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ep.107

夜空に上っていく月をぼけっと眺めていたある日。

私は頬杖をついて窓の外を眺めながら、ラズさんのことを考えていた。というのも、この頃のラズさんはなんだか様子がおかしいのだ。体調を崩しているわけではないし、予定が立て込んでいるわけでもない。それなのに、ふらっとどこかに出かけたかと思えば夜遅くまで帰ってこなかったり、いつもより明らかに呆けている時間が長かったりと、どこか心ここに在らずといった様子なのだ。加えて、話していても何かを隠しているときの音が時折聞こえてくるので、私の考えすぎとも思えない。以南地域を回ったあの日からというもの、薄壁一枚隔てて関わっているみたいに、距離を感じる。

何か、嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。と、そこまで考えて、とんでもない既視感に襲われる。そういえば、ラズさんが私の誕生日を祝おうと計画していた時もこんな調子だった。しかし、今回とは明確に違う点がひとつある。

前は高々数日だったのに、今回のはかれこれ一か月もこんな調子なのだ。あんまりにも長いものだから、私は私に自信がなくなってしまった。なんとなく、ラズさんが冷たいような気がするこの日々が常習化されているような気がして、とても、とても寂しい。気づいたときには思考がネガティブな方に転がってしまって、いつもの楽観は成りを潜めている。昔は、ラズさんに拒絶されようと諦めずに突撃するべし、と思っていたが、実際にそうなってしまえばそんな無鉄砲な行動ができるはずもなく、最近はとうとう家を一度出て距離を作った方がいいのかもしれないなんて考えてしまっているほどだ。

開け放った窓からまだ少し棘のあるくらいに冷たい風が吹いてきて、少しばかりの眠気を取り去ってしまった。もやもやと考える日々が始まってからというもの、眠れないのが常になってきていた。今日も今日とて、ラズさんは外に出払っていて、家には私一人だけだ。

あぁ、ラズさんは今どこで何をしているんだろう。嫌だなぁ。変な想像が頭にぐるぐるととぐろを巻いているみたいだ。もしかしたら、ラズさんは昔の私の方が好きだったんじゃないかという推測があっちこっちに枝を伸ばして私を支配する。頭の中がラズさんでいっぱいで、それなりに美しいはずの夜空でさえ『星が多いなぁ』ぐらいにしか思えない。ズキズキして、顔をしかめたくなる。自然と眉に皺が寄る。気を抜くと視界がぼやけてくる。


でも―


ラズさんが臥せっていたあの三年間に比べればなんてことはない。ラズさんが生きている。一番好きな人が生きている。なら、それでいいじゃないか。ラズさんが私以外に幸せを見つけたのだとしても、それでいいじゃないか。私なら、きっと耐えられる。きっと大丈夫。ラズさんがどこかで幸せに生きているという事実だけ貰えれば、後は一人でも生きていける。だから......


私が鼻をすすった音にぴったり重なるようにして、家のドアがガチャンと開いた。

私は反射的に玄関に小走りで走っていき、ラズさんを迎えた。


「おかえりなさい」

「ただいま......まだ起きてたのか」

「はい...どこに行ってたんですか?」

「いや、適当にふらついてただけ」

「......本当に?」

「な、なんだ、よ......」


靴を脱ぎ終えたラズさんが改めて私の顔を見て、不自然に言葉を詰まらせた。


「おい...大丈夫か?」

「え...?」

「いや、お前......」


ラズさんは酷く狼狽したような顔をして、私の頬に手を添えた。


「なんで、泣いてるんだ?」



―――


ぽつりと鼻先に水滴が落ちてきた。

ふと空を見上げると夜空の綺麗な紺色が鈍色の曇天に塗り潰されているのが見える。

私は、寝そべっても余裕がありそうなほど巨大な切り株に腰かけていた。ラズさんの帰りを迎えた先ほど、なにがなんだか分からなくなてしまって、目的を定めるでもなく転移した先は森の中だった。そこから少し歩いて切り株を見つけ、放心し始めてから体感一時間は経っただろか。

気づけば雨脚はどんどんと強くなっていって、たちまち私の全身を濡らした。

案外、一度濡れてしまえば気にならなくなるもので、むしろ雨の弾ける音が心地よくなってきた。雨風に身を任せていると、突然冷静になってきて、何をしているんだろう、と焦りのようなものが湧き上がってきた。

