ep.88
―コツ。コツ。
硬い靴の裏が石畳を踏む音が聞こえきて、俺は閉じていたかも怪しい瞼を持ち上げた。朦朧とした意識の中、ただ、刺すような冷気と、飢えだけが脳に響く。
果たして、前回はいつだったか。
連日来る時もあれば、今日のようにしばらく来ない時もある。窓の一つでもあれば随分違うのだろうが、地下深いこの場所にはそんなものは無い。すっかりと狂ってしまった日付感覚は当てにならない。ただ、俺がまだ生きているということは三日かそこらだろうか。
手首に嵌められた手錠による擦り傷が酷くなり過ぎて蛆が湧いてきたのをどこか他人事のように眺めていると、いくつかの足音が俺のいる牢の前で止まった。
ガシャンと鍵が開き、耳障りな音を撒き散らしながら開かれた戸から、無駄に何人もいる女の内の一人が入ってくる。
反射的に顔を上げた瞬間、思い切り視界がブレて、気づけば俺は蹲っていた。ぼんやりと見える女の姿勢と、麻痺にも近い左頬の痛みから、恐らくはあの女に蹴り飛ばされたのだろうと分かった。
起き上がる力なんぞ持ち合わせてはおらず、そのまま倒れ込んでいると、顔の前にドサッと何かが投げられる。すえた匂いのするこれは、腐っていたり虫に食われたりした野菜と、カビまみれになったパンだ。
あまりの空腹に、そんなもの関係なく一心不乱に貪ると、途端にくすくすと秘めた冷笑が女たちから上がった。
恥なんてない。食べないと死ぬんだ。
ただ、気味が悪いと思うのは当然だろう。
何も最初はこうではなかったのに。日に日に、俺はあいつらの中でそういうモノになっていったのだ。
少しすると、女たちはわらわらと退散していった。どうやら今日は吊し上げられたり、首を絞められたりはしないようだ。
量だけは嫌がらせのようにある生ゴミを胃袋にしまい込んでいると、食べ物の質に憤ったらしい胃袋が激しく痙攣して、食べた分のほとんどを吐いてしまった。もう、こうして腐ったものを食べるのは数え切れないほどやってきたというのに、未だにこの反射だけは制御出来ない。
体が折れてしまうのではないかと思うほど激しく嘔吐すれど、少しでも胃に残り栄養になるのならば食べないという選択肢は無い。
一頻り食べ終え、吐き終えた俺は、いつもの位置に這いずって戻り、目を閉じた。
辛い。苦しい。そんな感情だけが渦巻く。
なぜ生きているのか、俺自身も分からなかった。これほどまでに苦しいのだから、もう全て諦めて自らの命を絶ってしまえばいいのだ。そうと分かっているのに、抗えない死の恐怖が、俺をここまで生かしている。
誰か。
どこの誰でもいいから。
俺を、殺してくれ。
―ドォォォ…
急に腹に響くような轟音が鳴り響き、天井の石がパラパラと落ちてくる。
ぼんやりとその様子を眺めていると、続けざまに二発、三発と爆発音が響き、微かに聞こえてくる叫び声も相まって、ただならない雰囲気が地下深い牢の中にも届いてきた。
心拍がざわざわと何かの予感をわざとらしく鳴らし、俺は閉じそうになる眼をどうにかして薄く開け続けた。
少しもしない内に階段の方からガタガタと大人数が急いで降りてくるような音が聞こえてくる。何がどうなっているのかちっとも分からなかったが、現状があまりに惨いせいか、俺は無意識にその音に縋っていた。
音が近づき、俺のいる場所より手前にある牢のドアが乱暴に破壊される音が響き渡る。その都度、「いません!」「次だ!」と、切迫した声が聞こえた。
「――――」
助けを求めようと声を出そうとしたが、喉が潰れていて声が全く出ない。
一瞬、このまま見つからなかったら、と嫌な想像が背筋を撫でる。
一つ、また一つと俺のいる場所に近づいてくる。
願った。
それしかできなかった。
「―いた…!グラード隊長!目標を発見しました!」
「安否は!」
「…息があります!」
「運べ!撤退だ!」
「「はい!」」
細い視界に眩しい光が照らされると、声からしてまだ若そうな男が大きく声を上げた。すると少し離れたところから、渋い声が怒号のように返ってくる。
(良かった…)
どうなるかは何も分からない。今より状況が悪化しない保証なんてどこにもない。けれど、抑えようもなく胸の内から安堵が溢れてきて、体の一切から力が抜けていくのがわかる。
遠のいていく意識の端で、手錠がガシャンと外れる音を聞いたのを最後に、俺は全てを希望に委ねた。
―パチリと、風景が変わった。
ほんの少し前の仄暗い場所から、途端に明るくて白い風景が目に飛び込んできて、俺は反射的に目を眇める。
なんとなく、それが正常な気がして体を起こすと、そこで初めて体が燃えていることに気づいた。
不思議と焦りは無かった。何より、熱さや痛みが無いからというのが大きいのだろうが、何故だか、その炎は俺を燃やしていると言うよりは守っているような気がしてならなかったからだ。
しばらく、その不思議で美しい炎をぼんやりと眺めていると、前触れもなく、それは消えてしまった。
―ガシャン!!
