で集めようとしたところで、いよいよ心配になってソファに座っておくように言い、残骸を片づけている最中、『多分そういう話じゃないんだろうな』とは思いつつ、新しいカップを買いに行こうと言ってみたが、弟子は心ここにあらずといった様子で「はい」と生返事を返しただけだった。

一通りの片づけを終えてソファに戻ると、本人が意識しているかはともかく、三年前と同じくらいにはくっついてきたので、近くのテーブルにあった本を読むふりをしてどうしたものかと考え続けて今に至るというわけだ。

このまま立ち直るまで傍にいてやりたいのは山々なのだが、都合の悪いことに、今日に限って外に出なければいけない用事がある。正直、もう家を出る時間は過ぎ去っているのだが、放っておけなくて離れられずにいるのだ。

寝過ごした、とでもいって今日はこのまま家に居ようかと、そこまで考えたところで、弟子が急に立ち上がり、ぴしゃりと両の頬を叩いた。


「お、おい...腫れるぞ」


突然の出来事についていけずにいると、弟子はそのままくるりと振り返り、俺の方を見ながら言う。


「すみません。もう大丈夫です。...また今度、買いに行きましょうね」

「おう...明日にでも...って明日は無理か...一通り落ち着いたら探しに行こう」

「はい」


流石に、長い時間を供にしてきたのだ、無理をしているのなんて顔を見ずともわかる。

やはりここに一人置いていくのは憚られるが、だからといって弟子を連れて行くにしても、準備を待っていては確実に遅刻する。

暫し考えた後、俺はキッチンに行った弟子に声をかける。


「弟子ー」

「はーい?」

「今日、予定あるからちょっと出てくるわ。多分遅くなるから晩飯は大丈夫」

「分かりました。お風呂、お湯だけ張っておくので、帰ってきたら入ってから寝てくださいね」

「ん。ありがと」


弟子が何を嫌がるか、何を気にしてしまうか考えた結果、ここで俺が変に予定を曲げたり不義を働くのが一番よろしくないという結論に至った。器用な弟子の事だから、きっと一晩もあれば自分で機嫌を取るだろうし、ここは一種の信頼も込めて、予定通り動くことにした。


(あ、てか...)


むしろ、今からあいつらに会えるのってチャンスなんじゃ?





「はあああぁぁぁぁぁーーーーーー」


家を出ていくラズさんの方に、無意識に伸ばしていたらしい手を引き戻して、ぐるりと渦巻く重苦しい負の感情を発散するようにソファに飛び込むと、私は肺を空っぽにする勢いでため息をついた。

失敗した。もう、本当に失敗した。

何を失敗したかって、マグカップを割ってしまったことそれ自体じゃなく、ラズさんをあんな長時間拘束してしまったことだ。確かにあれはとてもとても大切にしていたものだし、しばらくへこむのはわかる。


「けど流石に引きずり過ぎでしょ私ぃ......!」


しかも、そさくさと出て行ったあの感じ。恐らくは家を出る時間ギリギリだったか、或いは幾らか過ぎてしまっているのではなかろうか。こんなことに付き合わせた挙句、予定に遅刻までされてしまっては申し訳ないではとてもじゃないがすまされない。


「............よし...」


ダメだダメだ。ネガティブになっていても仕方がない。もう割ってしまったものは仕方がないし、ラズさんの方もまぁ...間に合ってくれたと信じるほかない。自己嫌悪していたってマグカップは戻らないし、ラズさんを付き合わせてしまった時間も戻らない。

私は確実な衰えをみせる腹筋を使って一息にソファから起き上がり、意気そのままに出かける準備をした。家の中にいると、気づいた時にはまたネガティブになっていそうだし、久しぶりに散歩でもして、気分転換しようという魂胆だ。この際、帰りにケーキでも買えば、不運な一日が、一転ご機嫌な休日になってくれるだろう。

ほとんど寝起きと変わらないような状況から、軽くシャワーを浴び、長い長い髪を整え、メイクを施したところで窓から外を見やると、橙に燃えていた空はすっかりと濃紺に塗りつぶされていた。昔ならばローブを突っかけてすぐにでも外に出られたものだが、些か歳をとり、女の子から女性としての振る舞いを求められるようになってしまったがために、ふらっと散歩に出ようとするだけでもかなりの時間と労力がかかるようになってしまった。多分、私の出不精は、師匠に影響されて発芽し、女性としての足取りの重さで枝を伸ばしたのだろう。なにをしようにもひと手間かかるというのは、私の様に見切り発車で動く人間にとっては天敵なのだ。


