第8話:束の間の静寂と不穏な影
世界を白く染め上げた光が完全に消え去った後、通路には奇妙な静寂が訪れた。先ほどまで空間を歪めていた『バグ』の兆候は鳴りを潜め、異形の怪物バグ・キメラがいた場所には、不気味なくらい何も残されていない。まるで、嵐が過ぎ去った後のようだ。
だが、俺自身の状況は嵐の中にいるのと変わらなかった。
「はあっ、はあっ……くっ……」
壁に背中を預け、荒い呼吸を繰り返す。全身が鉛のように重く、指一本動かすのすら億劫だ。頭の芯がズキズキと痛み、視界もまだ完全にははっきりしない。先ほどのスキルの暴走――エリシアの言葉を借りるなら、存在情報の『削除』の試み――は、俺の体力と精神力を根こそぎ奪っていったようだった。
「ノア、しっかり! 無理しないで、今は呼吸を整えることに集中して」
エリシアが俺の隣にしゃがみ込み、心配そうに顔を覗き込む。彼女は手早く水筒を取り出すと、俺の口元に運んでくれた。
「少しずつでいいから、飲んで」
促されるままに水を飲むと、乾ききった喉に染み渡り、少しだけ意識がはっきりしてきた。
「……ありがとう、ございます……エリシアさん」
「お礼なんていいから。それにしても、無茶するんだから……」
エリシアは呆れたように言いながらも、その声には安堵の色が滲んでいた。彼女は俺の額に手を当て、脈を取り、瞳の動きを確認する。
「見たところ大きな外傷はないけど……魔力、というか生命力そのものを無理やり引き出した感じかな。スキルの反動がどれほどのものか分からないし、しばらくは安静にしてないとダメそうだね」
彼女の診断を聞きながら、俺は自分の右手に視線を落とす。まだ微かに震えているが、あの暴走時の、自分の意思とは関係なく力が溢れ出すような感覚は消えていた。
(あれは、一体……? 俺のスキルは、本当に……)
【収納】とは似ても似つかない、破壊的で、根源的な力。その片鱗に触れたことで、期待よりもむしろ、底知れない恐怖を感じていた。あんな力を、俺は制御できるのだろうか。
ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた場所で勇者パーティーの三人がこちらを窺っていた。ゴードンとセリアは依然として怯えたような表情で、警戒心を露わにしている。一方、カイトは腕を組み、厳しい顔つきで俺とエリシアを値踏みするように見ていた。その瞳には、先ほどの驚愕や混乱に加えて、新たな感情――嫉妬や疑念、あるいは利用価値を見定めようとするような色が混じっているように見えた。
「……おい」
カイトが、低く威圧的な声で口火を切った。
「状況は分かっているんだろうな、ノア。お前がやったことで、あの化け物は消えたようだが……説明してもらおうか。その力は、一体何なんだ?」
「待ちなさい!」
エリシアが鋭く遮る。
「今はノアを休ませるのが先決でしょ! それに、説明を求めるなら、あなたたちから先にすべきことがあるんじゃない? あの化け物とバグは、あなたたちが原因なんだから!」
「ぐっ……それは……」
エリシアに核心を突かれ、カイトは言葉に詰まる。セリアとゴードンは気まずそうに視線を逸らした。
「石版、と言っていたわね」
エリシアは追及の手を緩めない。
「どんな石版だったの? どこで見つけて、何をしたの? あのバグの影響は、ここだけなの? 他にも何か異常は起きてない?」
矢継ぎ早の質問に、勇者たちは曖昧に口ごもるだけだった。
「いや、それは……奥の広間にあった古い石版で……」
「まさか、あんなことになるなんて思わなかったのよ!」
「俺は最初から嫌な予感がしてたんだ!」
責任のなすりつけ合いと、言い訳ばかり。彼らの話からは、具体的な情報はほとんど得られそうになかった。おそらく、自分たちが何をしでかしたのか、正確には理解していないのだろう。
「……はぁ。まあ、いいわ」
エリシアは早々に彼らから情報を得るのを諦めたように、ため息をついた。そして、自らの解析ツールを取り出す。