あ、と思ったその瞬間、惜しむ間もなく、すぐ近くから大きな音がする。目の前で起こることを事務的に処理することしかしない頭でなんの気なしにそちらを見ると、息の詰まるような美しい女性がそこに立っていた。
月光を独り占めにしたような白銀の髪は腰よりも長く艶やかで、パッチリと開かれた両目は吸い込まれそうな魅力がある。よく見ると左右で色が異なるようで、珍しい白髪と相まって、俺は彼女を女神だとか、妖精だとか、その類のものとして見ていた。
少しして、ようやく彼女が呆然としていることに気づく。
瞳は溢れんばかりに開かれているし、小ぶりな口も制御を失ったように半開きになっている。足元にはマグカップのようなものの破片が散らばっているので、先程の音は彼女がそれを落とした時のものだったのかもしれない。
本当に少しだけ、頭が回るようになってきて、俺は少しづつ自分の状況を認識し始めた。どうやら俺はベッドの上にいるらしく、見たところ、ここは病室のようだ。こうして見てみると、彼女の姿にはどこか既視感のようなものが見いだせる。確実に、会ったことはないのだけど、何かの面影が喉の上の上まで上がってくるのだ。
その正体を探ろうと彼女を見ていると、呆然と、今にも掻き消えそうな声が鼓膜を叩いた。
「...ししょう.........?」
その、鈴を転がした様な、綺麗で、懐かしい響きが全てを思い出させた。
突如として俺の生活に転がり込んできた少女のことを。
笑いあった日々を。
守りたいと、純に思ったあの夜を。
そして、悪あがきの決意を。
「弟子...なのか」
そんなはずはなかった。何せ、弟子はまだ年端もいかない少女で、身長だって、顔立ちだって、雰囲気だって、その全てに幼さが残っていた。対して、目前の女性には幼さなんてものはない。整然として、落ち着いた、大人の女性だ。
しかし、珍しい白髪や片方の桃色の瞳、聞き心地の良いソプラノの声は確かに弟子のものだった。
混乱を極める思考の中、零したような呟きに、彼女はすぐにぴくりと反応して、まん丸の瞳を瞬く間に湿らせた。
―本当に...?
着実に核心へと近づいて行く俺を、けれども彼女は待とうとしなかった。言葉を発するまもなく懐に飛び込んできた彼女は、そのまま、堪えきれない涙声を漏らしながら、縋るように俺を抱きしめた。
少し前のことも、今起きていることも、何から何まで分からずにただ呆然としていると、突然、頭を思い切り殴られたかのような衝撃が俺を襲う。
それが促すままに、気づけば俺も、彼女―いや、弟子に、腕を回していた。恐らくは遠い過去の自分が、こんなところまで来て俺を叱咤したのだ。
少しの間そうしていると、記憶もほとんど戻ってきて、ことの経緯をだいたい予測するくらいのことはできるようになってくる。
しかし、そんな事は今の俺にとっては、心底どうだって良かった。
未だ俺の胸を濡らす涙、縋り付く腕に籠る力、ぴったりとくっ付いて尚震える体、細かく調べるまでもなく磨り減ってボロボロの魔力。
その全てがあまりにも悲痛で、痛々しくて、少し気を抜くと、思わず口をついてしまいそうになる。
けれど、俺が言うべきはそれじゃない。止めるまもなく涙腺が決壊してしまっているせいで、情けない声になってしまうけど、耳の良い弟子なら、きっと、ちゃんと全部受け止めてくれるだろう。
「弟子」
「...はい」
「ありがとう。...ただいま」
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