05 モブ、天才の乱心に苦しむⅣ
「モルグレイド、頼むからイスファーナを正気にする術を教えてくれ」
陣地での軍務を終えてすぐ、イスファーナをまいたオレはモルグレイドにすがりついていた。なにか知っている風にしているモルグレイドなら頼れると踏んだのだ。
帰りのトロッコでのイスファーナのじっとりとした粘ついた目つきはもうこりごりだ。これから一生あんな風にみつめられるのなら死んだほうがましである。
「うーん、どうしたものかなぁ。僕としては君がどうなろうとどうでもいいんだけど……」
「頼む、オレにできることならなんでもするから」
オレが頭をさげると、頭上からモルグレイドのため息が聞こえてくる。
「しかたがないなぁ、わかったよ。お礼はいい、あのままだったらイスファーナがかわいそうでしかたがないからね。僕はいつだってかわいい女の子の友なのさ」
モルグレイドがあざとくウインクする。オレがそれを実に冷めた瞳でみつめていると、にっこり笑いかけられた。
「助けを求めてきたのは君じゃなかったのかい。僕としてはこのままイスファーナに追いかけまわされる君を楽しんでもいいんだよ」
「すまなかった、どうかオレを救ってくれ」
もはや手段など問うことができないオレはすぐさま土下座する。それにうんうんと頷いたモルグレイドは考えこむように顎に指をあてた。
「とはいえ、僕がこうしろなんて言って思い違いした君が地雷を踏みぬいたらよけいにイスファーナを苦しめてしまう。そうだな、ここはヒントにとどめておこう」
モルグレイドがすっと笑みをひっこめた。すれ違いざまにオレの肩をつかんで耳もとにささやく。
「イスファーナのゲッシュを、よく考えてみることだ」
ではがんばってくれたまえ、そんな風に言い残してモルグレイドはどこかに去っていってしまった。オレはモルグレイドの言葉を口のなかで転がす。
「ゲッシュ……」
ゲッシュとは狩人たちが生まれながらにもつ禁忌のことだ。なにも考えずとも魔術がつかえる精霊と違って、人は縛りをかけて初めて魔術を手にすることができる。
ゲームらしいと言ったららしいだろうか。
ゲッシュは人によってバラバラなのだが、その狩人にとってとても困難な縛りがかけられることがほとんどだ。
たとえばオレのゲッシュは後退しないことである。死にゲーの『妖精たちの狩人』から逃げたいオレからしてみれば迷惑なことこの上ない。
すこしでも戦地から逃げようなど考えれば魔術の威力ががくんと落ちるのだ。そのかわりなかなか重宝する我ながら優れた魔術を手に入れられるのだが。
イスファーナのゲッシュは、そう言えば実にあいつらしいものだった。初めて聞いた時は心にすとんと落ちたことが頭に残っている。
「あいつのゲッシュは、心から忠誠を誓うことのできる誰かがいることだったか」
たしかに、いつも偉そうにしているあのイスファーナが誰かに尻尾をふる姿など考えられないものだ。そもそもオレに命じられることすら嫌がるというのに。
だが、イスファーナにはたしかに天才と名乗るにふさわしい魔術がある。
ということはゲッシュを守っているということで、オレはこの世のどこかにあいつを飼いならした人がいるのだとは考えていた。ちょっとした尊敬すらある。
オレにはどうすればイスファーナが膝を屈するのか思いつきもしない。
◆◆◆◆◆
「それで、今晩もオレのベッドを占領するつもりか」
「……うるさい」
オレの袖をつまむイスファーナはそっぽをむいた。その腕とオレの手首とは、昨晩のそれよりもはるかに太い三つの手錠でつながれている。
どうやらオレが手錠をちぎって逃げだしたことがかなり気に食わなかったらしい。
モルグレイドはイスファーナをかわいい女の子などとほざいていたが、人を鎖で縛りつけるやつのいったいどこがモルグレイドにそう言わせるのかわからなかった。
まあ、たかが鉄ごときで縛りつけられるようならオレも狩人になっていない。また隙をみて談話室のソファの下に隠れるとしよう。
そんな風に考えていると、イスファーナにギョロリとにらまれた。
「言っておくが、もし今晩も逃げようものならわたしはなにをするかわからないぞ」
「はいはい」
握りしめられた手がぎゅっと締めつけられる。息を荒くしながら、イスファーナはオレの肩に爪をたてた。
「脅しではない、ほんとうになにをするか今のわたしでもわからんのだ」
その瞳はドロドロとして、イスファーナですら己の激情に脅えているようだった。
それを目にして、ビンビンと嫌な気がしたオレはすぐさま考えをかえた。このイスファーナに逆らうのは厄災レベルの妖精ぐらいマズいと魂が告げていた。
「わかったとも、オレはすくなくともこの晩は逃げないでいよう」
「……わたしに、信じさせてくれよ」
苦しそうにそう口にしながら、イスファーナが肩にかけていたショールをはずし、パジャマ姿になってベッドに潜りこんでいく。
そのちいさな背から目をそらして、オレもイスファーナから遠ざかって毛布にくるまった。
◆◆◆◆◆
それは、灯りを暗くしてからしばらくした、夜ふけのことだった。
なぜか暑苦しくてろくに寝れやしないオレは目をさましてしまう。その訳はすぐにわかった。
白くて細い足がオレにまとわりついている。
まるでコアラにでもなったつもりなのか、イスファーナはオレの背にぴったりとくっついて眠りについていた。
暗闇のなかで、背にイスファーナの熱が伝わる。背後からシャツにしがみついてくるその腕には思ったよりも力がこもっていて、オレはうんざりした。
「暑いじゃないか、退いてくれ」
「……」
だが、聞こえてくるのは沈黙のみである。
やはり今晩は逃げられそうにないな、そうため息をついてオレが瞳を閉じたその時だった。シャツがじんわりと濡れたような気がした。
「イスファーナ?」
「嫌だ、一人きりはもう嫌なんだ……」
オレの背に顔をうずめるイスファーナの声は、今にも泣いてしまいそうに震えている。恐らくは寝言なのであろうそれを耳にするオレはこの上なく気まずかった。
オレの背を握りしめるその手にどんどんと力がこもっていく。
爪が食いこんで痛いぐらいだ。悪夢でもみているのか、イスファーナはぐりぐりと頭をオレにおしつけながら涙をこぼしていた。
イスファーナの瞳からこぼれた雫がオレのシャツをしっとりと温めていく。
「ミッカネン、ミッカネン、いかないで、いかないで……」
いきなりオレの名が耳に入ってきてドキリとした。だが、すぐにそのまるで迷子になった幼子のようにか細く脅えているイスファーナに驚く。
こんなイスファーナは聞いたことがない。オレはもうイスファーナがなにを考えているか訳がわからなかった。
凡人と嘲るオレのことを嫌っていたのではないか。あれだけ罵ってきて、話しかけたなら眉をひそめられて、あれらはオレが気に食わなかったからではないのか。
だというのに、なぜそんなに悲しそうにオレの名を口にするのだ。
「いや、いや、ミッカネン。お願いだから、わたしをおいていかないで……」
嗚咽が、静かにベッドの上でほどけていく。こんなに苦しそうにしているイスファーナをオレは耳にしたことがなくて、黙りこくるしかなかった。