「あなたたちの話はあてにならない。自分で調べるから」
彼女はツールを操作し、周囲の空間情報をスキャンし始めた。ピピピッ、と電子音が静かな通路に響く。
「……ふむ。空間の歪み自体は、さっきのノアのスキル(?)の影響か、かなり収まってるみたいだね。一時的なものかもしれないけど。ただ……」
エリシアは眉をひそめる。
「空間情報には、まだ微細なノイズが残ってる。完全に安定したわけじゃない。それに……ノアのあの力、空間そのものにかなりの負荷をかけたみたい。観測データに異常な揺らぎが出てる……。むやみに使うのは危険すぎるね、あれは」
エリシアの分析を聞きながら、俺はスキルの代償の大きさを改めて実感する。あの力は、切り札になるかもしれないが、同時に諸刃の剣でもあるのだ。
「とにかく、ここで長居はできない」
エリシアは解析を終え、今後の行動について話し始めた。
「ノアの回復が最優先だけど、いつまでもここにはいられない。食料も水も限られてるし、この先に何があるかも分からないんだから」
彼女の視線が、勇者たちに向けられる。
「あなたたちも、私たちについてくるんでしょ? だったら、少しは役に立ってもらわないと困るんだけど」
「なっ……俺たちに指図する気か!」
カイトが噛みつくが、エリシアは平然と受け流す。
「指図じゃない、提案だよ。私たちもあなたたちも、今は協力しないと生き残れない状況でしょ? それとも、三人だけでこの先生き残る自信があるとでも?」
正論を突きつけられ、カイトは再び押し黙る。ゴードンとセリアは、明らかにエリシアの提案に乗り気な様子だ。彼らにとって、今の俺たち(特にエリシア)は、頼らざるを得ない存在に見えているのだろう。
カイトは忌々しげに舌打ちすると、吐き捨てるように言った。
「……分かった。今は協力してやる。だが、勘違いするなよ。俺は貴様らを認めたわけじゃない。特にノア、お前のその力については、いずれ詳しく聞かせてもらうからな」
その言葉には、明らかに上から目線の響きがあった。追放した相手に対する態度とは到底思えない。
(……変わらないな、この人は)
俺は内心でため息をついた。窮地に陥ってもなお、その傲慢さは健在らしい。昔、駆け出しの頃は、もう少し素直なところもあった気がするのだが……。いつから、こうなってしまったのだろうか。
「じゃあ、決まりね」
エリシアはカイトの態度を意に介さず、話をまとめる。
「ノアがある程度動けるようになるまで、ここで少し休憩。その後、遺跡の奥、転送装置があると思われる方向へ進む。いいわね?」
異論は出なかった。
束の間の休息。俺は壁にもたれたまま、回復に努める。エリシアは、警戒を続けながらも、時折俺に声をかけ、解析ツールで周囲の状況をチェックしていた。勇者たちは、少し離れた場所で、それぞれ武器の手入れをしたり、気まずそうに黙り込んだりしている。奇妙で、そしてひどく緊張感の漂う休息だった。
一時間ほど経っただろうか。頭痛はまだ残っているが、体の重さはだいぶましになり、なんとか立ち上がれるくらいには回復していた。
「……もう、大丈夫そうです。歩けます」
俺がそう言うと、エリシアは安堵の表情を浮かべた。
「よし、じゃあ出発しようか。無理はしないでね」
俺たちは立ち上がり、遺跡の奥へと続く通路に向かって歩き出した。勇者たちが、その後ろを警戒するように、しかし渋々といった様子でついてくる。
だが、数歩進んだところで、エリシアがピタリと足を止めた。彼女は解析ツールを食い入るように見つめ、その顔色が変わっていく。
「……どうしたんですか?」
俺が尋ねると、彼女は厳しい表情で顔を上げた。
「……まずい。奥で、また何か起きてるみたいだ。さっきとは違う……もっと大規模で、不安定なエネルギー反応が……!」
エリシアの言葉を裏付けるかのように、遺跡の奥深くから、地鳴りのような低い振動が、再び俺たちの足元に伝わってきた。