ep.109
どういうことだろう。
同じ言葉が何度も頭を反芻する。
私は汗の滲む手でオズのドアに手をかけながら、バクバクとうるさい心臓をなだめていた。ラズさんの家からここまでというもの、気が気ではなく、もう病気になってしまいそうなくらいに体が熱かったし、破裂しそうなくらいに胸が高鳴っていた。
いいんだろうか。
期待していいんだろうか。
私はぎゅっと目を瞑り、えいっとオズのドアを開ける。からんころんといういつもの音はがらりとした店内に良く響いた。
もう数えきれないほどオズに来ているが、お客さんが一人もいないところは初めて見た。
私が呆然としていると、おじいさんが奥から音もなく出てきて、にっこりと笑った。
「いらっしゃい。体は良くなったかい」
「あ、はい。ちょっと元気すぎるくらいで...」
おじいさんは私の顔をしげしげと眺めて、とてもご機嫌に笑った。
「じゃろうじゃろう。それじゃあ後のことはラズがやるからの。ジジィはさっさと退散するかね」
「えっ。お店空けちゃうんですか?」
「空けるというか、閉じてるんだよ。お客さん、一人もいないだろう?」
「あれ......あっ、す、すみません。私知らなくって」
「焦らない焦らない。本当に人っ子一人入れないつもりならしっかりカギをかけておくさ。今日と、念のため明日の二日間は、お嬢とラズのために店を空けることにしたんだよ」
「な、なんでですか」
「ラズの頼みは断れん。それに儂としても本望じゃ」
おじいさんはそう言うとずっと持っていたらしい黒のハットをパンパンと二度はたき、頭にキチっと被った。
「これ以上は野暮ってもんじゃな」
おじいさんはすれ違いざまにまたふぉっふぉと笑って、出て行ってしまった。
もうずっとそんな調子だが、それでも一秒ごとに『分からない』が増えていって、私はすっかりとパンクしてしまった。
頭で考えるよりも先に、体が覚えている道をたどり、いつもの席に着いた。窓際の、二人席の左。なんとなくこの場所が好きで、持ち帰る予定だった日だとしても、この席が空いていると、コーヒーを一杯飲んで店内と窓の外をひとしきり眺めてから帰る事が多かった。
そのまま少しの時が経った。時間感覚なんてとうに消え失せているから、正確なことは分からないけれども。
ドアが開き、見慣れた姿が目に入る。
不思議な色の眼に真っ黒で硬そうな髪。いつものローブと、いつもの音。
ラズさんは私の姿を見ると、つかつかとこちらへ歩いてきた。私の向かいの席に座って、机の上で手を組み、解き、もう一度組む。
しばらくは緊迫したような余裕のない視線でうつむいていたが、ちらりと、私の顔を見てから、一転からっとした笑みを浮かべた。
「色々とちゃんとした道順を考えてきたはずなんだけど、全部忘れちまった」
ラズさんはけらけらと笑った。幼く、あどけなく笑った。
「手、出して」
「え...手ですか」
「そう、手」
ラズさんに言われるがまま左手を出すと、ラズさんはその上に何かをころんと転がした。見れば、それは初めて会ったときに魔力量の検査のために使ったビー玉のような球体だった。意図が分からず困惑している私に、ラズさんは「球面が凪いだら弟子卒業な」と言う。
私はあっけにとられた。だって、それはもう分かりきったことだったから。
当然、球面は三年前と同じくうっすらとした青を残して凪いだ。ラズさんはそれを確認して、「よし、弟子は卒業だな」と、予定調和の茶番のように言った。
いよいよ弟子を卒業してしまった。私はおいてけぼりになりながらも、その事実がもたらす不安を感知していた。この続きが、ただ怖かった。
そんな私を見て、ラズさんはほんの少し笑った。そして、そのまま私の左手を取って、ビー玉とかわりばんこに何かを置いた。
「俺の中で絶対に避けたいことがあったんだよ」
ラズさんがその姿勢のまま話始める。
「お前は昔っから弟子を卒業した後の心配をしてただろ?」
「...そうですね、なので、今とても怖いです」
「だと思って、お前が安心できる状況をすぐに作ってやりたかったんだ。その準備に時間がかかっちまったし、俺は俺で変に緊張しちまってお前とろくに話せないわで、お前にはここ数日辛い思いをさせたと思う。ごめん」
