ep.108
病院から家までの道のり。
こっちに来てから、もう何度往復したか分からない。
温かなまどろみのような春の朝に歩いて、何かとやかましくて元気な夏の昼下がりに歩いて、趣きの限りを散らしたような秋の夕方に歩いて、一つ向こうの町の音まで聞こえてきそうな程澄み切った冬の夜に歩いた。
すっかりと最短の道を覚えてしまって、目をつむっていても或いはたどり着けるかもしれない。
病院を出たら左に曲がって大通りをしばらく進む。魔法院に繋がる交差点を渡って、右に曲がり、大きな欅の木を目印に小道に入っていく。少しずつ左に曲がっていく下り坂を下りて行くと突き当りによく行く精肉店がある。そこを左に曲がればもう家だ。
そういえば、と服のポケットを探してみたが、家の鍵がなかった。考えてみれば、何一つ持たないまま家を飛び出したのだから当然だ。
私は家の前で少し立ち尽くした。
ちゃんと謝らないと。迷惑かけてごめんさないって言わないと。
ふう、と一息ついて、ドアを叩こうとした瞬間、それなりの勢いでドアが開き、私のおでこに思い切り当たった。
「あだっ!」
「あ?弟子?」
おでこをさすりながら扉の内側からひょっこりと顔をのぞかせるラズさんを見上げる。ラズさんはラズさんで、驚いたのやら安心したのやら気まずいやらの感情が顔の上を高速で滑っていっていて、とても珍しいものを見たような気分になった。
「出てこれたのか。よかった」
「はい......あの、」
私はぎゅっとお腹に力を入れて、しっかりするんだ、と己に言い聞かせて声を張った。
「迷惑かけてごめんなさい!」
思い切り頭を下げた。もう二度と元には戻れないかもしれないから、一から関係を作り直すくらいの勢いで謝った。
しかし、ラズさんはしばらく、声を発することはなかった。
耳が痛くなる沈黙の後、先に折れてしまったのは私だった。私は顔を上げてラズさんの顔をちらりと見る。
(......え?)
ラズさんは、酷い顔をしていた。眉に皺を寄せて、唇を噛み、拳を固く握っていた。私には、その表情が何なのかさっぱりわからなかった。なんでラズさんがそんな顔するんだろう。まるで悔やむみたいな。まるで今の私みたいな。
ラズさんは私と目が合うと、口を開いて、閉じてを三回繰り返した。それから、ようやっと、絞り出すみたいに声を出す。
「違う。俺が悪いんだ」
「なんで...なんでですか......?」
「俺の甲斐性がないのが悪いんだ。謝りたいのは俺の方だよ。......ごめんな。辛かったろ」
訳も分からないまま立ち尽くしていると、ラズさんが私を包み込むようにそっと抱擁した。
私は心底安堵していた。ラズさんがなぜ謝っているのかも分からないのに、まるで全部詳らかになって誤解が解けたかのように安心していた。頭だけが取り残されて、何一つ分からないまま情緒だけがどこまでも走って行ってしまったみたいだ。
ただ抱かれたまま、抱き返すことすらないまま、時間が経った。永遠のようで、一瞬だった。
ラズさんは私から離れた後、ポケットから幾らかのコインを出した。
こちらに差し出してくるので、黙って受け取ると、どうやら何枚かのコインは純銅貨らしい。
「オズに行ってくれないか」
「オズ、ですか?なんで...?」
「俺とお前の関係を変えるため」
「えっ」
あまりにも大きい感情と、重い決意の籠った声だった。何がしかの予感めいたものが背筋を撫でて、全身に鳥肌が立った。
言われるがままポケットにコインを入れ、数歩下がると、ラズさんが「色々準備するから先に行って待っててくれ」と言い残して扉を閉めた。
私はやはり立ち尽くしていた。
いや、体は、心臓は、ばくばくと脈打って暴れている。今にも叫ばないと、走らないと、どうにかなってしまいそうなのに、足がおいてけぼりになって動かない。
絡まった思考でどうにか導き出したのは、『とにかく、何も考えずにオズに行こう』ということだった。
私は踵を返して大通りを目指して歩き始めた。まだ春先は遠いというのに額に滲んだ汗をぬぐいながら。
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