「うっ...さむ......」


厚手のコートを羽織り、外に出ると、容赦のない北風が吹きつけてきて、私は思わず身震いした。ちょいと寒すぎるくらいはあるが、手指が冷えていく感覚も、吐く息すべてが色づく様も、解けてしまうには惜しいと思えるほどに好きな感覚だ。

行く当てなんてほとんどないも同然だったので、少し考えてからまずは大通りに出てみることにした。時刻はすっかりと夕飯時だが、明日に控えたお祭りのお陰で通りにはまだまだ活気がある。今回のお祭りは各地に宣伝をうっていたり、その類を良く行う西の街から助言をもらったりと、かなり手の込んだものになっていて、規模自体は以北地域全体でみても一番と言って差し支えないらしい。まぁ、内容が内容なのでそのくらい派手にやってもらえると私としてもうれしかったりするのだが。

しばらくそんな思考に耽っていると、気づけばかなりの場所まで歩いてきてしまったようで、辺りを歩く人も目減りしてきた。昔と違って貧弱になりつつある足がここから帰るのでさえ億劫だと文句を垂れるので、若干の物足りなさを感じつつも、私は踵を返して歩いてきた道を戻る。

あんまり気分転換にならなかったといえば否定できないが、つまるところ肝はケーキだ。歩いて機嫌が治るのならそれほど簡単なことはない。他ならぬ糖分こそが全てを解決するのだ。

ほんの少しだけ軽くなった足取りで歩くこと少し。大通りの脇に贔屓にしているケーキ屋もとい喫茶店が見えてきた。


「いらっしゃい」


少し立て付けの悪くなってきた木の扉をギギっと開けると、精一杯といった様子のしゃがれた声が飛んでくる。


「こんばんわー」

「おぉ、お嬢か。久しぶりだねぇ」

「ご無沙汰してます。今日は...ちょっと混んでますねぇ。ケーキだけ頂いてもいいですか?」

「全然構わないよ。けど、もうそろそろあの席が空くはず...」


おじいさんが見やった方を見ると、ちょうど二人組が席を立つところだった。

中はだいぶ混んでいて満席だと言うのに、どれくらい前に来た人がどこに座っているのかを覚えているあたり流石としか言いようがない。この店、オズがこの辺りで最高峰だと言われる理由は、極上のコーヒーとケーキはもちろんのこと、店主の気前の良さや愛される性格、要領の良さが軽視できない割合を占めている。

席を立ち、そのままお会計に来た二人組に『お先にどうぞ』と対応を譲ると、おじいさんもいちいち確認を取ったりせずに会計を素早く済ませて「ありがとうございました」と見送った。

流石のしごでき具合に小さく手の先だけで拍手しながらおじいさんを見ると、どう?と言わんばかりの顔が帰ってくる。


「折角ですし、コーヒーもいただきますね」

「ケーキはどうしましょう?」

「えっと...」


促されてショーケースを見ると、季節柄かブッシュドノエルがいくつか並んでいた。個人的にはかなり好みなのだが、この時間にあの大きい切り株に一人で齧り付く成人女性という絵面はなかなか見るに堪えないので思いとどまり、無難に昔からよく頼むチョコケーキを頼んだ。

木製の受け皿に丁度の料金を置くと、おじいさんはなんとも言えない微妙な顔を作る。


「今日も”忘れた”なんて言うつもりかい?」

「あ、ハイ。それで」

「あのねぇ...」


忘れた、と私が言おうと思っていたのはむかーしにラズさんに無理を言って作ってもらった無料券のことである。ラズさんはその無料券の代わりとして、当時少しガタの来ていた建物を大々的に改修したらしいので、おじいさんとしてはしっかりと使って欲しいそうなのだが、如何せんそれそのものが欲しかった訳ではなく、話の落とし所としてねだっただけなので端から使う気なんでなかったというのが実情なのだ。