「...じゃあ、師匠は私の事...、きらいになったわけじゃないんですね?」
私が訊くと、ラズさんはさっきよりも分かりやすく笑って、肩を揺らした。
「俺からしてみれば、そんなことあり得ないんだけどな。俺らの関係が切れるときは、多分俺に原因があってのことだろうと思ってたし。あと...」
ラズさんは左手でふにふにと私の頬をなでた。
「もう師匠じゃないぞ」
そう言いながら、ラズさんは手をはけて、私の左手を開かせた。そこには紺のベルベット地の小さな箱に、深い赤の宝石の付いたリングがキラキラと光っていた。
ラズさんが顔を上げる。目が合った。そして、ラズさんは微笑んだ。言葉は不要とばかりに、私の頭の中に文字浮き上がる。その上を、まるで広大な原っぱが北風に段々と翻るように、ラズさんの声がなぞった。
「好きだ」
短く呟かれた言葉に、私は顔を真っ赤にする。心臓が異常なほど高鳴って、全身にめぐる血が沸騰したような感覚だった。
「お前の真っ直ぐなところが好きだ。誰にでも優しい良心が好きだ。撫でた時にほどける顔が好きだ。お前と生涯を供にしたい。寄り添いたい。寄り添ってほしい」
私はただ聞くことしかできなくなって、頷くことすらできずにラズさんの言葉を聞いた。私も、ラズさんの言った言葉の一つ一つに想いがあるのに、なにも喋れなかった。或いは、喋るべきじゃないと頭のどこかで分かっているからかもしれない。
「結婚しよう」
何よりも先に涙腺が壊れて、それから私はラズさんに飛びついた。ラズさんの肩に顔をうずめ、濡らした。
私は何から言えばいいのか全く分からなかった。ずっと、ずぅっと想っていた。どこを切り取って話せばいいのか分からなかった。
言葉にならない言葉で、半ば呻くように縋り付いていた私を、ラズさんはなだめるように撫でた。
「ごめん。待たせたよな」
優しい声だった。私は反射的にかぶりを振って、ラズさんから離れ、目を合わせる。
肺が役目を終えたみたいな顔をしていて空気が吸えている感覚がなかったが、それでもお腹に精一杯の力を入れて、声を出した。
「私も、師匠のことが好きです。何よりも、あなたが大切です」
まだまだ言うべき事はたくさんありそうだったけれど、体力の限界がきてしまって、私はもう一度ラズさんにもたれかかった。
「弟子、もうちょっと辛抱してくれ。ほら座って」
元気づけるみたいに一度抱きしめてから、ラズさんは私を席に戻した。
そして、机に置かれた指輪を手に取り、私のくてんと脱力した左手を持ち上げた。
「お前ってほんと、一回力抜けるとダメになるよな」
ラズさんはおかしそうに笑ったが、私はその言葉でどこか面倒くさいところに火がついた。
よく見れば、ラズさんが指輪を嵌めようとしてくれているではないか。全部任せきりじゃ、ラズさんが一方的に婚姻したような絵になってしまう。
そう思うとにわかに力が湧いてきて、私はしゃきっと座り直し、ちゃんと自分の意思で左手を差し出した。『あなたよりも私のほうがそうしたいんですからね』といわんんばかりに。
ラズさんは私の変わりようを見て最初は驚いていたが、やがて相好はやわらかく崩れていって、終いには「お前は本当に愛くるしいやつだよ」なんて言い始めた。その音を私は生涯忘れないだろう。
ラズさんはひだまりのような笑みを湛えながら、私の薬指に指輪を嵌めた。
「幸せにする」
「私も、師匠を幸せにします」
「いや、お前が幸せなら俺は幸せだから」
「そんなこといったら私もです」
「む」
「むぅ」
一瞬、形だけでにらみ合った私たちは、同じタイミングで吹き出した。お互い、頭がカチコチで、相手のことしか考えてないのだ。
「師匠......いえ、ラズさん」
私たちはこれから夫婦になるんだからと、ずっと呼びたかった名を口に出した。心のなかでは、ずっとそう呼んでいた。やっと呼べる。私が好きなのは師匠じゃなくてラズさんなんだ。
「一緒に、幸せになりましょう?」
「あぁ」
どんな未来も怖くない。あなたが居ればそれでいい。
あの日。
まだ日の上らないうちに家を飛び出したあの時から、私の運命はラズさんに括られていたんだ。
―あぁ
独りじゃないって素敵だ。
あなたがいるって素敵だ。
最終話になります。
ご愛読いただきありがとうございました。