ラズさんも心配しているはずだ。早く帰らなければ。

私は立ち上がろうと足に力を込めて、失敗した。


―会いたくない


初めて思った。

後ろめたいことがあったり、恥ずかしかったり、一時的に顔を見ないでほしい時間はあったが、これほどまでに強く”会いたくない”だなんて思ったのは初めてだ。

多分、自分でも何をしているのか、何を求めているのか、何を思っているのか、全く分かっていないからだろう。今、ラズさんに会っても、私はどうするべきか一つも分からない。話せることがなんにもないのだ。

いや、一つは分かる。私は多分、怯えている。こんな衝動だけで動いて、訳の分からない女だと思われるのが怖いのだ。失望されるのが怖い。ただでさえラズさんと私の時間は少なくなったというのに、私がこんな体たらくじゃ、もう決め手となってしまうかもしれない。

失敗した。話もせずに逃げるというのは私が一番嫌いなことで、ラズさんが一番嫌いなことだ。なんだか、今までの全てを裏切ってしまったように思う。二人で紡いできた不文律がもう信じられなくなってしまうのではないか。それは一緒に過ごしてきた日々そのもので、私は自分でも分からないような感情に突き動かさるがままに、その悉くを壊してしまったんじゃないだろうか。


やり直したい。


でなければ、もう消えてしまいたい。


あぁ。もう、考えたくないな。


私は体が急激に重たくなるのを感じて、切り株に倒れこんだ。切り株に当たって弾ける水滴が顔にぴちゃぴちゃと飛んでくる。それも気にならないくらいには、私は疲れていた。脳が休めと無理やりにでも体の電源を切っていくみたいに力が入らなくなっていく。頭の内側からドンドンと音が響いてきて、視界はぼやけて、耳がさえてくる。


―懐かしいな


あの日も、こんな曇天で、森の奥地だった。まだ小さかった私は、吹けば飛ぶような体で森に入り、そして意識を失った。

ここでこのまま眠ってしまったら、私はどうなるだろう。少なくとも、死ぬってことはない。でも、長い事気を失うのは確かだろう。加えて、ここは私ですら何処かわかっていない森の奥地だ。どんな脅威があるかもわからない。魔獣に襲われて、果たして無事でいられるだろうか。もっと根本的な話、帰り方すら皆目見当もつかない。

ラズさんはなんて思うかな。

焦るかな。

悲しんでくれるかな。


探してくれるかな、なんて酷い我儘が浮かんだのを最後に、私は意識を手放した。


―――


温かい。

それに、ラズさんの匂いがする。

私はまどろみの端っこでぼんやりとそれを捉えた。しかし、体は言うことを聞かず、瞼の一つも上がらない。


「――」

「――――」


誰かがしゃべっているのだろうか。声というよりは音という感じがする。内容なんて当然分からない。


(あー、ダメだ)


私は力の限り抵抗したが、抵抗虚しくまどろみの荒波に飲まれた。


―――


ぱちりと目を開ける。

親近感のあるような、それでいてどことなく冷たい印象の白い天井が目に入った。

私は体を起こし、辺りをぐるりと見まわした。白い壁に木目調の床。私が寝ていたベットには、浅い緑の掛け布団がかかっている。窓は小さく一つ。カーテンは安っぽい水色。ベットのすぐそばには木製の小さな棚がある。

見間違えるわけもない。ここは、三年間足しげく通っていた病室に他ならない。結局、私は誰かに見つかって無事に戻ってこれたみたいだ。

一日経ってみるとかなり頭も冷静になってくるもので、昨日はなんであんなことしようと思ったんだろう、と深い後悔が私を襲った。きっといろんな人に迷惑をかけたんだろう。一体誰が見つけてくれたんだろう。ラズさんだったら嬉しいけれど、ラズさんだったら申し訳ない。

ちゃんと謝らなくちゃ、と決意を新たに、さてどうしたものかともう一度部屋の中を見回すと、棚の上に走り書きのようなものが置いてあった。

どうやら住所のようだ。すらすらと読み進めていくうちに、全く同じ文字数字を何度も何度も見書きしてきたことに気づく。


(ラズさんの、家?)

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