けろりと開き直ると、おじいさんはこめかみをぐいぐいと抑えながら小さくため息をついた。


「これじゃ貰いっぱなしになっちゃうよ...」

「なぁに言うんですか。季節ごとのケーキ、いつも楽しみにさせてもらってますよ」

「それとこれとは別でしょうに」

「まぁまぁ細かいことは良いじゃないですか」


ひらひら手を振ると、おじいさんはしぶしぶといった様子でぎこちなくケーキを取り出し、陶器の美しいお皿に乗せた。


「ご贔屓に、ありがとうね」

「いいえ、おいしい甘味をどうも」


私はぺこりと会釈してから、つい先ほど空いた席に向かった。窓際の二人席。偶然にも、私が最も好んで座る場所で、定位置といってもいい。

席に座り一息ついたところで、飲み物はどうしたものかと少し悩んだ。ここに来たからにはコーヒーをいただきたいのは山々なのだが、眠れなくなると精神衛生上参ってしまう。ココアでもあれば迷いなく頼むのだが、生憎ここにはおいていないのだ。

しばらくの間メニューをぱらぱらとめくっていると、普段はメニューの冊子が一つ入っているだけのブックスタンドに、厚紙が一枚置いてあることに気づいた。

内容は例のブッシュドノエルともう一つ、ショコラショーとう飲み物が書かれていた。下にある説明文を読む限り、いわばホットチョコレートのようなものらしい。


「......すみませーん」


私は顔を上げ、おじいさんが別のお客さんの注文を取り終えたところに声をかけた。


「おきまりですかな」

「この...ショコラショーを一つ」

「ショコラショーね...。お嬢、ココアはお好き?」

「え!?あ、はい。とっても」

「ああ、なら良いんだけど。今回試してみたショコラショー、ホットチョコレートよりかはかなりココアに寄った味になったからさ」

「あ、ココアもベースにあるんです?」

「そうそう。まあ実のところ市販品のココアもショコラショーって言えなくもないんだよ」

「え!?初耳です!」


こんなに好きだ好きだといって飲んでいたのに知らなかった驚きで少し声が大きくなってしまった。慌てて口を手で押さえると、別の卓からおじいさんを呼ぶ声がする。おじいさんは「はーい」としゃがれた声で返答し、「じゃ、少々お待ちくださいね」と私の席を後にした。


「わぁ......!」


ふぅと一息ついて窓の外を見ると、外には白い羽のようなものがふらふらと舞い降りていた。見るのはこれが初めてだが、本で存在自体は知っていた。


(雪だ...!)


ラズさん曰く以北地域ではまぁまぁ降ることもあるそうだが、運が悪かったのか四年の生活の中ではお目にかかれなかった。正直外に飛び出して触った感触やら景色やらを楽しみたいのだが、注文してしまったものもあるし、今は窓から見える世界だけで満足しておいた。

雪は、建物や道に降り積もってこそだと思っていたがとんでもない。ただしんしんと降っているだけであまりに幻想的で、私はしばらくの間、言葉を失って呆けたように景色を見ていた。

そんな風にぼうっと時間を過ごしていると、どれだけ景色が綺麗であろうと思考に意識が回り始めるのが人間、もとい私だ。そして、どこにいきつくかということでさえ、私であれば答えは一つしかない。

ラズさんは、今頃どこからこの景色を見ているんだろうか。

私と同じように窓に切り取られた景色を見ているのかもしれないし、私が望むように、体いっぱいに真っ白な祝福を受け止めているかもしれない。はたまた、空を飛んでいて、まだ雪になる前の子供たちと戯れているのかもしれない。なんにせよ、ラズさんは今もどこかで私と同じ景色を見ているのだろう。

それだけで十分だ。

明日にでも、綺麗でしたね、なんて話ができたなら、それ以上望むことなんてない。

雪じゃなくてもいい。なんだっていい。どこからだっていいから、あんまりにも美しいこの世界を、私独りではとても受け止めきれないこの世界を、ラズさんと共有できるというだけで、充分だ―


―ギィ


扉が開いた音がした。

呆けている間、幾度となく聞いたその音に、何故か形容しがたい予感がして、私は窓から目を離してそちらを見る。


「え...」


そこには、ところどころで跳ねた真っ黒の髪に些か使い古された真っ黒のローブを羽織った、やや”残念”に思える出で立ちの人物が立っていた。

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